前回のメルマガの隠しテーマとして運の強さ( 運の良さ )は、何が関与するのか?というのをまぶしたことは記憶に新しいと思います。


 
 具体的には、明治時代の偉人・傑士のおひとり「 山本権兵衛翁 」が、意外な形で奥さんと出会ったいきさつのことを紹介し、
その後の不思議な運の良さについては、なんらかの法則関係があるのではないか?その運の良さの本質を探り、´それ´を知ることで私たちの生き方や生活に役立て得ることがあるのではないか?ということで少し言及してみました。



こういう法則が作用してるのではないか?というのは仮説ですし
 戦争が関わってる方を扱うのは、流行らないんですが・・あえて今回もこのことについて記事にしてみます。




そもそも私が山本権兵衛という方に興味を持ったのは、



不思議に運のよい方と言われている「 東郷平八郎元帥 」のことを深堀りで調べたことがありまして、それがきっかけになっています。

 

東郷平八郎という方を一躍有名にし「 TOGO 」にしたのは


 ロシアの南下政策との軋轢で衝突した日露戦争の最終局面・・日本海海戦において翁が連合艦隊司令長官として指揮しバルチック艦隊を撃破したこと

 これが、その名を世界に押し上げる大きな要因になったと言われてます。

 ※ちなみに、私の場合、日本という国は、わりかし好きなほうだと思ってますが・・あまり頓着ありません。 ・・かなりドライなほうです。

 例えば・・1世紀ころの日本とギリシャ、ローマ文化比べてみたら、その文化、技術水準等
歴然の差でして日本人が1世紀頃に火起こししてるときにギリシャ、ローマあたりでは、こんな建築物を作ってますんで・・ホントまあ、よく追いついたと思う・・こういうのを大局的に俯瞰すると、これからはアジアの時代ってのも荒唐無稽な話ではなく、なんとはなしにおぼろげに見えてくるものがある気もしますが・・・

 bunkahikaku

 ※今のローマやギリシャの現状見ると、諸行無常と申しますか・・こういうのを俯瞰すると国運の興隆と衰退に魔訶不思議なものを感じる・・ 




 それはさておき


 この海戦では、秋山眞之参謀などの立てた戦略・戦術が、うまくはまったのはもちろん、幾ばくかの幸運が重なったことも勝利につながった・・とされていまして、東郷翁の運のよさを象徴するものとして位置付ける方も多いようです。



このとき、もし日本がロシアに負けてたらどうなってたでしょうか?

 太平洋戦争で日ソ中立条約を一方的に破棄されて、あっという間に侵攻され占拠された
「北方領土」

 これは、日本以外の大国のいろんなしがらみや軍地政学的なことなどが絡みついてて、なかなか前に進まない外交問題の一つですけど・・

 この問題が70年経った今現在ですらも解決されず、いまだに北方4島が返還されてない、うら寂しい現状を考えたら・・よくわかりますよね・・

 

 ちなみに日本の固有の領土で占拠されて、解決のめどがまだ立ってない島のひとつの
択捉島( えとろふとう )は3186kの面積があります。
 これ・・あまりピンと来ないかもしれませんが
沖縄の大きさが島全部合わせて2271k( うち沖縄本島 1207k屐)の大きさで
沖縄より大きいんですよ。鳥取県が、3507kなので、択捉島とだいたい同じくらい。

 国後島だって1490kの大きさがある。
 香川県の面積が1862 kですんで、あんまり変わらない・・

 歯舞群島が100k
 色丹島が253kです。

hoppouryoudo

  戦争は悲惨・・・もう、どっちとも正しいと思ってるからお互い戦争するわけで、分別を養うには英知を磨くしかないんだけども・・力の裏付けが無いとこうなってしまう・・残念ながら、これが世の中の悲しい現実・・

 どちらも何らかの大義名分があるわけで正しいと思ってる。
   で・・もういろんなものが作用して戦争に至ってしまったら負けたほうは悲惨です。


 ですので、あの当時の東郷平八郎元帥の運のよさは、国運を左右したと言っても決して言いすぎではないでしょう。
 ( なお東郷翁の真の強運は天風哲人から直接薫陶を受けたことでしょう )





 ですが


 あれれ・・ちょっと待てよ・・・


 よくよく考えてみたら、そういう国難の際に運のよい東郷翁を抜擢した方というのも、相当に運がよい方なんじゃ?


こういう有事に、しっかりと人事配置できる方・・というのも

「 運がよい 」に更に輪をかけて「 運がよい 」

肝も据わってるはずだ・・とふと思ったわけです。


そういう些細な興味から


日露戦争当時、4歳年下なのに東郷翁の上官で

海軍大臣だった山本権兵衛という方に好奇心が湧いて

その生き方、生きざまを研究するに至りました。




 そうしたところ


本当に・・調べれば調べるほど実に魅力的な方で、ある日を境に不思議に強運になってるんですよ。この方・・

「 東郷平八郎元帥は強運 」というブログやサイトは、それなりに多い割に

「 山本権兵衛翁は異様に強運 」という切り口のサイトはあまり見ないわけで残念至極なわけですけど・・とにかく、ある日、ある出来事を境に運がよくなってる方です。この御方は・・・




この方の生まれや若き頃を文献で調べたんですけど


ざっとかいつまんで語るなら

あまり裕福ではない士族の家に生まれてます。

家では父親から

スパルタの文武両道的家庭教育も受けています。
( 7、8歳の小さい頃から夜明け前の・・まだ日も出てない頃に、父親に連れ出され

冬場なんかは表面に氷が張ってる井戸水の氷を割った後に、その冷水をくみ上げて

 桶でくみ上げた冷たい水を・・ばしゃんばしゃん頭からぶっかけられる・・というのが日課だったみたいです・・
 
 ※私見でして、あまりにもリスクが高く乱暴なやり方ですが・・
  この氷水の荒行で、強い運の下地となる自然クンバハカを会得し、剛腹( 下腹 )が自然に練られたのじゃないかと・・



 その後、家の道場で剣術指導・・さらには学業・・


 父親の口癖は、「 負けるな!死んでも勝て! 」だったらしい。(;^_^A

 
 嫌なこと、辛いことを心が感じても、子供の頃父親から鍛えられたこと・・
 これに比べれば今のほうが遥かにましだ・・とそのまま受け容れ自らを空しくし只管前だけを向いて淡々と越えていった・・ということも十分考えられます。

 
努力も惜しまないことで当然頭も、少しずつよくなっていく・・

どんどん頭もよくなり志も高いので当時の雄藩である薩摩藩
( 今でいうところの鹿児島県庁 )から選ばれた若者の一人になる・・


西郷隆盛翁や大久保利通翁とも交流しています。
もちろん何千・・何万という方々と交流したはずですが

山本青年( 当時 )も西郷翁や大久保翁と交流しています。

( ちなみに同じ町内<加治屋町>出身です )
西郷隆盛翁に紹介状を書いてもらって勝海舟にも面会して
昌平坂学問所、開成所を経て海軍兵学校で学ぶことになります。



ですが



海軍兵学校に入学した当初から、素行がよくなく

実戦経験のない先生を尊敬できなかったせいなのか・・
先生や事務員泣かせで・・もう手がつけられない・・
荒くれで当時は、お酒も大層飲む・・

だから教官の先生や事務方の覚(おぼ)えも悪いです。

実際、卒業するまでに3回ほど退校させられそうになっている・・

このときは、強運の兆しは見えてきません。


心酔していた西郷隆盛翁の鹿児島帰郷( 下野 )に同参しようと血気に走って21歳くらいのときに退校し、その後、鹿児島で西郷本人から諭され何とか復学したこともあるようです。


そういう理由もあり兵学校の同期の中では17席中16席で
席次( 評価 )も劣等でよくなかった。




この学生に有望な前途や将来性を感じた先生はいなかったんじゃないでしょうか?

まさかこの青年が将来、国を救う英雄(の一人)になって、偉人・傑士と讃えられるなんて・・当時の先生の誰が予想し得たでしょうか?




 ( 兵学校時代の・・呆れるくらい酷いエピソードを知るにつけ )

 将来性なんてとんでもない・・・
もう憎たらしくってしょうがない・・ほんと忌ま忌ましい・・・
 こんな問題学生がモノになるわけない。

もう顔を見るだけで虫酸が走るわい・・・と思った先生や事務員さんばかりだったと思われます。


決して運が良いわけでもない・・




それが「 ある日、ある出来事 」を境に弾けたように運の勢いが変わっていく。



その「 ある日、ある出来事 」のことをこれから書きますが



山本青年は、官候補生として筑波艦演習の訓練を、させてもらえることになった25歳の時に

 帰港した先の下宿屋に滞在していたことがあります。



で、ちょうどその真向かいに女郎屋があったそうなのですが



25歳の「 ある日 」そこの2階にふと目をやった。



そうしたところ

 向かいの窓の奥で、わいわいガヤガヤしてる中で一人だけ娘さんがシクシク泣いていて・・
周りから、いじめられてるように山本青年の目には見えた。


妙に気になって仕方がない
  


 正義感や好奇心も手伝って事情を聞くために、この娘さんに会いに行った山本青年・・・

そうして実際に、この娘さんに会って、泣いてしまった理由やその生い立ちも聞いてしまう
       ↑ ↑ ↑
( 恐らく彼女をまじかで一目見て、雷に打たれるようなショックを受けたんだと思います )



そっから・・

・・いてもたってもいられなくなったんだと思いますが・・


山本青年は、その娘( トキさん )に


「 あなたは、こういうところにいるべき人じゃない・・」と強く諭したり

かつ

ありとあらゆる智謀と計略を使って・・

周りの協力もとりつけて、女郎屋から奪還し、

まるくおさめる・・( 何とかまるくおさまった )




  ↑ ↑ ↑

この、「 ある日の出来事 」振舞い以降から何かがはじけたようにクラリと変わって、
ベースのところの運氣の流れが、だんだんと・・ゆっくり・・しかし確実によくなっていくわけです。
  ↓ ↓ ↓


 事実として、あんなに乱暴で先生から嫌われていて教官の先生や事務の方に憎まれ蔑まれ呆れられ席次( 評価 )も酷いもので運もお世辞にも良いとは言えなかったのに

この娘さんを女郎屋から・・ある意味、強引なやり方で合法的に奪還して、結婚相手に選んで交流していくうちにベースのところが変わる・・と申しますか・・・なんだか、奇妙に運がよくなって上向きになったせいなのでしょう・・


そういう「 ある日 」の出来事があった4〜5ヶ月後くらいに、海軍のホープ(の一人)としてドイツ留学が許される運びになる。


( 一説には、山本翁が、あまりに乱暴で、手に負えず、もてあましたのでドイツ艦にでも放り込んで性根を叩き直してもらえ・・という勢いで派遣された・・という説もありますが、とにかく運よく、そういう運びになる )


で・・ここでもまた運よくと申しますか運命の出会いともいうべき出会いをしています。

山本権兵衛翁をして後に生涯の師のうちの一人・・と公言するような方
( モンツ伯 )に、あの奪取劇があった4ケ月後くらいにいきなり強運なことに会ってる



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 <山本権兵衛翁が生涯の師と仰いだモンツ伯> ( 伯爵 山本権兵衛伝 上巻 より引用 )

この方( モンツ大佐<当時> )は高潔な人格と高い教養とを兼ね備えた
名門貴族でして、なぜか運のよいことに、この人から非常に気に入られ覚えがよくなる・・

兵学校などから8名ほど選ばれて乗艦していますが、いろんな文献を読み漁って、判断する限りでは、このなかでも( モンツ大佐<当時> )に特に目をかけられ一番気に入られ、最も感化されたんじゃないでしょうか?

 兵学校時代は、あれほど先生や事務の方たちから煙たがられ蔑まれ憎まれ呆れられ

 もはや見るだけで嫌悪感が先立ち、呪いの言葉しか出ないような暗愚にしか見えない学生・・

 事実として何度も退校処分直前までいった方なのに・・


 なぜ、このときには、こうまで気に入られ目をかけられ覚えがよかったのでしょう・・

 これをお読みのあなたは、不思議に思いませんか?
 
 ( さかのぼること4か月前のたった一人の女の人にしてあげた強烈な善行と無関係ではない・・

 深いところにおいて因果で強くつながって
折りたたまれ凝集されてた陰徳のエネルギーなるものが現象界に時空的・時系列的に拡散展開されていく・・その後の出来事の縁起的展開にも影響してる・・と私は踏んでいます )

 



 そうして、このドイツ艦「 ヴィネタ 」に乗艦し1年半の厳しい訓練のなかで
グラフ・モンツ大佐(当時)の薫陶を受け講義や艦の運用実習による知識や技術の習得・・

軍政や政治経済も学び・・さらには徳目や西欧の合理主義的精神もマスターする。

 
そうしてさらにベースのところの運氣の流れがよくなっていき生活態度も改まるわけです。



このドイツ留学をした際に、あるドイツ将官に軍事において実習も大事だが思想および戦略や学術知識は、それを底支えするもので、もっと大事なので断酒をしてしっかり基礎的学問に励むことを忠告され、以降お酒をきっぱりやめた・・・という逸話も残っています。

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<山本権兵衛翁がドイツ艦ヴィネタに乗艦当時、学習の際に筆録したノート>
       ( 伯爵 山本権兵衛伝 上巻 より引用 )    


そうしてドイツ留学で、いろんなところを航海し日本に帰ってきてから

2年と半年後に帰りを待っていたトキさん( 後に登喜子に改名 )とめでたく正式に結婚するわけですが



超上げ間( ちょうあげま )で超福女として前号のメルマガで取り上げた

山本権兵衛翁の奥さんの登喜子さんは

もし山本翁がこの方( 登喜子さん )と結婚して山本翁が大事にし愛し、愛されて仲睦まじい積極的交流がなかったら

山本権兵衛翁は、非常な困難や苦境に陥った時に心を積極的に保てただろうか?

 偉人と言われるまでになってなかったんじゃないか?と私は観ています。

※なお、文中で用いられている「 上げ間( あげまん ) 」というのは、間を上げる、出来事と出来事のあいだの間( ま )・・・
言い換えれば、出来事と出来事をつなげる場のエネルギーを上げ交流することで、心を尊く清く積極的にし、なんだか間もよくなって魅力を高め日々の運をよくしていく人・・という意味で用いています。

 女性に限ったものではないですので念のため





ということで、私自身が仮説的に推測している強運(の因)を作ったと思われる女郎屋からの奪取劇については以下のサイトとかにも顛末が書かれていますので考察してみます。




女性達の明治維新(15) 山本権兵衛の妻の生涯(1) 山本登喜子




山本権兵衛翁を強運にし魅力的にする起点になった「 ある日 」の出来事の行動と私は推定してる

その「 ある日 」の奪還劇の更に細かいいきさつについては・・色々調べたのですが・・   



 前にも紹介したように上記のサイトのほかには

山本権兵衛翁のキャリアを綴った本が有難いことに無料で閲覧できます。
  ↓ ↓ ↓
「 快傑伝 −国会図書館ライブラリーから 」
これのp76〜P104

コマ43/316〜コマ57/316
 に、さらなる詳細が書かれています。 奪還には色んな説があるようです。


一部抜粋しておきます。

gonbee


( 「 快傑伝 −国会図書館ライブラリーから引用 
もうここまで来ると映画になってもおかしくない・・
実際に少しだけ脚本を変えてドラマ化されたらしいです・・
できれば将来・・権兵衛翁をNHK大河ドラマでの主役にして欲しい・・
人心も明るくなり公共放送の観点からも佳いでしょう。
( NHK関係者の方・・このブログ視てたら、是非検討をお願いします )










なお

品川で出会ってドイツ艦に乗り
 モンツ大佐(当時)の薫陶を受け、生活態度も改まり2年と半年後に正式に結婚したのは、トキさんが遊郭から「 足抜け 」するのに必要なお金を山本翁が自ら背負って女郎屋の主人に支払い終わったからだと思われます。

( 3年月賦にしてトキさんの見請けのお金を女郎屋の主人に支払う・・という話と史実が符合して妙な信憑性もあります。

 余談ですが、このとき山本翁に策を授けて共に協力してトキさんを救った翁の実弟である太田誠実翁も「 ある日のある出来事 」に関わってまして・・後に海軍少将<admiral>にまで出世しています・・これも「 ある日のある出来事 」の強烈な善行に関わったお陰でしょうか? )








この超上げ間( ちょうあげまん )で福女のトキさんを女郎屋から奪還し結婚し交流を深めてから逆運をはね飛ばすような勢いで運がうなぎ登りによくなってさらに生活も締まってくる

これを裏付ける強運エピソードがあるので紹介してみますが


登喜子さんと正式に結婚して3年後くらいの山本翁が30歳の貧乏中尉の頃

ばりばり精力的に仕事をし

当時から日本の将来を憂えていて

危機感ももっており

海軍かくあるべしという・・周りの人には見えてないビジョンと信念を持ち

海軍の改革案をどんどん起案し、お構いなく意見を具申していた。


そうしたところ


これが理解されず生意気に思われたのか・・

あるいは

この頃には、既に頭角を現し若手のリーダー格になっていたらしいので
海軍内のごたごたに巻き込まれたせいなのか・・


当時の海軍トップだった榎本武揚海軍卿の癇気にふれたらしく

 一時、非職になり5ヶ月くらい浪人に近い状態に陥っています。
( 給与も1/3以下になっていわゆるニートに近い状態 )



  ですが

 非職にした榎本卿のほうが逆にブーメランのように更迭されるという運命の逆襲にあい、お役御免にされ



その後復職できています。



その後の強運エピソードについては事欠きません。

とどまるところを知らない異様さを呈していきます。


 例えば・・35〜36歳の頃に7カ月以上かけて精魂込めて作成し提出された
分厚い「 海軍概況調査書 」の、あまりの出来の良さと運もあって

西郷従道翁という当時の明治政府の要人の目にとまり、この方に厚く信頼され出しビジョンを共有出来て仕事を大きくまかされる・・

 そうして日清戦争の勝利の陰の功労者にもなっています。




このことについては、司馬遼太郎氏は「 坂の上の雲 」のなかで

日清戦争時の山本権兵衛翁の働きを以下のように評しています。

( 以下引用 )

「 権兵衛は海軍建設者としては、
世界の海軍史上最大の男の一人であることはまぎれもない。

かれは、ほとんど無にちかいところから新海軍を設計し、建設し、
いわば海軍オーナーとして日清戦争の『海戦』の設計まで仕遂げた。」

  ( ここまで )


 事実として、山本翁は、40才(1891)の日清戦争開戦前に
海軍省大臣官房主事にも抜擢された後・・


国防における海軍の重要性を早くから悟って


西郷従道翁の後ろ盾のもと

陸軍重視の空気があり、風当たりが強い・・いわば逆風の中で海軍の日本( の国防 )における位置づけ、
地位向上に奮闘努力しています。

( 当時の海軍の予算は、陸軍の1/15以下 )

この当時の陸軍の顔触れは、実に、そうそうたるものでして


ざっと挙げるなら

川上操六陸軍中将・・大山巌陸軍卿、児玉源太郎陸軍次官・・
そして背後にひかえる大御所の山県有朋

こういう人らを前に、近代海軍の重要性を力説し、予算獲得に奮闘し、議論をふっかけて一歩も退かなかったというのですから、ものすごい知謀・・・覇気・・さらには運のよさです。

( この当時は、陸軍の支配<制度>下に海軍が従属するような形で運営されていましたので、そういう弱い立場で、こういう人らに意見を具申し、かつ戦わせてたら、多少の筋が通っていても、なんだ生意気な・・と・・お役御免になるリスクがあります・・

 上記のメンツでは、同郷の方も含まれてはいますが長州閥の重鎮、山縣公なんかの癇にさわってたら左遷・・あるいはクビのリスクは高かったと思いますので運がよかった・・


 

それと同時に

大臣でもないのに、西郷従道海軍大臣( 当時 )から厚く信頼され、大臣みたいな権限を持って

人の育成・・士官教育や人事に筋をとおす新機軸の改革案をバンバン出し

人事制度の導入にも早くから着手し昇級制度も海上勤務や実地訓練を盛り込む等大ナタを振るう



当時軽視されていた砲術訓練に相当な力を入れる等

西欧式の新知識と見識をもとに近代的な海軍にするための大改革
( 藩閥にとらわれない大幅な人事刷新 )を断行しています。



なお



 こういう内輪の人事をいじるようなことをやるのは・・いくら大義名分があって心の態度も尊く気高くて

 全く私心がなくても理解されないことが多く相当に辛い作業です。



これを現代で言うなれば


 大企業であぐらをかいて、しまりがなく・・士気も落ち

 過去の功績に、いつまでもしがみついていて


 自分が満たされないものだから、ふんぞり返って部下にパワハラし

 精神的苦痛を追わせ

   運を落とす態度や行為に堕してしまい



 当時の志を亡くし、時代の変化に合わせて準備もしない・・放漫になり業績も傾いている出先の支社長や本部長のような立場にいる方々を組織の引き締めと将来の備え( 事業の繁栄 )の為に

 身分的には本社の課長代理程度の立場で


 お役御免にして、新しい人材を登用する

 本社でもビジョン合わず共有できない・・そして基準に達しない者は上の立場( 重役 )でも首を切る



放漫化し、たるんだところ


脆弱なところの膿みを出し

 返り血覚悟で

人事刷新する役回りといったところです。



これは・・ご存知の方は、ご存知のように・・

相当な不興( 恨み、憎しみ、誹り )をかい

負のエネルギーを受けます。


 相当に精神的にタフでないと体ばかりでなく

精神がやられ転落する方もいます。


国家の大事を最優先するという強い志があって
私心なく誠を尽くしたっても、そんなのお構いなく

周りの不興、妬み、憎しみ、恨みをかって

足元をすくわれたりする方もごまんといるわけです・・・



( 誇りだってあるし、我が身かわいさだって誰でも些少はある・・

 追い落とそうという動きだってあったでしょう。
 
 陰口や嫌がらせ・・誹謗中傷・・当時の上司である従道翁にあることないことの告げ口も多かったと文献を調べる限りでは、伝わり聞いています・・ )


 そんな過酷な状況下で

西郷従道翁という腹のすわった実力者の後ろ盾があったとはいえ

日本の未来を見据えて、

海軍かくあるべしという・・周りが見えていないことを

実行するために強い信念とビジョンを抱いて

腹を決め私情をこえて誠を尽くして仕事をきっちりやり遂げる。

 ※この方は、恐らく幼少の頃の父親の厳しい躾で自然にクンバハカを会得してたんじゃないか?と推察します。
 そもそも、これが強運の下地になったのじゃないかと。
 なぜなら・・日もまだ暮れてない明け方に薄氷が張るような冷たい水を浴びて
 それに耐えるには・・クンバハカじゃないと体がもたないでしょう。
( 新渡戸稲造翁と同様にクンバハカを子供ながら自然に会得して強運の素地は、すでにあったんじゃないかと・・ )



そうして、きっちりやり遂げても

さして健康も害してない・・負のエネルギーの影響も受けてない

足元をすくわれたりもしてない

という事実から見ても

これは尋常ならざる気高いビジョンと精神の強さ・・
さらに何かに守られるような運の良さだろうと思うわけです。


幹部97名解雇の大改革 日本を救った日本海軍の父 知性と胆力の人 山本権兵衛

     ↑ ↑ ↑
  当時の山本翁の立場( ポジション )からして、どれくらい大変なリストラだったかわかります。
 肝の据わった西郷従道翁ですら、懸念するほどだったようです・・

  それを、西郷従道翁に負担をかけず手を煩わせず、自らの手で、やり切ったわけですから・・



若くして軍務局長になってからも、新機軸の改革を進め、予算獲得に熱弁をふるう・・
( 日清戦争後の三国干渉があった問題を持ちだし、海軍力があったら、ああは決してならなかった・・と世界の大勢(当時)、ロシアの現状(当時)、日露関係の危惧(当時)に及んで・・
 当時の大蔵大臣相手に午前10時から午後5時まで・・
ご飯も食べずに7時間しゃべりとおした・・大蔵大臣は、腹ペコになり、
その根気と熱意に、とうとう根負けして折れて納得した・・という逸話も残っています )

こういった一連のことが国運を左右し、日本を極東の一小国としての国ではなく「 JAPAN 」として一躍世界史に登場させるのに十分な改革につながっていくわけです。

山本 権兵衛 司馬遼太郎「坂の上の雲」の中から










守られるような異様な運のよさ・・勢いの強さの理由を考察してみたのですが



前号でも書いたように

もちろん、これまでの生きざまのなかで負けん気と粘り強さゆえに少しずつ培われることになった頭の良さ・・恐らく少年の頃に自然に会得したクンバハカ・・下腹が強い・・志の強さ・・私心の無さ・人格的磁力・・浮ついたところのない非常に引き締まった堅牢な生活習慣・・というものは、運の良さ・・強運のファクターとして候補に挙げられると思いますけど、それだけでは説明できない異常な運の良さがある・・・

ふつう、こんなことをしたら恨みをかって一般に転落する・・・

身近で、よく知っていた甥っ子の英輔氏なんかは、甥である権兵衛翁のことを、あんなことやってたら、ふつうは、小佐か大佐でクビになっておかしくない・・と断言してるくらいです。


なぜ、ここまで運がよいのでしょうか?

この方の異様なまでの運の良さの本質とは、なんなのでしょうか?




それが、これから説明するもので、これは、私の・・あくまで仮説ですが



登喜子さんとの結婚に至るいきさつからして

山本 権兵衛さんが妻の登喜子さんから受け続けていた
感謝と喜び・・敬愛の念と言いますか・・
パワーというのは桁外れ・・底抜けだった
と思うのです。



あの当時は今と違って2号さんなんて当たり前の時代なのに

遊郭から奪還して、足抜けの為の借金( 恐らく今の貨幣価値で1000万円以上 )を自ら背負う

そればかりか

将来が約束されたも同然の海軍兵学校出の士官候補生(当時)・・全て官費でまかなわれ、大きなミスさえしなければ身分的には保証された立場でもある・・

まあ、山本翁は、そんな気概で海軍兵学校に入ったわけじゃないと思いますけど・・

そんな方が下男みたいに謙( へりくだ )って正式に妻として迎え

結婚の四ヵ月前には7カ条の誓約書まで渡す・・
しかも漢字の読めないトキさんのために、平仮名のふりがなまで添える


山本権兵衛海軍少尉の誓約書

  ↑ ↑ ↑
こんなことされたら、当時の絶望的状況もフラッシュバックして蘇り、言葉にならないくらい感激し、ふつう誰でも泣くと思います。
 山本翁から見たら、最も身近な方である登喜子さんからの感謝のされ方や尊敬・・敬愛の念が尋常じゃないくらい深く強いものだったのじゃないかと・・・





こういった出会いと・・出会ったときと変わらぬ一途で誠実な行為を自身も示し続け、それを恐らく生涯貫いたことで


 登喜子さんの感謝は、底がずぼんと抜けちゃって感謝念の温泉の泉源を探り当てたみたいな感じで、感謝と尊敬がデイリーベースになり・・どんなことがあっても夫を支え守ろうと思ったんじゃないかと思うのです。

 そうして


登喜子さんから底抜けの感謝と恩義の念( この念がまたそんじょそこらとは桁違い・・尋常じゃない守りとしてのもの )が山本翁に絶えずしんしんと注がれることになり

これは、とても心地よい軽い氣になって妻を見るだけで自分がぱっと明るく元気になる・・嬉しく幸せになる・・
気持ちが晴れて楽になるというような感じで

夫の仕事へのテンションを上げまくっていた・・

※感謝され敬われたら誰だって嬉しい・・気持ちも明るく強くなる・・

  これが、こんこんと・・ずーーーっと続く・・

 しかも最も身近な人( 配偶者である妻 )からそれが与えられる・・
という男性側から見て、とても嬉しい状態・・
 

 
その一方で

他からの嫉妬や妨害・・恨み、つらみ・・悪運(の念)・・これは重い氣で
重く暗くし、嫌な気分にして、心を騒がせ乱す類のものですが・・( 奥さんの夫を思う敬愛の念が )これをブロックし吹き飛ばしてたんじゃないか?と思っています。


・・ いろんな経緯で登喜子さんは超上げ間( ちょうあげま )で福女になったのじゃないかと・・思われます。

 


ちなみに・・・


登喜子さんは

家が貧しくて学校すらも通わせてもらえなかったらしいですが・・

妻となってからは夫に恥をかかせまいと

前だけ向いて寝る間も惜しんで勉強することで

もう、相当に努力し頑張ったのでしょう・・

登喜子さんにとって福男である夫( 山本翁 )の助けもあり、学校にも行かず独学で読み書きや礼儀作法・・
その他諸々のことを凄まじい努力で習得し家事や子供たちの教育一切を任される


来客した部下とかにも腰が低く親切で、それがあまりに自然なので、

応対された部下は、恐縮してしまい冷や汗が、じっとり滲んできて上司の山本翁との用件より、そっちのほうが印象に残るほどだったらしい・・

( 部下たちの間で、やっぱりお前もか・・と噂になるくらい )


また

自分が辛い、ひどい目にあったせいか、

 後年、山本総理の召使いとして、雇った方にも、とても丁重に接し優しかったらしく
 
後に「 賢夫人 」と言われるまでになっています。

( 自分は●●で辛い目に遭ったから、他の方は決して●●で辛い目に遭わせないようにしよう・・という心がけだって、その人にとって立派なカルマ解消ではないかと・・こういう心がけは運を強くしますから。
 ※パラダイム・チェンジの瞬間 )

 




山本権兵衛青年( 当時 )の人を見る目と言いますか・・恐らく雷に打たれるような衝撃は、まっこと確かだったということでしょう。



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  ( 伯爵 山本権兵衛伝 上巻 から引用 )








なお



山本翁の事を色々調べるに


この方は、おそらく登喜子さんに支えられて心の積極性を維持し日本の大きな危機をその強運と腹と頭で

二度救った( 守った )のじゃないかと思っています。




一度目は日露戦争にいたる過程で海軍大臣として予算獲得に奔走し

いよいよというときに予算が尽きた連合艦隊の旗艦ともいうべき「 三笠 」の購入に西郷従道翁と命をかけた
( 不正流用なので褒められたものではないですが、動機と志が昨今のとは違い過ぎるので )

幕末のエピソード




さらに私情をこえて・・合理的判断と・・ちょっといい・・(運がよい)という理由で

この三笠に乗艦する「 東郷平八郎翁 」を連合艦隊司令長官に抜擢したこと




2度目は、時の総理大臣が急死した空白期間に


関東大震災(1923・9.1)という未曽有の大災害が起きたのですが



関東大震災があった1923年9月1日 




その折に総理大臣として任に当たり

 後藤新平氏を復興を担う内務大臣として

東京復興の責任者においたことです。







もちろん、天が、すべての人に歴史に残る大将軍や
大実業家になる器量や才能を与えてるとは私には思えません。
器ってのはあると思っています。

ですが

少なくとも言えるのは


苦しみの原因を作れば苦しみの結果が生じるけれども、
有難いと感謝される喜びの原因を作れば喜びの結果がタイムラグを経て生じる・・
ある意味、高次の因果の法則というのがあって
過去に、おのれがつくった原因の結果を背負っている。

意図的、偶発的にかかわらず作って・・折り重ねているのではないか?と思うのです。


  天風先生も軍事スパイの時に偶然のめぐりあわせで、たった一人の女の子を救ったことが
 絶体絶命の境がいから救われる機縁になったことを述べたことがありますよね。


22.誠、中村天風の命を救ったもの

( 以下引用 )
makoto


以降の顛末は
22.誠、中村天風の命を救ったもののサイトに書かれています。

( ここまで )








ということで、最後にまとめますが

高次の因果の法則というのがあって
私たちは過去に、己がつくった原因の結果を背負っている。

意図的、偶発的にかかわらず作って・・それを折り重ねているのではないか?だから各人各様のあや模様として織り出されていると思うのです。

とにかく、因果律・・これは働いてると思うんです。( 仮説ではありますけど )





 また

 根本のところで運がよくなるのにはいろんな方法やルートがあると思うけども

結局は、本人が決意しないと始まらない。



ただ、とにかく、身近で出来ることは

クンバハカと魅力的で元気な方と積極的に交流するように心がける・・これが簡単な運気アップ法で


さらには

目の前の身近な方が、´いい顔´になるように心がける・・

言葉を積極的にする・・ガミガミ不平を洩らし文句を言わない・・




お互い感謝のエネルギーを注ぎ合い、形(行動)で示して、お互い、気持ち良い状態にして、お互いを、あげま(上げ間)にしたほうがよいという結論でした。


 こんなこと偉そうに書いてる私も信じられるに足る自分か?ということを内省し心がけることにします。