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Category: 運の研究

前回のブログでは

人との出会いで、お互いによいものを与え合ったら、
心の態度の積極化に貢献し、運気もパワーアップしていくという例として豊臣秀吉をとりあげ
運気の盛衰( 好不調のリズム )についても少しだけふれてみました。

これまでの占星学研究は、主に個々人の誕生した生年月日・時間や、生まれた場所等を加味することによって、その人の生来の性質、傾向、人生の流れなどを判断するものが主流でした。
この傾向は、今でも続いてると思われます。


個人の運気というのは、もちろん、その人が持って生まれた生命の器というものがあるでしょうし
生まれた環境といった背景要因もある。

( 私なんかは口述書の実践で大きなブレークスルーがあった人間ですが )


 元々の初期値が運が強くない・・運のよくない方だって嘆くことはない・・

 本人の強い決意による後天的な修練の持続によって運を良くして拓かれてくるものもあるのではないか。

さらには

一般的には、人には運気の流れと言いますか、何らかの春夏秋冬の大きな運の流れがあるとも言われています。



頑張っても頑張っても何故か上手くいかなく感じる時期もあったりする。

これをお読みのあなただって、「 こんなに頑張ってるのに、なぜ?うまくいかないんだろう??
おかしいなぁ・・なぜ、あの時は、あんなにスイスイ上手くいってたのに、
スランプと言いますか・・歯車が狂ったように、突然うまくいかなくなってしまった・・・なぜだろう。」といった素朴な疑問を抱いた体験をお持ちではないでしょうか?

そういった個人の運気の流れというのは数多く研究されてきてまして、個々の運勢や運命を判断する占いの本とかも読んだこともあるのではないでしょうか?


 今回(の記事)は、そういった個人の運気というものが、元々持っている個人の運命傾向や本人の心がけによる後天的修練で運を良くするだけでなく( 外的な )出会い( 関わる人 )によっても大きく影響され得るのではないか?ということで主に夫婦の間の関係と申しますか・・


夫婦のエネルギーの交流が心の態度にも影響し円満な場合の仕事や生活・・運の良さにもたらす影響というのは甚大なものがあるのかもしれない・・
また、このよしあしが周期性のある運気の転機( 重大な岐路 )における盛衰に関係するのかもしれないということで、その仮説を検証をするために、考察を進めてみます。



その例として、これまで

秀吉バージョンを挙げて、みっちり書き下しをしたことがありますが・・これだけでは心もとないので、「 織田信長バージョン 」「 徳川家康バージョン 」でも執筆してみます。

ただし、この戦国時代当時の道徳観、倫理観と現代では、あまりに大きな乖離があることは否めません。

現代の倫理・道徳的常識とは、かけ離れたものも多いです。



ですが、時代をこえても通用する普遍的なもの・・変わらざるものもあると思いますので・・





以上を踏まえて、先ずは


「 織田信長 」の場合でやってみると、

信長が最も愛したのは正室の濃姫と言われています。


濃姫は謎多き女性の一人とされてますが


僧侶から還俗し油売りから身を起こし戦国大名になった、あの斎藤道三の娘です。


この時代は家柄だけでは通用しない時代だからこそ、多くの才能・才覚が
頭ひとつ、腕一つでのし上がれる時代でして、
まさにこの人( 道三 )も、この時代を象徴したような方でした。

信長の政策のひとつであった「 楽市楽座 」や 「 関所の撤廃 」も
舅である道三が先に領内において類したこと( らしきこと )をしていたと言われています。
信長は斎藤道三らから学んだことを、楽市令として制度化し、より拡大して実行したとも言えます。


道三は信長の器量を本能的に見抜いたから
美姫で肝も据わっていた愛娘を信長にやったとも言われていますが
信長は、かの道三の娘の濃姫と1548年に政略結婚しています。



ただし、結婚当時の信長は、「 うつけ者 」と言われ最低・・散々の評判です。

( 油断させるために、わざとそうしていた説もあり、底知れない運の深みを匂わせていますが )

「 信長公記 」にも、信長は、よくこれで人前に出られるなぁ・・
というような奇妙奇天烈な服装をしたり

品行方正とは程遠い・・と申しますか・・常識はずれで
行儀は悪く、城下では人目も憚らず柿や瓜をかじり
餅を食い、人に寄りかかり、肩にぶらさがって、ふらふら歩いていたこともあるのだとか。





初期値的に強運を匂わせるものは感じられますが、

先に挙げたように「 大うつけの信長 」で線が一本抜けて、失敗に対して鈍感なところがあるのは否定できなかったわけでして

濃姫( 斎藤帰蝶 )を妻にして、結び合いを強めた後に、信長の強い運がポンと弾けたようにして高まったように思えます。
事実として信長は、濃姫を娶った後に激しい織田家の跡目争いを制し尾張一国をほぼ統一し頭角を現していますから。

そうして

更にその強い運気が高まり


1548+12=1560年 「 桶狭間の戦い 」で世間の評価も一変します。



信長は、この戦いの出陣前に清洲城において

「 人生五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり 」
というフレーズで有名な「 敦盛(あつもり) 」を舞い
熱田神宮において戦勝祈願をした後、出陣しています。



そうして信長は情報を制し、機先を制し気の緩みをついて

信長直轄で精鋭の2000〜3000の兵力を
義元本陣(の一点)に集中的にぶつけることで

5倍とも10倍とも言われている圧倒的な戦力差を覆し
「 東海の雄 」と言われた今川義元を打ち破っています。





この戦いの結果については周辺大名の、ほぼ誰も信長が勝つなんて予想もしてなかった。


ですので、これが信長にとって天下統一に向かう大きな布石になったのは、ほぼ間違いないですよね。

これは信長にとって大きな戦いでしたが・・

この時期というのを改めて俯瞰してみると・・これは濃姫と信長が結婚して丁度12年目に当たる年でした。



信長の理念や信念の強さ・・さらには運の強さは・・もういろんな専門家が語り尽くしてる感がありますので、ここでは敢えてふれませんが・・個人的には濃姫と結婚して12年間で、その結び合いを強めて信長の気迫の強さや信念、強い運がさらにパワーアップし、その節目に当たる12年目に大きな運を引き寄せた・・として史実を因果分析してみたい気持ちに駆られます。




それから更に12年後

1560+12( +1)=1573年

1年ずれてますが、
中世的権威の象徴でもあった足利義昭を追放し
230年以上続いた室町幕府を滅ぼしてまして

その後も天下布武という大きな理念を抱いて天下統一事業にまい進し

強固な中央集権体制のかたちを作っています。


諸国大名が領地拡大や領土保護に、きゅうきゅうしてたのに・・
信長は、彼らとは、あまりに次元が違う
大志と合理的考えを持って行動していた・・と言えると思います。




その約9年後に変転があり

何らかの因により運を落とし1582年に本能寺の変で倒れますが

濃姫と結婚後の運気の周期性( 運気のリズム )は感じられます。

こうしてみると道三の娘である濃姫と結婚し、結び合いを強めたことで
信長の大胆さや志の大きさ・・心の強さ・・周囲の巻き込み力がさらにパワーアップし、
その運のスケールも拡がり勢いを増した・・と見ることもできるのではないでしょうか?




次の秀吉バージョンは、以下にこってり書いてますが・・

秀吉バージョン

改めて簡潔に書くなら

 秀吉の場合・・現時点で、最も確からしい歴史考証によれば・・
幼少の頃は、養父( 竹阿弥 )と全くそりが合わず・・
いつも苛立ちついでに養父に折檻( 現代的に言えばDV )をされていたし、
近所のガキ大将からも、ひどく虐められていたのだそうです。


それでもう・・ほとほと嫌になって14歳の時に家出したとされています。


しかし、家出したはいいものの・・全く住まいも定まらない放浪生活を続け飢え死に寸前だったと言われています。


そんななかで、やはり初期値的に強運である所以でしょう。

 藤吉郎(秀吉)は、飢え死にしてもおかしくなったのですが運よく今川家の家臣の松下家に拾われます。


 ですが、そこで仕事を誠心誠意精いっぱいやっても、全く浮かばれていません。

 仕事を熱心にやればやるほど浮いた存在になり仲間から煙たがられ・・
ぎくしゃくし上手くいきません。松下家に仕官してた先で娶った妻からも愛想をつかされて離縁したとされています。


そうして半ば追い出されるようにして松下家を出て17歳の時に運よく信長のところに再仕官できたわけだけども・・ここでも、やはり下積みです。強い運があることは匂わせていますが、仕事を熱心にやればやるほど浮いた存在になり仲間から煙たがられがちになります。


ところが、秀吉( 藤吉郎 )が25才( 1561年 )に寧々という福女を娶った後に元々の強運にプラスして運気がうなぎ登りになっていったように思います。

と言いますのも・・秀吉( 藤吉郎 )は寧々を娶って、ほどなくして、いきなり将校になってまして・・さらに1561年+3年=1564年には、美濃国の斎藤龍興との戦いで、信長が攻めあぐねてるときに周辺城主に誘降工作を諮って成功させ、大きな戦功を挙げています。

さらにそこから9年後

寧々を信頼し彼女から信頼され・・よく尽くし、よく尽くされ、与え合ってお互い良きものを交換し合ったのだと思いますが・・寧々と結婚してから数えて12年後

 1561年+12年=1573年には、長浜城主( 12万石の大名 )になってるわけです。
 
 「 鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス 」で、いくら知略を巡らし創意工夫をしても14歳で家を飛び出て25歳までの約12年間はと言いますと、運の強さを彷彿とさせるものの・・本当に鳴かず飛ばずで、うだつが上がらなかったのに・・この差は何なんでしょう・・
呆れるくらいのすさまじい栄達です。


そこから更に12年後

 細かくは1573年+9年=1582年の本能寺の変( 1582 )後、
 主君を討った明智光秀軍の討伐を決断し、 今や伝説となってる「 中国大返し 」で打ち破り

 1573年+9年+3年=1573年+12年=1585年には関白になって大阪城を建てています。



 その後、糟糠の妻で福女である寧々をないがしろにして茶々に入れ込むことで秀吉の善いものがブロックされ横暴性が増し、心の消極性が極大化することで運を落とし没落していったように思いますが・・そこに何らかの運気の周期性と法則性があるように見えます。

秀吉バージョン



徳川家康バージョンについて考察してみると


 家康の場合は阿茶局( あちゃのつぼね )が
信長の濃姫や秀吉の寧々( 北政所 )みたいな位置でして

 やはり家康も初期値的に強運の星に生まれてることは間違いないですが、この方を1579年に側室にしてから家康の運気は「 うなぎ登り 」になっています。

それまでは運の強さはあるものの、鳴かず飛ばず・・「 いくら待っても鳴かないホトトギス 」でしてひたすら下積み・・忍苦続きの日々です。



今川義元のもとでは、当時の家康(元康)の家臣団は
先陣ばかりを務めさせられ
言ってみれば「 使い捨て・・」「 ぼろ雑巾 」のような立場です。

そういう´使い捨て´のような立場でも生き残れるということでも強運を匂わせていますが・・浮かばれていません。

1560年に義元が、かの「 桶狭間の戦い 」で信長に敗れて後、
やっと今川家の人質から解放され三河で独立しています。

ですが

信長と同盟を結んで後も、今川家の時と同様、
その関係は実質的には、臣下とあまり変わらない立場で
最もリスクの多い先陣を任されることが多かったと言われています。





それに三方ヶ原の戦い(1572年)では、
武田信玄が指揮する
当時最強の武田軍に惨敗しています。

その際は、恐怖のあまり馬上で糞尿を垂れ流し、
ほうほうのていで浜松城に逃げ帰ったらしく・・

脱糞の匂いに気づいた部下から諌められた・・
という逸話まであるのだとか。


( お食事中の方には申し訳ない話ですが・・・ )



こういった逸話を知るにつけ

家康も最初から豪のものだったわけでもなく、聡明だったわけでも
元から忍耐強かったわけでもなく「 環境 」によって創られた分と

理想を意志し自ら意志、意欲をして後天的修練で自分自身の心を強く創っていった・・

武芸にも戦略にも秀でて聡明に自らを作っていった分の
合成的なものがあると観ています。



※余談ですが三河武士の強靭な結束力と強さも、
使い捨ての先陣を任される試練と苦難のなかで
作られ培われていったという説もあります。

 家康は6歳で織田家の元に人質に送られ、織田家が
今川家に敗れて後

今度は今川家の人質として駿府へ送られ、
8歳から19歳までの約12年間を
人質として生活することを余儀なくされてます・・

家康の類まれな忍耐強さは環境によって創られたとも言われています。

 結果論的には、こういう辛抱があったから、人格的に、棘が削られ円くなる・・さらに深みが増して挫折の痛みに対する耐性が付き・・理屈では測れない人情の機微を介すようになって、家康にとっては、よかったとも言えるのかもしれません。
( これもインスピレーションで執筆してるわけですが )







話を元に戻しますが

家康は、阿茶局( あちゃのつぼね )という福女に会う前は
かなり下積みでして・・生き残れただけでも滅法強運ではあることは匂わせているのですが戦闘においても先にも書いたように、武田信玄に惨敗をし滅亡寸前まで追い込まれています。




結婚においても、家康は、あまり良い話を聞きません。

阿茶局を側室にする・・ずっと以前に築山殿と
政略結婚していますが、

この築山殿は、今川義元の養女で、お嬢様育ちで気位の高い女性でもあったことから、
あまりいい結婚ではなかった・・
大変だったという逸話も残っています。

( 家康が側室にした女性は、秀吉と違って貴種好みでなく、
家柄の良い女性は相手にせず、
全員身分の低い女性でして
聡明さや丈夫な子供を産んでくれそうな方・・
その他独特の基準で選んだのは、
この築山殿との結婚(の失敗)と秀吉の失敗から学んだとも言われています )




そんな忍従と下積みがずっと続くなかで
家康は、強運なのに、いっこうに芽が出ないわけでして


特に

家康が38歳の時、阿茶局( あちゃのつぼね 当時25歳 )を
側室にした時期

1579年は家康にとっては、まさにどん底でして・・

長男・・そして正室( 築山殿 )を・・
所謂「 築山殿事件 」で知られるお家騒動で、信長の命を享けて
家康自身の命令で切腹( 自害 )させる・・という痛恨の絶苦( 絶痛 )をなめています。



ですが

 聡明で人格的にも優れた阿茶局を側室にしてから約12年・・


心の積極性・・その強さがパワーアップし、本来の強運が弾けたお陰か
 

どん底の苦から大きく飛躍しています。


細かくは1579+3=1582年

織田信長が明智光秀に本能寺の変で討たれ
明智軍から逃れるため、

滞在していた堺から山中(伊賀)を越え三河へ運よく無事に帰還し



そうして、これを吉に転じ
この頃に名参謀「 本多正信 」が家康の家臣になることで
甲斐、信濃を支配下に置くなど着実に勢力を伸ばしていきます。




そうして1579+3+9=1579+12=1591年には、
豊臣秀吉に臣下の礼をとってはいますが豊臣政権下で重鎮( ご意見番の一人 )になっています。

 秀吉は、この時が絶頂期なのですけど・・その2、3年前から判断がおかしくなり

秀吉の心の消極性のうち残酷性、横暴さ、傲慢性等が増したせいか
その後、失政、失策・・が目立つようになり民心も離れ

秀吉の弟で家臣にも慕われていた秀長が亡くなるなど不幸も続いてまして
 
 豊臣政権は、ほころびが見え始めてるなかで、家康の場合は家臣団の結束力がさらに増して
国内における影響力が着実に大きくなっていきます。


 確か関東転封( 関東に移封 )になったのもこのくらいの時期でして
当時の視点からみたら左遷ですが、領地は250万石になり大きな転機になっています。


そこから更に9年後の決断が要求される変転の年・・
1600年に関ヶ原の戦いで圧勝し・・
そこから3年後・・1603年には江戸に幕府を開いています。

( 1591+12=1603 )


さらに、そこから12年
 大坂の陣(1615)で豊臣家を滅ぼし、その後300年近く続く
徳川幕府( 江戸幕府 )の雛型の完成をみています。


 家康は忍従と屈辱に耐える苦労続きの生活が長かったせいか
神経の太い線が抜けたように失敗に対する耐性があり
さらには、心の機微に敏感で部下はもちろん女の人の扱いにも長けてたようでして
先にも述べたように側室選びにも失敗せず・・秀吉みたいに
300人もの女性に手を出し色に溺れることもなく・・

秀吉の正妻だった寧々にも非常に丁重でした。



とりわけ阿茶局( あちゃのつぼね )を大事にし

 この方との間に子供はできませんでしたが
36年間・・自身が亡くなるまで篤く信頼し
よく尽くされエネルギーを貰っていたようです。


戦場にもたびたび同伴させてたという史実も残っています。

そのせいか阿茶局は、小牧長久手の戦いに同行した折
それが原因で流産した・・とも言われている・・・

人格的に優れていた・・ということについては以下の逸話から、なんとなく推察できます。


それは、阿茶局にまつわる、こんなエピソードです。

家康が将軍の位を秀忠に禅譲し駿府に隠居していた頃


秀忠の側近の酒井家次が将軍の代理で正月元旦の年賀の使い( 賀使 )として家康の元を訪ねた。

その際、その年は大変寒い年で、家次は寒いので、あんまり深く考えず・・

礼式もわきまえず軽〜い気持ちで寒気予防のために先ず綿帽子を頭にかぶって、その上から公的な礼服着装の際に被る折烏帽子( 侍烏帽子 )をかぶって、元旦のご挨拶に臨んだらしいのですが


将軍の使いとして公式に家康に年賀のご挨拶をするとき

運悪く侍烏帽子がすぽっと脱げて、内側にかぶっていた綿帽子が露わになってしまった。


家康は、これが気に入らず、

「 お前の父の忠次のような老体ならともかく、
  お前のような若者が、そんなことをするとは!なんとも横柄、横着で無礼なことだ・・
 隠居した身である、わしの前だから、事は大したことではないが、もし、これが江戸の諸大名が列席する公式の行事の前であってみろ・・こういった場で、こういうことがあって、側近であるそちが、礼法にない綿帽子なんかを丸出しにし間抜けな姿をさらしたら・・・これは将軍家の恥・・諸大名からの失笑の種・・ひいては、その御威光にもかかわることぞ!
なんたることぞ! 」と家次を、ものすごい剣幕で叱りつけた。

 家次は、家康の勘気にふれ、ただただ恐れ入って小刻みに震え平伏していたが

これを傍らで見て不憫に思った阿茶局はとっさの機転を利かし


家康に

「 家次殿は実は昨夜、ひどい風邪で、とても年賀のご挨拶は無理なご様子でした。

これでは明日の拝謁がかなわない・・1日延ばして1月2日にしようか・・実は思い悩んでいると申しますので
もし、年賀のご挨拶を1日延ばしたら、いくらひどい風邪とはいえ、大御所さま( 家康公 )が、どうお思い遊ばすか・・・その心証を量りかねるので・・

そんなことをするくらいなら

 私(阿茶)が厚着をしてもよい、綿帽子をつけてでもよいから、少々無理してでも年賀のご挨拶の大役を果たした方がよいでしょう。
 

と家次殿に私(阿茶)が申したのです。

このことは全て私(阿茶)の一存でしたことで、決して家次殿の思いつきではないのです 」

と( 嘘 )の事情を話し、家臣の窮状を救うために、自分に非を着せ、とっさに助け船を出したそうです。


阿茶局にそう言われた家康は、怒りを鎮め、家次は、何とか事なきを得たとのことです。



こういったことは、ほんの些事に過ぎませんが、こんなことが自然かつ咄嗟にできて、しかも巧く場をおさめられるような人は、そんなに多くないかもしれません。

普段から心のトレーニングをしており、思いやりを耕し、なおかつ聡明でないと、咄嗟( 反射的 )に、こういうことは出来ない・・場もおさめられないでしょう。

( これとは反対で何らかの失態を犯し責められたりしたら、自我防衛のため咄嗟に他人に罪<非>をなすりつけ、濡れ衣を着せ、後で良心が傷み後悔し心が消極的になる因を作って、その後の心のリカバーに多くの労力と時間を要する方も多いです・・ )



人格に優れていただけでなく才知に長けていて聡明だった・・ということについては上記のエピソードからも彷彿されますが

その聡明さだけでなく彼女には腹力( 腹の力 )もあって、その腹力が歴史にまで影響を与えたエピソードとして
阿茶局が「 大阪冬の陣 」で、豊臣方との和議に際し徳川方から特使として派遣され政治的役割を果たしたことがよく知られています。


 阿茶局を一躍日本史に登場させた、この和議については、TVドラマで放映されてるような・・あんな和やかで生易しいものではなかった・・この和議は、リアルの現場では恐ろしいくらいの腹の力が要求されるものだったと言われています。

 と言いますのも・・講和の談判の最中も、講和を有利に進めるために徳川方の戦闘は中止されず・・闘いの真っ最中でして、

矢を射当てたとき、射手が大声をあげる矢叫びの声や
双方の剣戟( けんげき )の響きがキンキン響き渡って物凄い修羅場のまさに真っただ中です。


しかも、イギリスから輸入した大砲( セーカー砲、カルバリン砲 有効射程距離1800m、最大射程距離6300m )の砲弾( 一個の重さ約8kg )が大阪城にバンバン撃ち込まれ、轟音が鳴り響く中を講和( 和議 )の為に往来し和議に臨んだと言われています。

そのため阿茶局は、鉄製の駕籠に乗って大阪城に行った・・
和議の為の談判中も駕籠の中から大声で会話したという逸話まであります。

( しかし、いくら鉄製の駕籠に乗って、その中にいても・・
一個の重さ約8kgの砲弾が秒速500mでやってきて、
もし万一運悪く阿茶局が乗ってる駕籠に、ドカーンと直撃したら・・その衝撃力は50tです。

いくら鉄製の駕籠でも、ただでは済まないでしょう。

それに・・あまりに頑丈にしたら、駕籠を運ぶ人も重くて運べないでしょう・・

ですので

鉄製の駕籠と言っても「 流れ弾や流れ矢を防ぐ程度 」の気休めだったのではないかと・・

 そういう背景からして「 家康公の為ならば・・お役に立つなら・・ 」という強い思いがあって、才知だけでなく度胸もあり腹の力がないと交渉の場にすら立てないのではないでしょうか?
・・普通の女子(おなご)では無理ではないかと思われます。
こういう方を列女と言うんではないかと・・




「 大坂夏の陣 」では真田幸村が家康本陣を狙って
鋭く切り込んで、その覇気に気圧され、本陣の旗本隊が、逃げ腰になり
崩れかかって危機に陥った時、攻めてくる相手に決して背を見せず
家康の傍らにいて、矢面に立ち、体を張って家康を守ったのが
阿茶局( あちゃのつぼね )その人だったとも言われてますので・・

そういうことをされてる・・ということは「鏡の法則」( 与えたら、与えたものが与えられやすくなるという返報性の原理)から

命懸けで守ってもらえるくらいの愛を返されるくらいなのだから家康公は、この方を実に深く愛してよく尽くしていた・・と言えるのではないでしょうか?



事実として家康は遺言で剃髪すらさせてません。特別待遇です。
( 他の側室は全員 家康死後、尼になったと聞いています )



そういう具合に家康は阿茶局から篤く信頼され、よく尽くされ愛されてたし、、家康自身も懇意にしてたがゆえに心身のエネルギー状態もよく心の強さ、積極性が保たれ

節目・節目の危機で

苦しまぎれ・・とか・・周りに迎合し便乗で決断したりだとか

激情に駆られて決断するわけでもなく単なる思いつき・・気まぐれで決断するわけでもない

冷静かつ沈着に情勢判断を誤らず対処し大きな決断をくだし得て、
それがよい結果につながったのではないでしょうか?


その一方で、これがおかしくなるといくら強運の星の下に生まれていても陰陽の調和が崩れ、決断を下す当の本人の判断をおかしくし優柔不断性、横暴性、傲慢性・・などの消極性が出てきて重大な転機における選択にも大きな影響を与え運を落とす場合がある。




 こういうふうに調査してみると・・やはり夫婦愛のエネルギーの交流( 言葉、態度、振る舞い )が自然にお互いの人格を創り、何らかの周期性のある運気にも影響する





よく尽くし尽くされてお互いよきものを交換し合う夫婦愛のエネルギーの交流が心の態度にも影響し円満な場合の仕事や生活にもたらす影響というのは
甚大なものがあるのかもしれない・・また、このよしあしが運気の周期における重大な岐路において盛衰に関係するかもしれない・・というのが、何となく視えてくるような気もしています。

 戦国時代の三英傑は、結構ばっちりと年数がハマって周期性があるように思えます。

 こういう分野もさらに研究が進んで、夫婦円満の新たな動機付けになるとよいですよね。


これらの記事が何らかの参考になれば幸いです。


( 以下の記事は、筆者である私自身の言葉を付け加えて表現し直してますが・・・ )


まあ多少の不満はあるかもしれませんが・・完璧な人間なんていないわけだし、普段からお互い多少の欠点は、まあまあと目を瞑り合ってお互いの良いところを認め合い交換し合うってのは意外に大事だと・・この記事を書きながら思った次第です。


( 関連記事 )

12年周期の運気の盛衰と男女愛のエネルギー( H・フォード )

個人の運気というのは、元々その人が持って生まれた「 生命の器 」や初期値的な運の強さというものがあって、これは如何ともしがたいものがあるでしょうし、生まれた環境といった背景要因もある。




さらには、人には運気の自然の流れと言いますか、何らかの春夏秋冬の大きな運の流れがあると言われています。



生きてたら上手くいかない時期だってある。

頑張っても頑張っても何故か噛み合わず上手くいかなく感じる時期もあったりしますよね。


そういうときこそ焦らず、じっくり構えて準備に時間を割き淡々と過ごすとかいう工夫をしてる方も多いと思います。


そういった個人の運気の流れというのは数多く研究されてきてますので、この記事をお読みのあなたも、一度くらいは、個々の運勢や運命を判断する占いの本とかを読んで、ご自身に当てはめてみたこともあるのではないでしょうか?


 私も運命とか運勢とかに興味があって研究してきたわけですが、

 そういった個人の運気というものが、元々持っている個人の運命傾向や個人の生命の波と言いますかリズムだけでなく、


  どういう方と巡り合い関わるか?という( 外的な )出会い( 関わる人や本人の決意による後天的修練等 )によっても運の強化ができるし巡り合う人によって大難が小難になったり好運の波が増幅される場合がある・・あるいは、その逆もあるのではないか?


例えば


あなたが書斎で、いい気分でいるときに


 いきなり誰かが書斎に入ってきて愚痴や不平不満を口にし、他の人の悪口や陰口を言い始めたら・・一挙に気持ちが盛り下がるでしょう。

人間、なにかにつけ、いい訳を言う人間、思い方、考え方が退廃的で後ろ向き・・消極的な人間とつき合ってたら・・積極的な気持ち( 好運をもたらす心の波 )を、そのまま保つのは割と困難ですよね。


その反対に‥落ち込んでるときなんかに、「 あなたなら出来るよ・・」とにっこり笑って勇気づけてくれたら・・それだけで一挙に気持ちが持ち上がったりする・・



なかでも配偶者( 恋人を含む )ってのは、身近でよく交流してる分、お互いに相当に大きな影響を与える場合がある・・

 日々生活してるなかで交流度合いが深いということを鑑みると


 巡り合う人の中でも最も色濃い影響を与え合うのは「 配偶者( 恋人を含む ) 」は外せないだろう・・

 人によっては奥さん( 旦那さん )との会話が硬直し

 1日の会話が、「飯(めし)はまだか?」「 風呂は??」「 酒あるか?」「 ああ、疲れた・・もう寝る・・」という4つか5つの会話しかない・・(;^_^A という殿方もいるみたいなんであれでして・・(;^_^A


最も深い交流をしてるのが先生(師匠)であったり、友人だったり、なんらかの教えを書いた本から強い感化を受けてたりする場合もあるかもしれないけども


一般的・・世間的には「 配偶者( 恋人を含む ) 」の影響は、凄いあるだろう・・と思ったので、前回のブログでは「 配偶者 」にフォーカスし
戦国時代の三英傑( 信長、秀吉、家康 )で運気の12年周期の盛衰を調べて仮説検証してみました。




この配偶者との交わりによる運気のリズムについては、日本人だけでは心もとないので、例えばアメリカにおける「 自動車王 」と言われているヘンリー・フォードなんかについても調べてみたいと思います。


なお、なぜ?この方を選んだかと言いますと・・フォード氏の妻のクララという方は、アメリカにおいても評判の賢妻と言われてる方でして・・フォード氏の成功は、この妻無くしてあり得ないとも囁かれてるからです。





 そこで実際の史実に当てはめつつ検証してみたところ、フォード氏は元々初期値として、非常に強い運を持った方で・・まあ、いろいろ調べたら・・やはりこのフォードと言う方も、感化された座右の書があって、トラインの本を青年の頃から真剣に読んで、自己を耕していたらしいです・・


今回は配偶者にフォーカスしてるので、もう長くなりすぎるので・・その言及はしませんけど・・


 どう足掻いても(;^_^A・・調べれば調べるほどクララと結婚してからフォードは運気が大きく拓かれているように思います。


( そういう賢妻<優れた恋人>に出会い、よく尽くし合うことが出来たのは、フォードは、先に挙げたような一冊の本を青年の頃から、深く吟味的に読み、自身を磨くことを怠らなかったから出会ったんだ・・と言われたら身もふたもないわけですが・・)


 彼女と結婚後における周期的な運気のリズムもそれとなく感じられましたので考察してみます。





先ず簡単にヘンリー・フォードの少年〜青年時代について述べるなら

フォード氏は、無類の機械好きで機械いじりが大好きでしたが学校の勉強には興味を持てず
早く仕事がしたくてたまらなくて16歳で高校を中退しています。


最初は、時計を作る大きな会社を興すのを夢みて、そのスキルを磨くために、機械工場で働き始め

その後も、かけもちで働いたりして機械に対する知識とスキルを磨くために
色んな職を転々としたと言われています。


自動車開発に興味を持った理由を自叙伝などから探ってみますと・・


フォードは田舎の農家の息子に生まれ自身が子供の頃から農業に携わって苦労していた。


 そのときの農作業における人馬の辛さ、労苦を骨身に感じたからだそうでして

これを少しでも軽くし楽にしてあげたかった・・というのがあったのだとか・・・


 また・・フォードが若き頃、住んでいたところからは少し離れた町で、
その当時、とても珍しかった「 車の展示会 」と言うのがあったそうで

( ※ただし当時の「 車 」と言うのは今のような、かっこいいものでは決してない )

 それを見学に行って目にしたことで

 自分自身で実用的な自動車を開発したい・・
という欲に火がつく原体験になった・・という記述が自叙伝の中で述べられてました。

実際にフォードは、農作業の苦役を軽くするための蒸気発動自動車を、
ありあわせの部品で試作したこともあったようです。


しかし、20代前半の頃は目標も定まっておらず職を転々としてたと言われてます。


ところが1888年 25歳の時にクララ・ジェーン・ブライアントと結婚して、そこから3年後の1891年にエジソンの関連会社に運よく就職できて夜勤の勤務をすることになりました。

これが先ずはフォードにとって幸運の兆しと言えるのではないかと思います。







フォードがエジソンの関連会社を転職先に選んだ理由は・・一説には、車のガソリン・エンジンを点火させるための電気の知識を学びたくて雇用機会を狙ってたとも言われてますが・・

 
 クララと結婚して3年で転機を迎えてるというのも、何らかの幸運と運気のリズムを感じます。

以下にクララ・ジェーン・ブライアント女史の写真と簡単な略歴がありますので引用しておきます。
( 英語ですが )


クララ・ジェーン・ブライアント・フォード
   ↑ ↑ ↑
 外見だけで判断するのは危険ですが・・雰囲気や印象からして、大らかで温かく包容力がある・・肝っ玉母さんタイプの感じですね。
それと・・無私的と言いますか・・我が超薄い感じがします。
自分が‥自分が・・ってのがあんまりない感じですね。(^_^)
 






そうして

クララと結婚後、転職先のエジソン照明会社で、瞬く間に頭角をあらわし、たった2年で異例とも言えるチーフ・エンジニアに昇進しこの会社本部で機械部の監督を任され
給与も月45ドルから月150ドルに跳ね上がっています。

このときには、昼間の勤務になっています。

※最初の勤務形態は「 夜勤 」だったのですが、敢えてそうしていたのはフォードなりの理由があって・・昼間は自分の自動車開発の研究に時間を割きたかったのでそうした・・という記述もありました。


 フォードは、この会社で周囲からの信頼も厚くなっていったので、ここで、そのままずっと働いてれば順調に出世しサラリーマンとして安定した生活を営めるはずなのですが、彼は、決してこれでは満足できなかったようです。

昼間はエジソンの会社でチーフ・エンジニアとして働き、
帰宅してからは、すぐに作業服に着替えて
夜中の2時〜3時まで金鎚(かなづち)を片手に自動車を作るために働く・・

自宅の一角を改造した作業場で徹夜することも多かったのだとか。


そういうダブルワーク状態を続けるうちに

自動車の試作とサラリーマンの二足のわらじでは、
自動車開発は覚束ないと思い始め

自身の手による自動車の製作に微かな手ごたえを感じ、事業化できると確信した頃に
妻(クララ)の了解も得て7年勤めた会社を退職しサラリーマン生活に終止符を打っています。



なお


退職に際してエジソン照明会社の社長さんからは、

「 なぜこんなに高待遇で将来も嘱望されてるのに辞めるのだ!ガソリンの車なんて需要はない!
この大馬鹿もんが! 」と猛反対されましたが

エジソン本人には理解され35歳の時に独立しています。

ちなみに・・もし、クララが小利口な方だったら・・夫の退職には決して賛成してないのかもしれません。

それに、クララが夫と共に困難を共有しようという勇気や冒険心がなかったら・・H・フォードも退職を躊躇してたかもしれません。

給料の良い仕事を捨て「 あなたがやりたい好きな仕事をなさってください 」と言うことは、子供を抱えてたりなんかしたら・・妻にとっても、大変な決断であったと推察されます。


彼の下積み時代の変人エピソード(のひとつ)で面白いものもあるのですが


H・フォードは、サラリーマンとしてエジソンの関連会社で働きながら、夜は自動車開発に熱意を傾ける日々を送って、会社を退職した後しばらくして、当時、ごく一部の富裕層しか買えなかった車を購入しています。

この当時の車の金額は、まだまだ馬が主流の時代で
オーダーメイドに近い状態だったので1台4000ドルくらいでして・・
これは当時のアメリカ国民の平均年収のだいたい7〜8年分に当たる金額でした。

今の貨幣価値で換算したら、それなりに立派な一戸建ての家が買えるくらいの値段だったはずです。

なので、そんな高価なものを購入したフォードを世間( 近隣住民 )は羨ましがったそうです。



 ですが、そういった世間の評判は、しばらくして・・またもや地に落ち、
批判と嘲笑の的になってしまいます。


 なぜなら、フォード青年は、その高価な車を乗り回すわけでもなく
自宅の片隅を改造した作業場で分解し始め、また組み立てる・・
組み立てたと思ったら、また分解する・・
そうして、また組み直す・・という作業を黙々・・延々と始めたからです。




これが噂になっていき世間の人はフォードを
「 また、わけのわからないことをしはじめた・・本当に変人だ・・ 」としか見ることができない・・

 フォード自身も決して社交的でなく寡黙( 無口 )で、仕事に関する質問をされても
YESかNoでしか答えなかったそうでして・・
今でいうところのコミュ力がない・・そのせいかもしれませんが・・周りは四面楚歌状態だったようです。




当時の人々は、そういったフォードの見えざる理念と信念・・
それに基づく行動を理解できなかった・・皆目わからなかった・・ということでしょう。


夫を信じる信念と夫愛が、めちゃくちゃ強い・・肝っ玉奥さんのクララとエジソンやバーバンク・・A・カーネギー、ジェイムズ・クーゼン等のごくごく一部の方を除いては・・


実際に農場を継いでもらいたかった父親から猛反対され隣近所の人たちからもスポイルされてたのは
自伝などを調べると間違いない事実のようです。

ですがフォードの妻のクララは、とりわけ格別に、そんなフォードを心から励まし勇気づけ、ただ口で励ますだけでなく夫と同じ方向を向いて一緒に汗を流して苦楽を共にし夫を心底から信じ支え続けてたとされています。

以下に会社に勤めながら、仕事が終わった後に作業していたサラリーマン時代のフォードが30歳くらいのときの自動車開発秘話もありました。


「自動車王ヘンリー・フォードの妻クララ夫人」( 自動車開発秘話 )





なお

H・フォードが一般的でなく変わり者だった伝説は、先に紹介したもの以外にも幾つもあって順風満帆だったエジソン照明会社を退職し35歳で独立して後


資本家( 投資家 )たちの協力を得て、会社を作っていますが・・



 最初につくった会社は


 「 あんまり安くしたら、資金提供した、こっち<資本家>の実入り(儲け)が少なくなるじゃないか・・それなりに高くして、経営している側のあなた( フォード氏 )とこっち<資本家>の実入り(儲け)が最大化するように、一部のお金の余裕のある人に、高い値段で売っておけば、それでよいのだ・・ 」

という、ごくごく一般的な考え方をする資本( 投資 )家たちと折り合いがつかなくなり意見が激しく対立して、それにどうしても妥協点を見つけられなかったフォードは、人間関係もごたごたし、投資家たちに幾度も言われるうちに怒り心頭に達してしまい、
その怒りが沸点を越えちゃって、とうとう自分から・・せっかく自身で立ちあげた会社を辞めたりしてます。OUCH!
 
 


事業的にも、最初は、てんで上手くいかず、所謂すっからぴんを5回も経験しています。

事業やってるような方で、たった一度の手痛い失敗で、二度と立ち上がれない方だっているわけです。

 そういうことを考え併せるとフォード氏は失敗に対する痛みの耐性があると言いますか・・

 過敏性の人間じゃないことは確かなようでして

 失敗から学ぶ力も、どこか突き抜けてる・・ある意味、( いい意味で、へこたれない )失敗に鈍いのじゃないかと思われます。 
 そうじゃなかったとしたら、そもそも再起を図って6度も立ち上がることはできなかったのではないでしょうか?


しかし、そうは言えども・・さらに輪をかけ腹のすわった「 奥方の内助の功 」というのは計り知れないのではないかと・・


 なぜなら・・いくらフォードの心が強い・・一本神経の太い線が切れてるみたいに失敗や挫折に対して鈍い・・鈍感で失敗から学ぶ力に卓越したものがあるからと言っても、幾度挫折しようが、その心が自暴自棄で投げやりに陥ることなく維持できたのには・・我の薄い肝っ玉奥さんの強い信念と言いますか・・根拠のない自信と言いますか・・楽天的パワーも相当にあったのではないかと・・(;^_^A

 こういうエピソードを知るにつけ、フォード氏同様に、いい意味で、我が薄くて´神経の太い線がどこか抜けてる大らかで底抜けに楽天的な´クララ夫人がいなかったら


フォードは、あれほどの失敗や逆境の渦中で心の積極性を保てなかったのじゃないか?

この方は元々強い運を持ってますが・・奥方の大らかな支えがなかったら・・下手すると頭のちょっとおかしい仕事虫の変人技術屋で常識を欠いた人間として生涯を終わっていたのじゃないかしらん・・夫婦揃って、まさに紙一重だったのではないか?・・としか言いようがありません。

 

クララの立場に立ってみると・・現実問題・・5回も破産して、素寒貧を経験してまして・・
しかも子供まで抱えているなかで一文無しになっている・・

こういう喫緊の状況が現実に幾度もあってクララに小賢しい知識が豊富で肝っ玉も小さく・・かつ我が強く冷たい方だったら・・

  一般的には、不平不満を爆発させ



 「 なんて甲斐性のない駄目夫なんだろう・・

 ほんと何をやってもダメなんだから・・

 ・・私は、なんで、こんな夫と結婚しちゃったんだろう・・

ほんとにもう・・こんな生活もうまっぴらごめんだわ・・ 」


と不満たらたら・・心を消極化させて、口にする言葉も温かさや潤いがなくなって

ぶつぶつと文句や恨み事を言ってたかもしれない

いや‥普通は、こうなるでしょう・・・何らかの心がけと言いますか修練積んでない方だったら・・


もし仮に同じ立場になったら99.9%の方が、こうなると思います。


 心を積極化する後天的方法を知らず実践してなかったら・・あるいは、そういうのを知らなくても‥何らかの心がけのない方だったら・・一般的には、そうなっても仕方がない・・いや許せる・・(;^_^A



しかし、もしクララが、我が薄くなく小賢しい言葉を普段から駆使し、その心( 言葉 )を温かさで満たしてなかったら


「 お隣のジョーンズさんは、もう役員になったそうよ・・

 あの方の奥さん・・ミンクのコートを着てたわ・・

 それなのに、あなたときたら・・ほんとにもう・・ 」と愚痴をこぼして

子供にも「 お父さんみたいになっちゃいけませんよ・・ 」とため息と軽蔑交じりに棘のある文句を言うに違いないかと・・

もし同じ立場になって何らかの心がけ・・修養をしてない奥方だったら・・大半の奥方が、こうなると思う・・いやいや・・そうなってもしょうがない・・と申しますか・・(;^_^A


ただ・・

もしも、こんな言葉をブツブツがみがみ浴びせられ続けてたらH・フォードは落ち込んで実用的自動車作りを断念してたかもしれない・・





しかし、もし・・このときH・フォードが庶民的な価格の高機能の実用的自動車作りを断念してたら・・今みたいに世界の各都市の道路で、これだけの車が道路を走るような世の中になってかどうか・・実にアヤシイです。






それに

( こんなこと書くとクララをこよなく尊敬してる<特にアメリカ人>に怒られるかもしれんですが )

もし、クララが、どこか抜けてて( いい意味で )鈍くないと・・

さらには、その言葉にほどよい温熱と大らかな楽天性を耕してなかったら・・

 フォードが事業に幾度も失敗して落ち込んでるときなんかに

「 あなたならきっと出来るわ・・」とニッコリ励ますことはできてないでしょう。






一般的には口にする言葉を温かくできず


「 あなたは、ほんと何やっても駄目ね・・あなたには結局、素質がないのよ・・ 」

と冷静なことを恨みがましくブツブツ、ガミガミ呟いてしまい


 桁外れに強運のフォードも心がぽきんと折れて立ち上がれたかどうか・・本当にわからない・・です。

そういう苦境に陥った時に、夫の成功を夫以上に信じ支えるのは
< 一度ならず幾度も破産して、素寒貧という現実 >が、
重ーく、のしかかったら心の態度を積極に変容させるのは、良い意味で、どこか突き抜けてないと・・あるいは、何らかの修養を心がけてないと、そんなに簡単ではない気がします。

フォード夫妻は何回も無一文を繰り返してたようなので、そんな中で言葉を温かくし、その態度を温情に満ちたものに積極化するのは相当に難易度が高い・・言葉を温かくするスキルにおいても非常に難易度が高いと言えるのではないかと。





 ・・クララが、小利口で、小賢しい・・冷めた知識を振り回す方で、言葉を温かくし勇気づける・・思いやり偏差値の低い方だったら・・・夫であるフォードの佳いとこがブロックされ

 芽を出しつつあった新しい産業や当時としては画期的な新しい生産システムは潰れていたはずでしてアメリカの目覚ましい工業発展も・・フォーディズムを真似て、そこから弛まぬ改善を続けていったトヨタを代表格とする日本の現在の自動車産業の隆盛もなかったかもしれません。





H・フォードも労苦をわかちあってくれるクララの献身性は強い実感として肌身にしみて感じてたみたいで

彼女( クララ )のことを敬意と慈しみを切に込めてThe Believer( 僕の信者さん )と呼んでいたのだとか。



そうして

H・フォードをして

「 私の人生の最大・最良の日は、私がフォード夫人( クララ )と結婚した日でした 」

とまで言わしめ

フォード氏は輪廻転生を信じてたらしく

さらに駄目押しで

「 次にこの世に生まれてくるときは何になりたいか?」

と聞かれた際は

「 何でもかまわないが、ただ、妻とだけは一緒にいたい 」と答えたという逸話まで残ってます。

これだけ深く信頼されてたからクララから無条件の愛と献身を返されてたのかもしれないですね。

そうした妻の並々ならぬ協力と献身もあって、心を強められたH・フォードは
クララと1888年に結婚して約12年後の1899年にデトロイト自動車会社を創業しています。


そこからいろんな試練に遭遇しますが彼は決して諦めず、9年後の変化の年である1908年に
ジェイムズ・クーゼンらの経営手腕もあって、

あの爆発的ヒットになった伝説のT型フォードを見事に完成させ1899年から
12年で大きく飛躍しています。

( T型フォードは、扱いやすく機能的で高品質なのに850ドルという価格でして
当時(1908)としては画期的でした。

 この車は結局360ドルにまで価格を引き下げていまして、
彼の理念と願いのとおり庶民の手の届く価格にしています。
 
 T型フォードは売れに売れ、クララと結婚して
12×3=36年目の1924年には1000万台を突破することになります )





こういった史実に見られるようにH・フォードは嫁さんに一途に愛され信頼され敬われ励まされて
エネルギー状態がよかったことも幸いし

 多くの挫折、失敗や倒産という辛酸をなめ尽くしても、心の尊さ、強さ、温かさ・・清さを失わず、それをエネルギーに変え得ることが出来たとも言えるのではないでしょうか?



そんなH・フォードだからこそ


「 奉仕を主とする事業は栄え、利得を主とする事業は衰える 」


さらには


「 努力が効果をあらわすまでには時間がかかる。
多くの人はそれまでに飽き、迷い、挫折する 」

「 結果がわかっていなくても前進することだ。
やっている間に結果もでる 」


「 将来を恐れるものは失敗を恐れておのれの活動を制限する。

しかし、失敗は成長に続く唯一の機会である。

まじめな失敗は、なんら恥ではない。

失敗を恐れる心の中にこそ、恥辱は住む 」


こういった言葉が深い体験智として滲み出て語られたのかもしれません。



H・フォードの友人関係を調べてみますと

彼は上司だったエジソンだけでなく、あのルーサー・バーバンクとも非常に親しかったようです。

エジソンも小食で発明のヒントやインスピレーションを感受するために瞑想してたことは、あまりに有名ですが・・

ルーサー・バーバンクも聖者みたいな園芸家でして
H・フォードもエジソンやバーバンクに負けず劣らず

哲人経営者と言ってもいいくらい高潔で
瞑想をたしなみ瞑想で仕事の問題を解決したりすることも多く
簡素な生活をして、なおかつ自身の仕事が大好きだったことでも知られています。

フォードの若き頃( 30代〜40代 )の逸話を調べると・・

サラリーマン時代は昼間働いた後、いくらクララが洗濯しても追い付かない・・
機械油で真っ黒になった作業服に着替えて夜中の2時〜3時まで熱を入れて
「 実用的車作り 」という創作的行為に情熱を注いでますので、
ほぼ間違いなくリピドーを人々の役に立ち、楽にし
世の進軍に貢献する創造的なことに向けて熱変換し変容させてるかと思います。
じゃないとここまで精力的に働けないでしょう。


( それに・・いやいや、やらされてたのではなく、
  自分で自発的に熱意を持って取り組んでたから時間も忘れてたのでしょう )


下手すると徹夜・・そうしてまた会社に出勤っていうのを繰り返してたらしいので
私がやらないで誰がやる・・というような強い使命観に似た動機で
パッションを持って取り組んでたかと思います。





高潔で愛妻家で簡素な生活をして自分のやってる仕事に強い誇りを持ち
好きで好きでたまらなかったのも
クララから深く尊敬され信頼され、H・フォード本人以上に
夫の成功を確信する根拠になってたのかもしれないですね。




 ということで・・

やはり尽くし尽くされ、よいものを交換し合う夫婦愛のエネルギーの交流が自然にお互いの人格を創り、心を少しずつ強くする。運もよくする。

その一方で、これが何らかの原因でおかしくなって信頼を損ないエネルギーの交流がストップすると陰陽の調和が崩れ心の積極性にも少なからず影響を与え運気も乱れやすくなる。

( 自分の言葉を付け加えて表現し直してみますが・・・ )


お互い多少の欠点は目を瞑ってお互いの良いところを交換し合い、感謝し合う夫婦愛のエネルギーの交流が心の態度にも影響し円満な場合の仕事や生活にもたらす影響というのは甚大なものがあるのかもしれない・・また、このよしあしが運気の盛衰に関係するかもしれない例としてHフォードをピックアップしてみました。
 何かのお役に立てば幸いです。


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