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運の研究

2016年09月20日

山本権兵衛翁に学ぶ  ※不思議な運の強さ 「 因果の法則の考察 」

 


 前回のメルマガの隠しテーマとして運の強さ( 運の良さ )は、何が関与するのか?というのをまぶしたことは記憶に新しいと思います。


 
 具体的には、明治時代の偉人・傑士のおひとり「 山本権兵衛翁 」が、意外な形で奥さんと出会ったいきさつのことを紹介し、
その後の不思議な運の良さについては、なんらかの法則関係があるのではないか?その運の良さの本質を探り、´それ´を知ることで私たちの生き方や生活に役立て得ることがあるのではないか?ということで少し言及してみました。



こういう法則が作用してるのではないか?というのは仮説ですし
 戦争が関わってる方を扱うのは、今は流行らないんですが・・あえて今回もこのことについて記事にしてみます。




そもそも私が山本権兵衛という方に興味を持ったのは、



不思議に運のよい方と言われている「 東郷平八郎元帥 」のことを深堀りで調べたことがありまして
それがきっかけになっています。

 

東郷平八郎という方を一躍有名にし「 TOGO 」にしたのは


 ロシアの南下政策との軋轢で衝突した日露戦争の最終局面・・日本海海戦において翁が連合艦隊司令長官として指揮しバルチック艦隊を撃破したこと

 これが、その名を世界に押し上げる大きな要因になったと言われてます。

 ※ちなみに、私の場合、そんなに日本の誇りある伝統がどうとか光輝な文化云々が・・とか頓着ありません。 かなりドライなほうです。

 例えば・・1世紀ころの日本とギリシャ、ローマ文化比べてみたら、その文化、技術水準等
歴然の差でして日本人が1世紀頃に必死に汗かきながら火起こししてるときにギリシャ、ローマあたりでは、こんなの作ってますんで・・ホントよく追いついたと思う・・こういうのを大局的に俯瞰すると、これからはアジアの時代ってのも荒唐無稽な話ではなく、なんとはなしにおぼろげに見えてくるものがある気もしますが・・・

 bunkahikaku

 それはさておき


 この海戦では、秋山眞之参謀などの立てた戦略・戦術が、うまくはまったのはもちろん、幾ばくかの幸運が重なったことも勝利につながった・・とされていまして、東郷翁の運のよさを象徴するものとして位置付ける方も多いようです。



このとき、もし日本がロシアに負けてたらどうなってたでしょうか・・

 太平洋戦争で日ソ中立条約を一方的に破棄されて、あっという間に侵攻され占拠された
「北方領土」

 これは、日本以外の大国のいろんなしがらみや軍地政学的なことなどが絡みついてて、なかなか前に進まない外交問題の一つですけど・・

 この問題が70年経った今現在ですらも解決されず、いまだに北方4島が返還されてない寂しい現状を考えたら・・よくわかりますよね・・

 

 ちなみに日本の固有の領土で占拠されて、解決のめどがまだ立ってない島のひとつの
択捉島( えとろふとう )は3186kの面積があります。
 あまりピンと来ないかもしれませんが
沖縄の大きさが島全部合わせて2271k( うち沖縄本島 1207k屐)の大きさで
沖縄より大きいんですよ。鳥取県が、3507kなので、だいたい同じくらい。

 国後島だって1490kの大きさがある。
 香川県の面積が1862 kですんで、あんまり変わらない・・

 歯舞群島が100k
 色丹島が253kです。

hoppouryoudo

  戦争は悲惨・・・嫌に決まってるけど力の裏付けが無いとこうなってしまう・・残念ながら、これが世の中の現実・・

 ですので、あの当時の東郷平八郎元帥の運のよさは、国運を左右したと言っても決して言いすぎではないでしょう。





 ですが


 ちょっと待てよ・・・


 よくよく考えてみたら、そういう国難の際に運のよい東郷翁を抜擢した方というのも、相当に運がよいのじゃあるまいか?


こういう有事に、しっかりと人事配置できる方・・というのも

「 運がよい 」に更に輪をかけて「 運がよい 」

肝も据わってるはずだ・・とふと思ったわけです。


そういう些細な興味から


日露戦争当時、4歳年下なのに東郷翁の上官で

海軍大臣だった山本権兵衛という方に好奇心が湧いて

その生き方、生きざまを調査するに至りました。




 そうしたところ


本当に・・調べれば調べるほど魅力的な方で不思議に強運なんですよ。この方・・

「 東郷平八郎元帥は強運 」というブログやサイトは、それなりに多い割に

「 山本権兵衛翁は異様に強運 」という切り口のサイトはあまり見ないわけで残念至極なわけですけど・・とにかく運がよい方です。この御方は・・・




この方の生まれや若き頃を文献で調べたんですけど


ざっとかいつまんで語るなら

あまり裕福ではない士族の家に生まれてます。

家では父親から

スパルタの文武両道的家庭教育も受けています。
( 7、8歳の小さい頃から夜明け前の・・まだ日も出てない頃に、父親に連れ出され

冬場なんかは表面に氷が張ってる井戸水の氷を割った後に、その冷水をくみ上げて

 桶でくみ上げた冷たい水を・・ばしゃんばしゃん頭からぶっかけられる・・というのが日課だったみたいです・・

 その後、家の道場で剣術指導・・さらには学業・・


 父親の口癖は、「 負けるな!死んでも勝て! 」だったらしい・・

 現代だったら、見かたによっては限りなく児童虐待になるんじゃないかと思われます・・ )

 嫌なこと、辛いことを心が感じても、子供の頃父親から受けた・・あの折檻にも似た酷い仕打ち・・これに比べれば今のほうが遥かにましだ・・とそのまま受け容れ自らを空しくし只管前だけを向いて淡々と越えていった・・ということも十分考えられます。

 私のとこにメールでよく相談していた方のお一人もハッと気づいて意志の力を煥発し強化・活性化するノウハウの実践継続等で心の条件を整え、余裕が出てきて、ゆるやかに突破したケースが多いのですが






努力も惜しまないことで当然頭も、少しずつよくなっていく・・

どんどん頭もよくなり志も高いので当時の雄藩である薩摩藩( 今でいうところの鹿児島県庁 )から
選ばれた若者の一人になる・・


西郷隆盛翁や大久保利通翁とも交流しています。
もちろん何千・・何万という方々と交流したはずですが

山本青年( 当時 )も西郷翁や大久保翁と交流しています。

( ちなみに同じ町内<加治屋町>出身です )
西郷隆盛翁に紹介状を書いてもらって勝海舟にも面会して
昌平坂学問所、開成所を経て海軍兵学校で学ぶことになります。



ですが



海軍兵学校に入学した当初から、素行がよくなく

実戦経験のない先生を尊敬できなかったせいなのか・・
先生や事務員泣かせで・・もう手がつけられない・・
荒くれで当時は、お酒も飲む・・

だから教官の先生や事務方の覚(おぼ)えも悪いです。

実際、卒業するまでに3回ほど退校させられそうになっている・・




心酔していた西郷隆盛翁の鹿児島帰郷( 下野 )に同参しようと血気に走って21歳くらいのときに退校し、その後、鹿児島で西郷本人から諭され何とか復学したこともあるようです。


そういう理由もあり兵学校の同期の中では17席中16席で
席次( 評価 )も劣等でよくなかった。




この学生に有望な前途や将来性を感じた先生はいなかったんじゃないでしょうか?

まさかこの青年が将来、国を救う英雄(の一人)になって、偉人・傑士と讃えられるなんて・・当時の先生の誰が予想し得たでしょうか?



 ( 兵学校時代の・・呆れるくらい酷いエピソードを知るにつけ )

 将来性なんてとんでもない・・愛すべき存在どころの騒ぎじゃない・・
もう憎たらしくってしょうがない・・ほんと忌ま忌ましい・・・
 こんな問題学生がモノになるわけない・・どうせろくでもない人間になるに決まってる

もう顔を見るだけで虫酸が走るわい・・・と思った先生や事務員さんばかりだったと思われます。





それでも、めげない・・自分をあきらめない山本青年は22歳で兵学校を何とか・・・有難いことに・・ほんとまあギリギリのお情けに近い状態で卒業させてもらって

 士官候補生としての訓練を、させてもらえることになった25歳の時に

 筑波艦演習の訓練を受けていた合間に帰港した際

ちょうど真向かいに女郎屋があって、そこの2階に目をやったところ


そこの開けっぴろげになった窓の奥で、わいわいガヤガヤしてる中で

その他大勢の中で、一人だけ娘さんがシクシク泣いていて・・
周りから、いじめられてるようにも見え・・それが特別な存在として際立って見えてしまう


妙に気になって仕方がない
  




無垢で素な心がひょいっと煥発したんだと思いますが


 正義感や好奇心も手伝って事情を聞くために、この娘さんに会いに行く・・・

そうして実際に、この娘さんに会って、泣いてしまった理由やその生い立ちも聞いてしまう
       ↑ ↑ ↑
( 恐らく彼女をまじかで一目見て、雷に打たれるようなショックを受けたんだと思います )



そっから・・

・・いてもたってもいられなくなったんだと思いますが・・


その娘( トキさん )に


「 あなたは、こういうところにいるべき人じゃない・・」と強く諭したり

かつ

ありとあらゆる智謀と計略を使って・・

周りの協力もとりつけて、女郎屋から奪還し、

まるくおさめる・・( 何とかまるくおさまった )




  ↑ ↑ ↑

この出来事以降から、何かがはじけたようにクラリと変わって、ベースのところの運氣の流れが、だんだんと・・ゆっくり・・しかし確実によくなっていくわけです。
  ↓ ↓ ↓


 事実として、あんなに乱暴で先生から嫌われていて教官の先生や事務の方に憎まれ蔑まれ呆れられ席次( 評価 )もよくなかったのに

この娘さんを女郎屋から・・ある意味、強引なやり方で合法的に奪還して、結婚相手に選んで交流していくうちにベースのところが変わる・・と申しますか・・・なんだか、みょうに運がよくなって上向きになったせいなのでしょう・・


そういう出来事があった4〜5ヶ月後くらいに、海軍のホープ(の一人)としてドイツ留学が許される運びになる。


( 一説には、山本翁が、あまりに乱暴で、手に負えず、もてあましたのでドイツ艦にでも放り込んで性根を叩き直してもらえ・・という勢いで派遣された・・という説もありますが、とにかくそういう運びになる )


で・・ここでもまた運命の出会いともいうべき出会いをしています。

山本権兵衛翁をして後に生涯の師のうちの一人・・と公言するような方
( モンツ伯 )に、あの奪取劇があった4ケ月後くらいにいきなり会ってるわけです



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 <山本権兵衛翁が生涯の師と仰いだモンツ伯> ( 伯爵 山本権兵衛伝 上巻 より引用 )

この方( モンツ大佐<当時> )は高潔な人格と高い教養とを兼ね備えた
名門貴族でして、運のよいことに、この人から非常に気に入られ覚えがよくなる・・

兵学校などから8名ほど選ばれて乗艦していますが、文献を読み漁って、判断する限りでは、このなかでも特に目をかけられ一番気に入られ、愛され最も感化されたんじゃないでしょうか?

 あれほど、兵学校の先生や事務の方たちから煙たがられ嫌がられ蔑まれ憎まれ呆れられ

 もはや見るだけで嫌悪感が先立ち、呪いの言葉しか出ないような暗愚にしか見えない学生・・

 事実として何度も退校処分直前までいった方なのに・・


 なぜ、このときには、こうまで気に入られ目をかけられ覚えがよかったのでしょう・・

 これをお読みのあなたは、不思議に思いませんか?
 
 ( さかのぼること4か月前のたった一人の女の人にしてあげた強烈な善行と無関係ではない・・

 深いところにおいて因果で強くつながって
折りたたまれたものが現象界に時空的に展開されていく・・その後の出来事の縁起的展開にも影響してる・・と私は踏んでいます )

 



 そうして、このドイツ艦「 ヴィネタ 」に乗艦し1年半の厳しい訓練のなかで
グラフ・モンツ大佐(当時)の薫陶を受け講義や艦の運用実習による知識や技術の習得・・

軍政や政治経済も学び・・さらには徳目や西欧の合理主義的精神もマスターする。

 
そうしてさらにベースのところの運氣の流れがよくなっていき生活態度も改まるわけです。



このドイツ留学をした際に、あるドイツ将官に軍事において実習も大事だが思想および戦略や学術知識は、それを底支えするもので、もっと大事なので断酒をしてしっかり基礎的学問に励むことを忠告され、以降お酒をきっぱりやめた・・・という逸話も残っています。

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<山本権兵衛翁がドイツ艦ヴィネタに乗艦当時、学習の際に筆録したノート>
       ( 伯爵 山本権兵衛伝 上巻 より引用 )    


そうしてドイツ留学で、いろんなところを航海し日本に帰ってきてから

2年と半年後に帰りを待っていたトキさん( 後に登喜子に改名 )とめでたく正式に結婚するわけですが



超上げ間( ちょうあげまん )で超福女として前号のメルマガで取り上げた

山本権兵衛翁の奥さんの登喜子さんは

もし山本翁がこの方( 登喜子さん )と結婚して山本翁が大事にし愛し、愛されてなかったら

山本権兵衛翁は、非常な困難や苦境に陥った時に心を積極的に保てただろうか?

 あれほどの出世を遂げ偉人と言われるまでになってなかったんじゃないか?と私は観ています。

※なお、文中で用いられている「 上げ間( あげまん ) 」というのは、間を上げる、出来事と出来事のあいだの間( ま )・・・
言い換えれば、出来事と出来事をつなげる場のエネルギーを上げ交流することで、心を尊く清く積極的にし、なんだか間もよくなって運をよくしていく人・・という意味で用いています。

 女性に限ったものではないですので念のため





 まあ・・スピリチュアル的には、地位とか名誉とか権力・・物質的利益とかいった外面的なことを追い求めて心を一喜一憂させ躍起になるよりも心の落ち着きを求めるほうが、より本質。
 
「 人間は裸で生まれて裸でこの世を去ることは自明 」 
 なので自分の持ち物が増えたからと言って有頂天になって喜び・・
減ったからと言って悲しみ落胆する・・というのは、そういう真理に照らしたら賢明な生き方ではない・・
 
それらは霊性を大事にした生き方ではない・・

 異邦人が切に求めているもの・・と思いっきり言われそうでして
 

こういうのは第一義のことではない・・・・ということで反発する方も、いらっしゃるかもしれませんけど・・・



 そうは言っても




 世俗一般的には・・そっちのほうがワクワクする・・という方だって、それなりに多くいますよね。
 

 私は、これはこれで、ちらっと、わくわくするたちの人間でして・・

   すみませんね・・・こういう著者で・・




ということで、私自身が仮説的に推測している強運(の因)を作ったと思われる奪取劇については以下のサイトとかにも顛末が書かれていますので考察してみます。

日本海軍を作った男 山本権兵衛と愛妻・登喜子

海軍一の愛妻家☆山本権兵衛



海軍一の愛妻家☆山本権兵衛




知謀と胆力・・弟とのチームワーク力の炸裂ともいえる女郎屋からの更に細かいいきさつについては
色々調べたのですが・・   



 前にも紹介したように上記のサイトのほかには

山本権兵衛翁のキャリアを綴った本が有難いことに無料で閲覧できます。
  ↓ ↓ ↓
「 快傑伝 −国会図書館ライブラリーから 」


これのp76〜P104

コマ43/316〜コマ57/316

 に、さらなる詳細が書かれています。 奪還には色んな説があるようです。


一部抜粋しておきます。

gonbee

( 「 快傑伝 −国会図書館ライブラリーから引用 

もうここまで来ると映画になってもおかしくない・・
実際に少しだけ脚本を変えてドラマ化されたらしいです・・

すったもんだの押し問答で・・思わず口から出てくる権兵衛さんの小気味いい啖呵と薩摩弁
「 おい( 俺 )どんな知らぬ 」
が私の耳に焼き付いて離れません。 
 

 権兵衛翁は、おしが強く相手の弱みをつくのも上手で議論にめっぽう強かったという逸話がありますが・・
このときに既に、その片鱗が見え隠れしてます。

「 快傑伝 −国会図書館ライブラリーから 」


これのp76〜P104

コマ43/316〜コマ57/316




なお

品川で出会ってドイツ艦に乗り
 モンツ大佐(当時)の薫陶を受け、生活態度も改まり2年と半年後に正式に結婚したのは、トキさんが遊郭から「 足抜け 」するのに必要なお金を山本翁が自ら背負って女郎屋の主人に支払い終わったからだと思われます。

( 3年月賦にしてトキさんの見請けのお金を女郎屋の主人に支払う・・という話と史実が符合して妙な信憑性もあります。

 余談ですが、このとき山本翁に策を授けて共に協力してトキさんを救った翁の実弟である太田誠実翁も後に海軍少将<admiral>にまで出世しています・・これも福女と関わったお陰でしょうか? )








この超上げ間( ちょうあげまん )で福女のトキさんと結婚し交流を深めてから逆運をはね飛ばすような勢いで運がうなぎ登りによくなってさらに生活も締まってくる

これを裏付ける強運エピソードがあるので紹介してみますが


登喜子さんと正式に結婚して3年後くらいの山本翁が30歳の貧乏中尉の頃

ばりばり精力的に仕事をし

当時から日本の将来を憂えていて

危機感ももっており

海軍かくあるべしという・・周りの人には見えてないビジョンと信念を持ち

海軍の改革案をどんどん起案し、お構いなく意見を具申していた。


そうしたところ


これが理解されず生意気に思われたのか・・

あるいは

この頃には、既に頭角を現し若手のリーダー格になっていたらしいので
海軍内のごたごたに巻き込まれたせいなのか・・


当時の海軍トップだった榎本武揚海軍卿の癇気にふれたらしく

 一時、非職になり5ヶ月くらい浪人に近い状態に陥っています。
( 給与も1/3以下になっていわゆるニートに近い )



  ですが

 非職にした榎本卿のほうが逆にブーメランのように更迭されるという憂き目にあい、お役御免にされ



その後復職できています。



その後の強運&出世エピソードについては事欠きません。

とどまるところを知らない異様さを呈していきます。


 例えば・・35〜36歳の頃に7カ月以上かけて精魂込めて作成し提出された
分厚い「 海軍概況調査書 」の、あまりの出来の良さと運もあって

西郷従道翁という当時の明治政府の要人の目にとまり、この方に厚く信頼され出しビジョンを共有出来て仕事を大きくまかされる・・

 そうして日清戦争の勝利の陰の功労者にもなっています。




このことについては、司馬遼太郎氏は「 坂の上の雲 」のなかで

日清戦争時の山本権兵衛翁の働きを以下のように評しています。

( 以下引用 )

「 権兵衛は海軍建設者としては、
世界の海軍史上最大の男の一人であることはまぎれもない。

かれは、ほとんど無にちかいところから新海軍を設計し、建設し、
いわば海軍オーナーとして日清戦争の『海戦』の設計まで仕遂げた。」

  ( ここまで )


 事実として、山本翁は、40才(1891)の日清戦争開戦前に
海軍省大臣官房主事にも抜擢された後・・


国防における海軍の重要性を早くから悟って


西郷従道翁の後ろ盾のもと

陸軍重視の空気があり、風当たりが強い・・いわば逆風の中で海軍の日本( の国防 )における位置づけ、
地位向上に奮闘努力しています。

( 当時の海軍の予算は、陸軍の1/15以下 )

この当時の陸軍の顔触れは、実に、そうそうたるものでして


ざっと挙げるなら

川上操六陸軍中将・・大山巌陸軍卿、児玉源太郎陸軍次官・・そして背後にひかえる大御所の山県有朋

こういう人らを前に、近代海軍の重要性を力説し、予算獲得に奮闘し、議論をふっかけて一歩も退かなかったというのですから、ものすごい知謀・・闘志・・覇気・・さらには運のよさです。

( この当時は、陸軍の支配<制度>下に海軍が従属するような形で運営されていましたので、そういう弱い立場で、こういう人らに意見を具申し、かつ戦わせてたら、多少の筋が通っていても、なんだ生意気な・・と・・お役御免になるリスクがあります・・

 上記のメンツでは、同郷の方も含まれてはいますが長州閥の重鎮、山縣公なんかの癇にさわってたら左遷・・あるいはクビのリスクは高かったと思いますので運がよかった・・


 

それと同時に

大臣でもないのに、西郷従道海軍大臣( 当時 )から厚く信頼され、大臣みたいな権限を持って

人の育成・・士官教育や人事に筋をとおす新機軸の改革案をバンバン出し

人事制度の導入にも早くから着手し昇級制度も海上勤務や実地訓練を盛り込む等大ナタを振るう



当時軽視されていた砲術訓練に相当な力を入れる等

西欧式の新知識と見識をもとに近代的な海軍にするための大改革
( 藩閥にとらわれない大幅な人事刷新 )を断行しています。



なお



 こういう内輪の人事をいじるようなことをやるのは・・いくら大義名分があって心の態度も尊く気高くて

 全く私心がなくても理解されないことが多く相当に辛い作業です。



これを現代で言うなれば


 大企業であぐらをかいて、しまりがなく・・士気も落ち

 過去の功績に、いつまでもしがみついていて


 自分が満たされないものだから、ふんぞり返って部下にパワハラし

 精神的苦痛を追わせ

   運を落とす態度や行為に堕してしまい



 当時の志を亡くし、時代の変化に合わせて準備もしない・・放漫になり業績も傾いている出先の支社長や本部長のような立場にいる方々を組織の引き締めと将来の備え( 事業の繁栄 )の為に

 身分的には本社の課長代理程度の立場で


 お役御免にして、新しい人材を登用する

 本社でもビジョン合わず共有できない・・そして基準に達しない者は上の立場( 重役 )でも首を切る



放漫化し、たるんだところ


脆弱なところの膿みを出し

 返り血覚悟で

人事刷新する役回りといったところです。



これは・・ご存知の方は、ご存知のように・・

相当な不興( 恨み、憎しみ、誹り )をかい

負のエネルギーを受けます。


 相当に精神的にタフでないと体ばかりでなく

精神がやられ転落する方もいます。


国家の大事を最優先するという強い志があって
私心なく誠を尽くしたっても、そんなのお構いなく

周りの不興、妬み、憎しみ、恨みをかって

足元をすくわれたりする方もごまんといるわけです・・・



( 誇りだってあるし、我が身かわいさだって誰でも些少はある・・

 追い落とそうという動きだってあったでしょう。
 
 陰口や嫌がらせ・・誹謗中傷・・当時の上司である従道翁にあることないことの告げ口も多かったと聞いています・・ )


 そんな過酷な状況下で

西郷従道翁という実力者の後ろ盾があったとはいえ

日本の未来を見据えて、

海軍かくあるべしという・・周りが見えていないことを

実行するために強い信念とビジョンを抱いて

腹を決め私情をこえて誠を尽くして仕事をきっちりやり遂げる。



そうして、きっちりやり遂げても

さして健康も害してない・・負のエネルギーの影響も受けてない

足元をすくわれたりもしてない

という事実から見ても

これは尋常ならざる気高いビジョンと精神の強さ・・
さらに何かに守られるような運の良さだろうと思うわけです。


幹部97名解雇の大改革 日本を救った日本海軍の父 知性と胆力の人 山本権兵衛

     ↑ ↑ ↑
  当時の山本翁の立場( ポジション )からして、どれくらい大変なリストラだったかわかります。
 肝の据わった西郷従道翁ですら、懸念するほどだったようです・・

  それを、西郷従道翁に負担をかけず手を煩わせず、自らの手で、やり切ったわけですから・・



若くして軍務局長になってからも、新機軸の改革を進め、予算獲得に熱弁をふるう・・
( 日清戦争後の三国干渉があった問題を持ちだし、海軍力があったら、ああは決してならなかった・・と世界の大勢(当時)、ロシアの現状(当時)、日露関係の危惧(当時)に及んで・・
 当時の大蔵大臣相手に午前10時から午後5時まで・・ご飯も食べずに7時間しゃべりとおした・・大蔵大臣は、腹ペコになり、その根気と熱意に、とうとう根負けして折れて納得した・・という逸話も残っています )

こういった一連のことが国運を左右し、日本を極東の一小国としての国ではなく「 JAPAN 」として一躍世界史に登場させるのに十分な改革につながっていくわけです。

山本 権兵衛 司馬遼太郎「坂の上の雲」の中から










守られるような運のよさ・・勢いの強さの理由を考察してみたのですが



前号でも書いたように

もちろん、これまでの生きざまのなかで負けん気と粘り強さゆえに少しずつ培われることになった頭の良さ・・纏うことになった闘志や英氣・・志の強さ・・・人格的磁力・・非常に引き締まった堅牢な生活習慣・・というものは、運の良さ・・強運のファクターとして候補に挙げられると思いますけど、それだけでは説明できないものがある・・・

ふつう、こんなことをしたら恨みをかって一般に転落する・・・

身近で、よく知っていた甥っ子の英輔氏なんかは、甥である権兵衛翁のことを、あんなことやってたら、ふつうは、小佐か大佐でクビになっておかしくない・・と断言してるくらいです。


なぜ、ここまで運がよいのでしょうか?

この方の運の良さの本質とは、なんなのでしょうか?




それが、これから説明するもので、これは、私の・・あくまで仮説ですが



登喜子さんとの結婚に至るいきさつからして

山本 権兵衛さんが妻の登喜子さんから受け続けていた
感謝と喜び・・敬愛のエネルギーと言いますか・・
パワーというのは桁外れ・・底抜けだった
と思うのです。



あの当時は今と違って2号さんなんて当たり前の時代なのに

遊郭から奪還して、足抜けの為の借金( 恐らく今の貨幣価値で1000万円以上 )を自ら背負う

そればかりか

将来が約束されたも同然の海軍兵学校出の士官候補生(当時)・・全て官費でまかなわれ、大きなミスさえしなければ一生安泰が約束されたような立場でもある・・

まあ、山本翁は、そんな気概で海軍兵学校に入ったわけじゃないと思いますけど・・

そんな方が下男みたいに謙( へりくだ )って正式に妻として迎え

結婚の四ヵ月前には7カ条の誓約書まで渡す・・
しかも漢字の読めないトキさんのために、平仮名のふりがなまで添える


山本権兵衛海軍少尉の誓約書

  ↑ ↑ ↑
こんなことされたら、当時の絶望的状況もフラッシュバックして蘇り、言葉にならないくらい感激し、ふつう誰でも泣くと思います。
 山本翁から見たら、最も身近な方である登喜子さんからの感謝のされ方や尊敬・・敬愛の念が尋常じゃないくらい深く強いものだったのじゃないかと・・・





こういった出会いと・・出会ったときと変わらぬ誠実な行為を自身も示し続け、それを恐らく生涯貫いたことで


 登喜子さんの感謝は、底がずぼんと抜けちゃって感謝念の温泉の泉源を探り当てたみたいな感じで、感謝と尊敬がデイリーベースになり・・どんなことがあっても夫を支え守ろうと思ったんじゃないかと思うのです。

 そうして


登喜子さんから底抜けの感謝と恩義の念( この念がまたそんじょそこらとは桁違い・・尋常じゃない守りとしてのもの )が山本翁に絶えずしんしんと注がれることになり

これは、とても心地よい軽い氣になって妻を見るだけで自分がぱっと明るく元気になる・・嬉しく幸せになる・・
気持ちが晴れて楽になるというような感じで

夫の仕事へのテンションを上げまくっていた・・

※感謝され敬われたら誰だって嬉しい・・気持ちも明るく強くなる・・

  これが、こんこんと・・ずーーーっと続く・・

 しかも最も身近な人( 配偶者である妻 )からそれが与えられる・・という男性側から見て、とても嬉しい状態・・

 
その一方で

他からの嫉妬や妨害・・恨み、つらみ・・悪運(の念)・・これは重い氣で
重く暗くし、嫌な気分にして、心を騒がせ乱す類のものですが・・これをブーメランのように吹き飛ばしてしまう鉄壁の見えざる守護念になって

竜巻のように守護してブロックし吹き飛ばして
たんじゃないか?と思っています。


ややスピリチュアル入ってますが・・ いろんな経緯で登喜子さんは超上げ間( ちょうあげまん )で福女になったのじゃないかと・・思われます。





ちなみに・・・


登喜子さんは

家が貧しくて学校すらも通わせてもらえなかったらしいですが・・

妻となってからは夫に恥をかかせまいと

前だけ向いて寝る間も惜しんで勉強することで

もう、相当に努力し頑張ったのでしょう・・

登喜子さんにとって福男である夫( 山本翁 )の助けもあり、学校にも行かず独学で読み書きや礼儀作法・・
その他諸々のことを凄まじい努力で習得し家事や子供たちの教育一切を任される


来客した部下とかにも腰が低く親切で、それがあまりに自然なので、

応対された部下は、恐縮してしまい冷や汗が、じっとり滲んできて上司の山本翁との用件より、そっちのほうが印象に残るほどだったらしい・・

( 部下たちの間で、やっぱりお前もか・・と噂になるくらい )


また

自分が辛い目にあったせいか

 後年、山本総理の召使いとして、雇った方にも、とても丁重に接し優しかったらしく
 
後に「 賢夫人 」と言われるまでになっています。

 



山本権兵衛青年( 当時 )の人を見る目は、まっこと確かだったということでしょう。




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  ( 伯爵 山本権兵衛伝 上巻 から引用 )








なお



山本翁の事を色々調べるに


この方は超上げ間( ちょうあげまん )で超福女の登喜子さんに支えられて心の積極性を維持し日本の大きな危機をその強運と腹と頭で

二度救った( 守った )のじゃないかと思っています。




一度目は日露戦争にいたる過程で海軍大臣として予算獲得に奔走し

いよいよというときに予算が尽きた連合艦隊の旗艦ともいうべき「 三笠 」の購入に西郷従道翁と命をかけた
( 不正流用なので褒められたものではないですが、動機と志が昨今のとは違い過ぎるので )

幕末のエピソード




さらに私情をこえて・・合理的判断と・・ちょっといい・・(運がよい)という理由で

この三笠に乗艦する「 東郷平八郎翁 」を連合艦隊司令長官に抜擢したこと




2度目は、時の総理大臣が急死した空白期間に


関東大震災(1923・9.1)という未曽有の大災害が起きたのですが



関東大震災があった1923年9月1日 




その折に総理大臣として任に当たり

 後藤新平氏を復興を担う内務大臣として

東京復興の責任者においたことです。







もちろん、私たち・・あるいは、これから生まれてくる方々のほうが
遺伝学的にも
進化・向上という点でも「 もっと優れた立場で生まれる 」というのは
あるのかもしれませんけど



この方は、とにかく大きい生命力を有していて
覇気や闘気が凄まじく


あの時代の歴史のうねりというのもあったと思います。


それに

天が、すべての人に歴史に残る大将軍や
大実業家になる器量や才能を与えてるとは私には思えません。


ですが

少なくとも言えるのは

やはり心が強く積極的で不思議に運のよい人というのは、深く感謝され有難いと思われることをしていて
強烈に恩義に感じ、
絶えざる感謝をされ続けてる方が身近にいる・・と思ってます。


苦しみの原因を作れば苦しみの結果が生じるけれども、
有難いと感謝される喜びの原因を作れば喜びの結果が生じる・・
ある意味、因果の法則・・

不思議な運の強さの法則があって

強烈に感謝される喜びの原因を・・

意図的、偶発的にかかわらず作って・・折り重ねているのではないかと思うのです。


  天風先生も軍事スパイの時に偶然のめぐりあわせで女の子を救ったことが
 絶体絶命の境がいから救われる機縁になったことを述べたことがありますよね。


22.誠、中村天風の命を救ったもの

( 以下引用 )
makoto


以降の顛末は
22.誠、中村天風の命を救ったもののサイトに書かれています。

( ここまで )








ということで、最後にまとめますが

山本翁や天風先生の覇気というのは、生まれ育った環境や
時代のうねりが生み出したもので、そうそう身に帯びるのは難しい・・

それに時代の要求とマッチしないと、山本翁みたいな、あんな出世はできないでしょう。
これは時の運に乗って革めれた偶有性と言うのがあると思います。



それに

先に挙げた2事例、ああいった出来事というのは
そうそうあるものではない・・・


ですが



心を退転させる力に負け

 愚痴を言ったり罵ったりする病的な思い、悪意に満ちた思い、自堕落な思い・・不純な思いetcの心の消極性を綺麗に洗い流さず・・改善する努力を放棄し苦しみの原因を作れば試練に心を組み敷かれて苦しみの結果がある期間を経て生じるけれども、

強く決意し本心良心が導通しやすいように整えてあげ、それに自らを添わせて感謝される喜びの原因を少しずつ作って蓄積し、心の積極性を養っていければ喜びの結果が生じる因果法則
そして感謝されることと不思議な運の強さとの関係法則



これは働いてると思うんです。( 仮説ではありますけど )





 また

 根本のところで運がよくなるのにはいろんな方法やルートがあって

多くの方が私のサイトとかをじっくり読んで決意し実践することで、ある種の自覚にハッと気づく・・その頻度が多く強くなって、それが日々の安心感の増大やら・・その諸々に大きく作用しているというのは・・ほぼ間違いない・・と思われますが、その延長上に上記の法則はしっかり働いてる( と考えられる )


多くの方から報告があるのですが・・本人が決意し実践して、ある種の自覚が強くなると


心が受けている試練や苦難が・・どこか他人事で・・糠(ぬか)に釘になる・・

心に余裕が出てきて暖簾(のれん)に腕押し・・になったりする・・





ですのでサイトのあの技法の実践は基本で、それらプラス



身近な方を大事にする・・親切にする・・困った人がいたら、出来る範囲で援ける・・そういう小さなことをやっていく・・自身を取り巻く小さな悩みや課題を克服的に解決していく・・

奥さん( 旦那さん )を大事にし労い情愛を注ぐ
言葉を積極的にする・・ガミガミ不平を洩らし文句を言わない・・

お互い感謝のエネルギーを注ぎ合い、形(行動)で示して、お互いを上げ間(あげまん)<福男、福女>にしたほうがよい・・
あげまん(上げ間)の人は特に大事にする
という結論でした。


 こんなこと偉そうに書いてる私も信じられるに足る自分か?ということを内省し気をつけることにします。




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2016年10月19日

周りを高め繁栄させ幸せにした秀吉の正妻 寧々( 北の政所 )の信念に学ぶ 暗転と好転の理由

 

 今回も出来事と出来事の間( ま )・・エネルギーを高めて
運気を自然に上げ心を積極化させる福男、福女について考察してみます。




人間如何に生きたら葛藤なく命のいきおいが勢いよくなって日々幸福を感じて生きられるのか?とか・・
念願実現とか能力開発のテーマからは、やや離れるのですが、まあこういうのもいい・・と思い前回引き続き取りあげてみます。




さて


日本史のなかで福女を探索したら

これについては

豊臣秀吉の正妻の寧々( <北政所>別名<高台院> )が最もふさわしい・・

kitanomanodorokoro



このことについては異論は、ほぼないと思います。


 あまり歴史に詳しくない方でも、

この方の名前を幾度か聞いたことはあるのではないでしょうか。


現在放映中の大河ドラマ「 真田丸 」でも秀吉の正妻として、
あの鈴木京香さんが演じていたことは記憶に新しいと思います。



 寧々( 寧子 )のことはご存じなくても
 

豊臣秀吉( 藤吉郎 )は、知らない方はいないでしょう。

わたしの個人的( 信条的 )には、秀吉という方は・・うーーむ・・・という方なんですが、長所は学ぶことはできるし、あの塙保己一が尊敬していた方ということから取り上げてみます。

toyotomihideyoshi01


この方は「 日本史上で異様な出世をした天下人 」として知られてます。




 ですが



 この人の生い立ちを含めた史実を追っていくと、
秀吉は、寧々と結婚してお互いを高めあってなかったら、どうなってたか・・
かなり危ういと思ってます。





なお


 いろんな方々がいろんな視点から豊臣秀吉の奇蹟の栄達の理由をあれこれあげています。


所説を大きく分けると「 桁違いの心の強さ 」と「 対人関係の巧さ 」でして


 
 心の強さという点では



●初志貫徹・・どんなつまらなくみえることや人の嫌がることでも
心の積極性、心の強さを発揮し
  誠心誠意( 真心 )を尽くし、小さな目標でも手を抜かず何事も辛抱強くやり遂げ続けたから




 例を挙げるなら・・


 草履取りやらせたら草履取りの職務( 役割 )を理解しこの仕事がわが生涯の仕事・・と与えられた立場で四六時中目標遂行に頭脳を巡らし誠心誠意ベストを尽くして、身の丈に合ったところで頑張って實力をつける・・・

足軽やらせたら足軽の仕事( 役割 )を理解し、これがわが生涯の天職・・と思い与えられた立場でベストを尽くし、四六時中目標遂行に気を巡らし練り続け半端なことや、いい加減なことはしない・・
そうして誠意を尽くし十二分・・小さな目標を為す、そうして自身の實力を少しずつ養っていく

そうして、器と実力を少しずつ広げることで出世の階段を上がっていく

 侍大将をやらせたら、そこでもこれまでと同じように、これが我が一生の仕事・・と思い侍大将の立場と役割を自覚し四六時中小さな目標遂行に気を巡らし与えられた職分にベストを尽して、この立場で實力を培っていく

 大名やらせたら大名の職務( 役割 )を理解し与えられた立場で・・誠心誠意ベストを尽くして職分を果たし實力をつけていったということ





「 対人関係の巧さ 」という点では


 ●誰にも憎まれない、朗らかで誰からも好かれる・・人に、とても好かれる要素があったから



という2つです。( 少し私の言葉を加えてますが )



特に「 人に好かれる 」というのは
当たり前のようでいて、大事なこと・・と改めて共感してますが、




私も中学生の頃から

「 本質的なところの運命の修正は可能なのか?そのファクターは? 」

という素朴な問いとかがあって長年研究をしてることもありまして・・




 運を拓くには?ということについては、そこそこ年季が入ってますんで今回は異論を書いてみます。


 で


 結論から申しますと・・



多くの方々が秀吉という人物を研究して指摘なさってること・・

「 心の強さ、心の積極性、誠心誠意の真心 」(1)
「 人に好かれる 」(2)

(1)を貫くことが最も大事で、人に好かれるようにするのも大切なことと思ってますが


これだけじゃないと思ってるんです。








 史実を挙げながらインスピレーションの力も借りて、その理由をこれから論じていきますが・・


 先ず言えることは



  秀吉( 藤吉郎 )は、寧々に会って結婚する以前から
どんなつまらなそうな仕事も、これが我が天職とうち決めて・・誠心誠意・・
どんなきつくても心の積極性を発揮し精を出してた形跡があるんですよ。

 それに

・・人に好かれるように誠意を尽くしているふしもある

だのに挫折続きでして報われていない・・

 不遇続きと言いますか・・この方の身の上に起こる出来事が不幸で悲惨なんですよ。



これらは、wikiから引用して書いてるのが多いので、
今のところ確からしい史実とされてるものばかりです。


続きを読む

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2016年11月20日

運気の12年周期の盛衰と男女愛のエネルギー( 徳川家康、織田信長、豊臣秀吉 )

前回のブログでは

人との出会いなどで、出会い方がよければ、
心の態度の積極化がパワーアップしてスパークするという例として豊臣秀吉をとりあげ
運気の盛衰( 好不調のリズム )についても少しだけふれてみました。


やはり夫婦愛のエネルギーの交流( 言葉、態度、振る舞い )が自然にお互いの人格を創り、心を少しずつ強くする。

その一方で、これがおかしくなると陰陽の調和が崩れ心の積極性にも少なからず影響を与え運気も乱れる。



夫婦愛のエネルギーの交流が心の態度にも影響し
円満な場合の仕事や生活にもたらす影響というのは
甚大なものがあるのかもしれない・・
また、このよしあしが運気の盛衰に関係するかもしれない


その例として

秀吉バージョンだけでは心もとないので、「 織田信長バージョン 」
「 徳川家康バージョン 」でも執筆してみます。

ただし、この戦国時代当時の道徳観、倫理観と現代では、
相当な乖離があることは否めません。

現代の常識とは、かけ離れたものも多いです。



ですが、時代をこえても通用する普遍的なもの・・変わらざるものもあると思いますので・・





以上を踏まえて、先ずは


「 織田信長 」の場合でやってみると、

信長が最も愛したのは正室の濃姫と言われています。


濃姫は謎多き女性の一人とされてますが


僧侶から還俗し油売りから身を起こし戦国大名になった、あの斎藤道三の娘です。


この時代は家柄だけでは通用しない時代だからこそ、多くの才能・才覚が
頭ひとつ、腕一つでのし上がれる時代でして、
まさにこの人( 道三 )も、この時代を象徴したような方でした。

信長の政策のひとつであった「 楽市楽座 」や 「 関所の撤廃 」も
舅である道三が先に領内において類したこと( らしきこと )をしていたと言われています。
信長は斎藤道三らから学んだことを、楽市令として制度化し、より拡大して実行したとも言えます。


道三は信長の器量を本能的に見抜いたから
美姫で肝も据わって賢かった愛娘を信長にやったとも言われていますが
信長は、かの道三の娘の濃姫と1548年に政略結婚しています。



ただし、結婚当時は、「 うつけ者 」と言われ最低・・散々の評判です。

( 油断させるために、わざとそうしていた説もありますが )

「 信長公記 」にも、信長は、よくこれで人前に出られるなぁ・・
というような奇妙奇天烈な服装をしたり

品行方正とは程遠い・・と申しますか・・
行儀は悪く、城下では人目も憚らず柿や瓜をかじり
餅を食い、人に寄りかかり、肩にぶらさがって、ふらふら歩いていたこともあるのだとか。



しかし

そんな「 大うつけの信長 」でしたが

濃姫( 斎藤帰蝶 )を妻にして、跡目争いを制し

尾張一国をほぼ統一し頭角を現していきます。

そうして


1548+12=1560年 桶狭間の戦いで

世間の評価は一変します。



信長は出陣前の清洲城において

「 人生五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり 」
というフレーズで有名な「 敦盛(あつもり) 」を舞い
熱田神宮において戦勝祈願をした後、出陣しています。



そうして臨んだ、この戦いにおいて信長は情報を制し、機先を制し

気の緩みをついて

信長直轄で精鋭の2000〜3000の兵力を
義元本陣(の一点)に集中的にぶつけることで

5倍とも10倍とも言われている圧倒的な戦力差を覆し
「 東海の雄 」と言われた今川義元を打ち破っています。




この戦いの結果については周辺大名の、ほぼ誰も信長が勝つなんて予想もしてなかった。


ですので、これが信長にとって天下統一に向かう大きな布石になったのは、
ほぼ間違いないですよね。

信長の理念や信念の強さは・・もういろんな専門家が語り尽くしてる感がありますので
ここでは敢えてふれませんが・・個人的には濃姫と結婚してから信長の心の強さや信念が
さらにパワーアップし、そのスケールが拡大し勢いを増した・・
として史実を因果分析してみたい気持ちに駆られます。



それから約12年後

1560+12( +1)=1573年

1年ずれてますが、
中世的権威の象徴でもあった足利義昭を追放し
230年以上続いた室町幕府を滅ぼしてまして

その後も天下布武という大きな理念を抱いて天下統一事業にまい進し

強固な中央集権体制のかたちを作っています。


諸国大名が領地拡大や領土保護に、きゅうきゅうしてたのに・・
信長は、彼らとは、あまりに次元が違う
大志と合理的考えを持って行動していた・・と言えると思います。




その約9年後に変転があり

1582年に本能寺の変で倒れますが

濃姫と結婚後の運気の周期性( 運気のリズム )は感じられます。

こうしてみると道三の娘である濃姫と結婚したことで
信長の大胆さや志の大きさ・・心の強さ・・周囲の巻き込み力がさらにパワーアップし、
そのスケールも拡がり勢いを増した・・と見ることもできるのではないでしょうか?




次の秀吉バージョンは、以下にこってり書いてますので省略します。

秀吉バージョン




徳川家康バージョンについては


 家康の場合は阿茶局( あちゃのつぼね )が
信長の濃姫や秀吉の寧々( 北政所 )みたいな位置でして

 この方を1579年に側室にしてから
家康の運気は「 うなぎ登り 」になっています。

それまでは鳴かず飛ばず・・
いくら待っても鳴かないホトトギスでして
ひたすら下積み・・忍苦続きの日々です。



今川義元のもとでは、当時の家康(元康)の家臣団は
先陣ばかりを務めさせられ
言ってみれば「 使い捨て 」のような立場です。

1560年に義元が桶狭間の戦いで信長に敗れて後、
やっと今川家の人質から解放され三河で独立しています。

ですが

信長と同盟を結んで後も、今川家の時と同様、
その関係は実質的には、臣下とあまり変わらない立場で
最もリスクの多い先陣を任されることが多かった。





それに三方ヶ原の戦い(1572年)では、
武田信玄が指揮する
当時最強の武田軍に惨敗しています。

その際は、恐怖のあまり馬上で糞尿を垂れ流し、
ほうほうのていで浜松城に逃げ帰ったらしく・・

脱糞の匂いに気づいた部下から諌められた・・
という逸話まであるのだとか。


( お食事中の方には申し訳ない話ですが・・・ )



こういった逸話を知るにつけ

家康も最初から豪のものだったわけでもなく、聡明だったわけでも
元から忍耐強かったわけでもなく「 環境 」によって創られた分と

理想を意志し自ら意志、意欲をして自分自身の心を強く創っていった・・

武芸にも戦略にも秀でて聡明に自らを作っていった分の
合成的なものがあると観ています。



※余談ですが三河武士の強靭な結束力と強さも、
使い捨ての先陣を任される試練と苦難のなかで
作られ培われていったという説もあります。

 家康は6歳で織田家の元に人質に送られ、織田家が
今川家に敗れて後

今度は今川家の人質として駿府へ送られ、
8歳から19歳までの約12年間を
人質として生活することを余儀なくされてます・・

家康の類まれな忍耐強さは環境によって創られたとも言われています。

 結果論的には、これがあったから、よかったとも言えるわけですが・・







話を元に戻しますが

家康は、阿茶局( あちゃのつぼね )という福女に会う前は
かなり下積みでして戦闘においても先にも書いたように、
武田信玄に惨敗をし滅亡寸前まで追い込まれています。




結婚においても、家康は、あまり良い話を聞きません。

阿茶局を側室にする・・ずっと以前に築山殿と
政略結婚していますが、

この築山殿は、今川義元の養女で、お嬢様育ちで気位の高い女性でもあったことから、
あまりいい結婚ではなかった・・
大変だったという逸話も残っています。

( 家康が側室にした女性は、秀吉と違って貴種好みでなく、
家柄の良い女性は相手にせず、
全員身分の低い女性でして
聡明さや丈夫な子供を産んでくれそうな方・・
その他独特の基準で選んだのは、
この築山殿との結婚(の失敗)と秀吉の失敗から学んだとも言われています )




そんな忍従と下積みがずっと続くなかで
家康は、いっこうに芽が出ないわけでして


特に

家康が38歳の時、阿茶局( あちゃのつぼね 当時25歳 )を
側室にした時期

1579年は家康にとっては、まさにどん底でして・・

長男・・そして正室( 築山殿 )を・・
所謂「 築山殿事件 」で知られるお家騒動で、信長の命を享けて
家康自身の命令で切腹( 自害 )させる・・という痛恨の絶苦( 絶痛 )をなめています。



ですが

 聡明で人格的にも優れた阿茶局を側室にしてから約12年・・


心の積極性・・その強さがパワーアップし弾けたお陰か
 

どん底の苦から大きく飛躍しています。


細かくは1579+3=1582年

織田信長が明智光秀に本能寺の変で討たれ
明智軍から逃れるため、

滞在していた堺から山中(伊賀)を越え三河へ運よく無事に帰還し



そうして、これを吉に転じ
この頃に名参謀「 本多正信 」が家康の家臣になることで
甲斐、信濃を支配下に置くなど着実に勢力を伸ばしていきます。




そうして1579+3+9=1579+12=1591年には、豊臣秀吉に
臣下の礼をとってはいますが豊臣政権下で
重鎮( ご意見番の一人 )になっています。

 秀吉は、この時が絶頂期なのですけど・・
その2、3年前から判断がおかしくなり

秀吉の心の消極性のうち残酷性、横暴さ、傲慢性等が増したせいか
その後、失政、失策・・が目立つようになり民心も離れ

秀吉の弟で家臣にも慕われていた秀長が亡くなるなど不幸も続いてまして
 
 豊臣政権は、ほころびが見え始めてるなかで、
家康の場合は家臣団の結束力がさらに増して
国内における影響力が着実に大きくなっていきます。


 確か関東転封( 関東に移封 )になったのもこのくらいの時期でして
当時の視点からみたら左遷ですが、領地は250万石になり大きな転機になっています。


そこから更に9年後の決断が要求される変転の年・・
1600年に関ヶ原の戦いで圧勝し・・
そこから3年後・・1603年には江戸に幕府を開いています。

( 1591+12=1603 )


さらに、そこから12年
 大坂の陣(1615)で豊臣家を滅ぼし、その後300年近く続く
徳川幕府( 江戸幕府 )の雛型の完成をみています。


 家康は忍従と屈辱に耐える苦労続きの生活が長かったせいか
心の機微に敏感で部下はもちろん女の人の扱いにも長けてたようでして
先にも述べたように側室選びにも失敗せず・・秀吉みたいに
300人もの女性に手を出し色に溺れることもなく・・

秀吉の正妻だった寧々にも非常に丁重でした。



とりわけ阿茶局( あちゃのつぼね )を大事にし

 この方との間に子供はできませんでしたが
36年間・・自身が亡くなるまで篤く信頼し
よく尽くされエネルギーを貰っていたようです。


戦場にもたびたび同伴させてたという史実も残っています。

そのせいか阿茶局は、小牧長久手の戦いに同行した折
それが原因で流産した・・とも言われている・・・

人格的に優れていた・・ということについては以下の逸話から、なんとなく推察できます。


それは、阿茶局にまつわる、こんなエピソードです。

家康が将軍の位を秀忠に禅譲し駿府に隠居していた頃


秀忠の側近の酒井家次が将軍の代理で正月元旦の年賀の使い( 賀使 )として家康の元を訪ねた。

その際、その年は大変寒い年で、家次は寒いので、あんまり深く考えず・・

礼式もわきまえず軽〜い気持ちで寒気予防のために先ず綿帽子を頭にかぶって、その上から公的な礼服着装の際に被る折烏帽子( 侍烏帽子 )をかぶって、元旦のご挨拶に臨んだらしいのですが


将軍の使いとして公式に家康に年賀のご挨拶をするとき

運悪く侍烏帽子がすぽっと脱げて、内側にかぶっていた綿帽子が露わになってしまった。


家康は、これが気に入らず、

「 お前の父の忠次のような老体ならともかく、
  お前のような若者が、そんなことをするとは!なんとも横柄、横着で無礼なことだ・・
 隠居した身である、わしの前だから、事は大したことではないが、もし、これが江戸の諸大名が列席する公式の行事の前であってみろ・・こういった場で、こういうことがあって、側近であるそちが、礼法にない綿帽子なんかを丸出しにし間抜けな姿をさらしたら・・・これは将軍家の恥・・諸大名からの失笑の種・・ひいては、その御威光にもかかわることぞ!
なんたることぞ! 」と家次を、ものすごい剣幕で叱りつけた。

 家次は、家康の勘気にふれ、ただただ恐れ入って小刻みに震え平伏していたが

これを傍らで見て不憫に思った阿茶局はとっさの機転を利かし


家康に

「 家次殿は実は昨夜、ひどい風邪で、とても年賀のご挨拶は無理なご様子でした。

これでは明日の拝謁がかなわない・・1日延ばして1月2日にしようか・・実は思い悩んでいると申しますので
もし、年賀のご挨拶を1日延ばしたら、いくらひどい風邪とはいえ、大御所さま( 家康公 )が、どうお思い遊ばすか・・・その心証を量りかねるので・・

そんなことをするくらいなら

 私(阿茶)が厚着をしてもよい、綿帽子をつけてでもよいから、少々無理してでも年賀のご挨拶の大役を果たした方がよいでしょう。
 

と家次殿に私(阿茶)が申したのです。

このことは全て私(阿茶)の一存でしたことで、決して家次殿の思いつきではないのです 」

と( 嘘 )の事情を話し、家臣の窮状を救うために、自分に非を着せ、とっさに助け船を出したそうです。


阿茶局にそう言われた家康は、怒りを鎮め、家次は、何とか事なきを得たとのことです。



こういったことは、ほんの些事に過ぎませんが、こんなことが自然かつ咄嗟にできて、しかも巧く場をおさめられるような人は、そんなに多くないかもしれません。

普段から心のトレーニングをしており、思いやりを耕し、なおかつ聡明でないと、咄嗟( 反射的 )に、こういうことは出来ない・・場もおさめられないでしょう。

( これとは反対で何らかの失態を犯し責められたりしたら、自我防衛のため咄嗟に他人に罪<非>をなすりつけ、濡れ衣を着せ、後で良心が傷み後悔し心が消極的になる因を作って、その後の心のリカバーに多くの労力と時間を要する方も多いです・・ )



人格に優れてただけでなく才知に長けていて聡明だった・・ということについては上記のエピソードからも彷彿されますが

その聡明さが歴史にまで影響を与えたエピソードとして
阿茶局が「 大阪冬の陣 」で、豊臣方との和議に際し徳川方から特使として派遣され政治的役割を果たしたこともよく知られています。


ただし、和議については、TVドラマで放映されてるような・・あんな和やかで生易しいものではなかったと言われてます。

 講和の談判の最中も、講和を有利に進めるために徳川方の戦闘は中止されず・・闘いの真っ最中で、

矢を射当てたとき、射手が大声をあげる矢叫びの声や
双方の剣戟( けんげき )の響きがキンキン響き渡って物凄い修羅場の真っただ中・・


しかも、イギリスから輸入した大砲( セーカー砲、カルバリン砲 有効射程距離1800m、最大射程距離6300m )の砲弾( 一個の重さ約8kg )が大阪城にバンバン撃ち込まれ、轟音が鳴り響く中を講和( 和議 )の為に往来し和議に臨んだと言われています。

そのため阿茶局は、鉄製の駕籠に乗って大阪城に行った・・
和議の為の談判中も駕籠の中から大声で会話したという逸話まであります。

( いくら鉄製の駕籠に乗って、その中にいても・・
一個の重さ約8kgの砲弾が秒速500mでやってきて、
もし万一運悪く阿茶局が乗ってる駕籠に、ドカーンと直撃したら・・その衝撃力は50tです。

いくら鉄製の駕籠でも、ただでは済まないでしょう。

それに・・あまりに頑丈にしたら、駕籠を運ぶ人も重くて運べないでしょう・・

ですので

鉄製の駕籠と言っても「 流れ弾や流れ矢を防ぐ程度 」の気休めだったのではないかと・・

 そういう背景からして「 家康公の為ならば・・お役に立つなら・・ 」という強い思いがあって、才知だけでなく腹が据わってないと交渉の場にすら立てないのではないでしょうか?
・・普通の女子(おなご)では無理ではないかと思われます。
こういう方を列女と言うんではないかと・・ )


「 大坂夏の陣 」では真田幸村が家康本陣を狙って
鋭く切り込んで、その覇気に気圧され、本陣の旗本隊が、逃げ腰になり
崩れかかって危機に陥った時、攻めてくる相手に決して背を見せず
家康の傍らにいて、矢面に立ち、体を張って家康を守ったのが
阿茶局( あちゃのつぼね )その人だったとも言われてますので・・

そういうことをされてる・・ということは「鏡の法則」( 与えたら、与えたものが与えられやすくなるという返報性の原理)から

命懸けで守ってもらえるくらいの愛を返されるくらいなのだから家康公は、この方を実に深く愛していた・・と言えるのではないでしょうか?



事実として家康は遺言で剃髪すらさせてません。特別扱いです。
( 他の側室は全員 家康死後、尼になったと聞いています )



そういう具合に篤く信頼され、よく尽くされ愛されてたし懇意にしてたがゆえに
心身のエネルギー状態もよく心の強さ、積極性が保たれ

節目・節目の危機で

苦しまぎれ・・とか・・周りに迎合し便乗で決断したりだとか

激情に駆られて決断するわけでもなく単なる思いつき・・気まぐれで決断するわけでもない

冷静かつ沈着に情勢判断を誤らず対処し大きな決断をくだし得て、
それがよい結果につながったのではないでしょうか?


なお

家康の場合も秀吉と同様で、信長みたいに最初っから天下統一を成すというようなビジョン( 大望 )があったわけでは決してなく、生き残るのも至難の業・・というようなところからスタートしお家( 松平家<徳川家> )および三河一門を存続・繁栄させようという強い願いから、ひとつひとつ試練や苦難を乗り越えていく過程で、貫禄を身につけ周りから押し上げられるようにして気がついたら天下人になっていた・・といった感じに見えます。
( 参考 秀吉公の出世講座 関ヶ原ブログ )

その点は秀吉と類似してますが、秀吉の場合は寧々を疎んじ意見を聴き入れなくなって淀殿に入れ込んでからは、いいものがブロックされ横暴さ、残酷さと思い上がりが酷くなって、温かみが消え心の消極性が強調されたせいか失策続きで晩年は精彩を欠いています。

秀吉バージョン


こういうふうに調査してみると・・やはり夫婦愛のエネルギーの交流( 言葉、態度、振る舞い )が自然にお互いの人格を創り、運気にも影響する

その一方で、これがおかしくなると陰陽の調和が崩れ心の積極性にも少なからず影響を与え運気も乱れる。



夫婦愛のエネルギーの交流が心の態度にも影響し円満な場合の仕事や生活にもたらす影響というのは
甚大なものがあるのかもしれない・・また、このよしあしが運気の盛衰に関係するかもしれない・・というのが、何となく視えてくるような気もしています。

 戦国時代の三英傑は、結構ばっちりと年数がハマって周期性があるように思えます。

 こういう分野もさらに研究が進んで、夫婦円満の新たな動機付けになるとよいですよね。

これらの記事が何らかの参考になれば幸いです。



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