この記事はメルマガ226号の転載です。少し書き足りなかったとこ、説明不足の感があるものをリライトしています。
まあ、たまにはいいだろうと思いスピリチュアル系も追加で織り込みました。


さて


サイトを公開していますと、いろんな貴重な報告を頂けるわけですが、、



瞑想をどうしたら深めることができますか?
というご質問が割に多かったので、今回の記事は、ラージャ・ヨガに言及しながら
瞑想関連の記事にしてみます。




ということで本題に入りますが今回のテーマの一つである

気が流れる音という観方もあるナーダ音( 妙なる音 )
を集中の対象にした行については


ヨーガを健康法というので終わらせたくない方にとってのバイブルとも云うべき本である
ヨーガ根本教典( ハタ・ヨーガ・プラディーピカー)という書の最終章で

ハタ・ヨーガの奥義の一角と位置付けられているラージャ・ヨーガの項目にさり気なく・・
あまりにもサラっと掲載されてます。



ラージャ・ヨーガは、( ご存知の方はご存知のように )

瞑想行法を修行形態の中核とする精神的実践方面のヨーガのことでして

この言葉でピンと来る人もいるんじゃないかと思いますが・・

天風先生もゴルケ村で修行中にインドの聖者からラージャ( 瞑想 )と
カルマ( 奉仕 )のヨーガを教えてもらったんだ・・と述べている。



ですので、ラージャ・ヨガというのにフォーカスし、そういう視点で
ヨーガ根本教典( ハタ・ヨーガ・プラディーピカー)という書をざっくりと斟酌してみますと

最終章のラージャ・ヨーガに繋げるために1章から3章の様々な肉体的な難行的修行や生活を純朴なものにするための心がけ・・修行に際しての細かい作法があって

なぜ?こんなことを私たち修行者は、一生懸命するかっていうと

先ずは氣の通りをよくするために、いろんなアーサナ( 坐法 )で
脊髄神経軸の歪みを正し

次に、気血( プラーナ )の通りのよくなった体を土台に
プラーナ=気に対する感覚を磨き統御力を養って
最終的には4章のラージャ・ヨーガを上手く行かせるためにするんだよ・・

ハタ・ヨーガは、最終章のラージャ・ヨガの準備なんだよ・・という体系的な構成になってて

さらにラージャ・ヨーガの行修において

行修を深めていって、いろんなナーダ音が聴けるようになったら

「 秘音ナーダを観想することこそ ( 易行で )唯一最高のものと私たちは考えてます。」


というような記述をも見つけることが出来ます。


このように、ヨーガ修行の体系をまとめた根本教典においても
瞑想主体のラージャ・ヨガの行を上手く行かせるためのハタ・ヨガ的な肉体的な厳しい下準備、下ごしらえ・・

深い瞑想をするのに心に拘りやひっかかりとして雑念、妄念になり
それが度を過ぎてバランスを崩し肉性意識の本能心が勢いを増し
その虜にならないよう

恬淡な生活を保つための戒め( 訓戒 )とか勧奨( 規範 )・・



さらには


難しい作法やらがあって・・


神経叢を浄化し心が浄化され行が深まることで
心耳に微かに響くナーダ音が聴けるようになったら

敬虔な気持ちで、それを集中の対象にした行修をするってのが

ラージャ・ヨガの行における最高峰の行法の一つなんだよ・・

というのが、この本が提唱してることの骨子なわけです。



まあ、こんなに、ざっくり書くと身もふたもない・・
もっと、格調高く高邁で難しいこと書きなさいよ!!
ほんとにもう、あんさん、簡単に説明し過ぎでしょ!!

300頁近くもある本を・・1頁も満たない十数行で説明とか・・

確かに、もう一本の柱の性的なほうは、、、
誤解を招きかねない記述もあるように思えるので
記事の書き方によっては本道から外れたものを読者が受け取る恐れを感じたため
これは、やはり、よくないだろうと直感的に思い、要約は、ばっさりはしょってるんで

まとめ過ぎと言えなくもないですが

この行に並々ならぬ関心と称賛を示しているのは本のエッセンスを掴めば事実なわけです。



そういうふうに易行だけど最高峰の行なのだ・・という視点で注意深く
ハタ・ヨーガ・プラディーピカーのナーダ音に係るとこの行修法を読んでみると

あまりに記述が簡潔なので見落とされがちですが


〇初期の行修中には、いろいろな種類の大きな音が聞こえる。
それから行が進むにつれて、次第に精妙な音が聞こえてくる。

と書かれてます。


これは、別にハタ・ヨーガ・プラディーピカーの記述のみに止まらず

インドのヨーガの行法のなかでも、ナーダ音観想というシンプルな修行方法があって


行が進むと、やがてフルートのような音が聞こえ始め
ついには金属的なひとすじの精妙で美しい音が聞こえてくる。


とも述べられていましてナーダ音が聴けるようになったら

これらのいろいろな種類の妙音のうち


〇より微かで深い「 内部で響く音ならぬ音( 秘音 ) 」
これを聴けるように
眉間に集中して、より幽玄微妙な幽かな音を探索し、敬虔な気持ちで、より深い妙音に一心に聴き入る行を行えばよい。
そうしたらヨギは半月にしてすべての雑念を克服して安楽を得る。

というような記述も見つけることができます。







体感的にも、この妙音を聴いてるだけで心(および神経叢)の浄化と活性化を促すんじゃないか?という実際体験的なものがある。


思考と外界の「 現実 」を等閑的に観て、相互関係とかを俯瞰するのがあまりに容易になり
内向化することもない。


恬淡とした気分になって心身ともの健全性や生命状態を充実させ、
よくするという観点から観ても平凡でシンプルだけども佳き作用がある
という現実的かつ日常生活的な、よき実感もある。



そうは言え

「 これが聴けたら、すぐに、どうにかなるの・・」と言われたら

まあ確かに・・すぐにどうこうってわけじゃないので説得力に欠けるのですが

 とにもかくにも、心がほどかれるのにも至妙なものだし

 ナーダ音を媒介することで俯瞰が容易で統御に役立ってるというのもある。

 こういうのを個人が配信できるというのはインターネットが高度に発達した今の時代ならでは・・インターネットを使うことで、今までなら決して出来なかったことが、簡単にできる時代になっています。

こういうのを発信するのは今の時代でしか出来ないことだろうと思い

この関連の記事も幾つか書いてきたわけです。



ただ思うんですが、、主観的なものが強く参究する価値を伝えるのに説得力が欠けるとはいえ

こういう分野に興味がある方にとっては、関心があって、知りたいのは
結局´ How to Sayの能書き´ でなく・・大事なのは、どうしたら深い慰めと懐かしさに満ちた
sacred soundが、このブログ著者みたいな人でも
聴けるようになって心の統御が容易になったか?・・


あるいは、私もこのブログの著者同様に聴けるけども
より魅了せしめるフルートのごとき、かそけき秘音が聴けて、思考の自由度の高さが増し
心が解かれるのを得るようになるにはどうするか?手の届く無難なやり方として
どう取り組むか?というHow to Doとそのルート・・道筋を示すことだと思うので

改めて・・はて??どういう経緯で自身が
これを聴けるようになったんだろう??と振り返ってみたところ





自身の場合は、どこをどう逆立ちしても
社会と隔絶し山奥に行ったこともない。
ヨガの教室やセミナーにも通ったことがない。

とにかくメインでやってた( やってきてる )のは
天風先生が体系化してくださった心身統一行を口述書をベースに独学で学んで・・
それを生活に取り入れたことが最も大きく貢献したと思っています。


ある方から

「 あなたは虚空蔵求聞持法100万遍ってのをやってるじゃないか 」
「 冷水行も生活行事で続けてるのは立派な難行苦行 」

と指摘されたことがあり

それがよかったのだ・・とメールでコメントをくださる方もいますが


どう贔屓目に見ても、そういうのは難行苦行と言えないと思います。

虚空蔵菩薩の真言を念誦する方法は、私は僧侶でもないし畏れみたいのを感じて
正式なやり方ではやってないし1500日以上かけたユルユルのやり方なんで・・
( 求聞持法の体験 参考 )

朝の日課の1分30秒程度の冷水行も、天風先生の口述書や
正真正銘の聖者であるパラマハンサ・ヨガナンダの本などに
尊いご縁をもらっておきながら肉体を精錬せず鈍らにしてちゃアカンでしょう・・
より切磋琢磨、精進しないと・・

という気概みたいのがあって好きで続けてるだけなんで、これが果たして苦行、難行と言えるのか??
それに、そもそも偉いお坊さま?行者?が、真冬の雪解け水で滝の外壁の氷柱が落ちて死ぬかもしれない・・というような命懸けともいえる過酷ななかで入念な準備をしつつ断続的に何時間も滝に打たれるというのでもないし
毎朝、ムンと肛門を丹田に向けて垂直に引き締め上げ肩の力を抜いて気を丹田に鎮めたやり方の自分なりの幾ばくかの工夫をしたクンバハカにして、たった1分30秒ちょい・・自分の手に届く範囲で気持ちも引き締まる・・
継続可能性に重きを置いた日常生活に根差した絶対クンバハカでの冷水シャワーを続けてるだけだから難行じゃないでしょう。
( ああもこうもと試行錯誤し、極端でなく、ちょうどいい1分30秒程度に落ち着いたというのがある )



それに、求聞持法を脳活性化と積極精神を耕す鍛錬の一環で併せてやる前・・
心身統一行法を熱心にやってる途中の初期において安定打坐を独習でやっていったら
求聞持法などを精神鍛錬で、やる以前に既に不快ではないシーン・・ジーーンっていう微かな金属っぽい妙音が聴こえるようになっていたというのは記憶も確かで生活事実が語ってるので、その説は棄却されると思っています。( 母数が少なすぎですけど )





とにかく、以下の記事のように安定打坐の行法を熱心に日々の生活行事のなかに織り込んで実践し

 安定打坐の生活化

そのなかでも1日2〜3分で実践できる安定打坐法がきっかけで
私のような、ごくふつうの人でハタ・ヨーガの行修にあるような難行苦行とかなく高度なポーズとかも知らず・・ショートカットで

ナーダ音のうち2つ、3つの心耳に響く
「言葉で説明するのが困難な音ならぬ幽玄微妙な内部音( 秘音 )」
が聴けるようになり
( 当時は、もったいないことに、これがなんやら、わけわからず

なんだろう??これ・・で終わってしまって、ほったらかし・・放置してたんですが・・)

より純粋で源流のものに出会いたいということで願いを書いて整理してたら


なぜかインドのヨギの瞑想をするようになっていき


その瞑想を地道に行修し微々たる変化を積み重ねるうちに

ふと気が付いたら・・
瞑想については、顕著なこと以外は、記録とらなかったんで曖昧ですが今から遡ること4年以上前くらいに心が惹きつけられる深い領域の安心を感じ魅了されるナーダ音が聴けるようになって
広々したものを感じる機会が増えるようになった・・というのがざっくりしたプロセスになります。
( 4年以上前のことだけど不特定多数に公開するには責任あるからというので、きちんと見極めてからのほうがよいと思い、ずーーーーっと保留してたんですが、自身の体験上も、これは無難で公開しても大丈夫という閃くものがあって公開する運びになったというのが、その経緯になるので )




なお、この記事を執筆してる著者である私自身が瞑想について、

どの程度学んでるか?とかも、ふれといたほうが
読者の参考になってよいと思うので正直に書いときますが




安定打坐法以外でメインでやってるインドのヨギの瞑想については

「 あるヨギの自叙伝 」という本等から資料請求して受講できるレッスンをお師匠さまにしての実践で、その実践も高度なものは学んでおらず、テキスト・ベースで送ってくださったもののうち、ごく初歩のさわりもさわり・・基本中の基本のものをただ積み重ねただけです。

この根源に繋がる瞑想法についてはネットやらにも、当時、この技法に関して

いろんな情報が錯綜してて拾うことも出来ましたが・・


そういうのは、とても危うい・・
正統な´つながり´があったほうがよいだろうと・・当時、直感的に判断し
( 恐らくこの直感も正解だったのだと思いますが )

日本の支部を介して手続きしていただき専用資料を郵送で頂いて以降は
資料に沿った愚直な学習で瞑想の実践を積み重ねていったというのがざっくりした経緯です。




なお、この瞑想については・・

人それぞれなのかもしれませんが、私の場合は、これを実践しても
劇的で際立った変化とかはなく静かで微妙なものだったように思います。



瞑想の内的体験としては先述したように慰めに満ちたナーダ音が聴けるようになった以外では


毎日淡々と実践しても4〜5カ月くらいでは、もう変化にすら気づけないような
非常に微かな進展で、微々たる変化が積み重なって
諸事情で瞑想できない日も結構あったけども


何年もシンプルなことを続けてて、ふと気がついたら
あれ・・そういえば・・( 自己基準ですが )割に深く入れるようになったかもな・・
というような形でのあまりにも微かな進展でした。

ありがたかったのは

瞑想が実務や日々の生活でも役立つ・・というのがインドのヨギの瞑想でして・・

非常に微々たる進展で劇的なものはありませんでしたが・・
微々たるものが積み重なったのか・・ふと気が付くと
自分基準で見ると割に深く入れるようになってて

高品質な落ち着いた喜びが

ごくごくありふれた日常生活の様々な局面で


脊髄中枢神経系から静々と湧き上がり

これが心と肉体の両面に波及し


日常生活の様々な場面、場面で静々心に流れ込み躍り出てき易くなって
それが肉体本位に傾こうとする不要残留本能心を静かに、やわらかく鎮めて

いろんな生活の局面における冷静で恬淡とした対応、対処に大きく貢献している・・

運・不運とか超えたとこで恬淡とあれて

 存在するだけの喜びという感覚ってのが妙なるとこから出るのもありがたい。

これは、インドのヨギの瞑想技法が、いかに卓越してるか?
それを如実に示してるんだと思ってます。





これ以上のこの分野や技法への言及は私が執筆する役割分担範囲から外れるので
これ以上のコメントは避けますが


とにもかくにも

心身統一行法がきっかけ、バイパスすることで
感情や感覚を体の特別な持ち方と連動させることで積極方向に統御できる意志力が渙発し、耐力もついて地味で地道な淡々とした実践が可能になり

やがて

より深い領域のナーダ音が聴けるようになって



この´かそけき音´を澄んだ視座で達観的に見守る
というような俯瞰が容易になったのは

インドやチベットに修行に行ったわけでもない。

ごくごくふつうに誰でも出来て実にシンプルな心身統一行を生活に織り込んで・・
心の奥座敷のクリーニングと心の強化
クンバハカを習いにすることで神経生命の安定化に努めて・・ストレス負けしなくなり

特に意志の力が出てきて積極への切り替えやクンバハカが条件反射になった土台の上で

氣を満たし眉間を涼しくして安定打坐行法という
小さなことを地味に・・粘り強く淡々とやって
雑踏や喧騒のさなかでも、絶対の静寂に入れるようになった・・
というのが大きいし、きっかけになったというのは、どう考えても・・
どう逆立ちしても間違いない´論より証拠´の生活事実だと思ってます。


なので

こういうのに関心のある方にとっては口述書に出会って、どういうことに取り組んだことが初期段階の金属的で繊細なナーダ音を聴けるようになったことに繋がったか?




恐らくだけども、こういう訓練をコツコツ続けたのがよかったんだろう・・

私は難行苦行はやってないけども暗中模索の手探りの苦労は幾ばくかしてきたし
この分野は参究してきてて勝利感もある・・役割的に、このフィールドは執筆できる責任範疇なので


私が知り得て取り組んで、よくなかったものは自分の中でおさめて、しっかりブロックし
よかったものを洗練し
体験を分かち合えたらよい・・ということで





今になって気づくこともあるので参考までに書いてみます。


先ずは、あの当時・・心の深いとこ・・日常意識では自覚されないとこの心の奥座敷を清める潜在意識領域のクリーニングのための観念要素の更改行やクンバハカは心がけて心の浄化と強化に努めてましたが、
それ以外では、少し工夫したクンバハカにして姿勢を正しブザーの音に耳を傾けて・・全身を耳にしたようにして打ち込み・・

 そのことだけ・・その後・・ブザーの音が途切れた刹那の「 空 」に自らの命をふっと漬す・・っていう天風先生考案の安定打坐を熱心にやっていました。

なお


安定打坐のやり方は、本式には知らない・・私は独学なので・・
学びたいんでしたら、確か今は公益財団法人 天風会の各地方支部でも
いろんな講習会があるはずです。
健全で廉潔な団体と聞いてますので、そこで教授してもらう方法もあります。

私の場合は、安定打坐については
「 成功の実現 」「 盛大な人生 」
( 中村天風述 何れも 日本経営合理化協会 )などを参考にし

確か、あの当時、天風先生の肉声がどんなかも知りたいというのもあって
「神人冥合」というタイトルのテープ( ※当時はCDはなかった・・なお、「盛大な人生」(第六章、真人生の実現)と「神人冥合」の音源はかぶってまして、天風先生が、安定打坐のやり方や、その趣旨、目的も含めて説明してるとこがあります )を注文し、それ以外には確か「 安定打坐考証 」という本を参考に、そういったのを手がかりにした独学的行修( 独習 )です。





最初は、計画を練る前とか、入念にやったのは就寝前など1日2〜5分くらいだったでしょうか?

人は人生を通して、何に時間やエネルギーを注ぐか?という選択をするわけで、選択の連続なわけですが、これ< 安定打坐法 >に、1日当たり、ほんの数分の時間を費やして、自己と向き合う静謐な時間を持ったという選択は正しかったと思います。




ただ

それ以外にも集中する力自体をつけるのに、いろいろと、その他の小さな些細なことも、やってたわけです。



その一つが・・例えば



「盛大な人生」 第6章 真人生の探求の章で

中村三郎( 天風哲人 )が大きな滝つぼの脇で瞑想する際に

聖者から

先ずは「 天の声 」を聴く前に「 地の声 」を聴くように・・とアドバイスされてますよね。

聖者はさらに


「 地の声 」が聴けたら「 天の声 」を聴くのは容易だよ!


とも仰っています。




そこで三郎は、滝つぼの・・ゴーーーッという

けたたましい轟音鳴り響くなかで

滝の轟音以外の

鳥の鳴き声や獣の鳴き声を聞き取るように、只管

( 滝の轟音のなかで )一心に地の声に気持ちを向け
感覚を研ぎ澄まして聞き取り聞き分けるダーラナの訓練をして


かなり時間はかかりましたが、「 地の声 」が聴けるようになって・・

やがて聖者の時宜を得た助言で「 天の声 」も聴けるようになってますよね。




( なお、轟音を背景にしたなかで、そのさらに背後の微かな音を感覚を研ぎ一心に聞き取り
それに打ち込む「 地の声 」を聞き分け聞き取る訓練・・あんまり研究してない・・後付けになるけど・・ヨーガの段階では感覚を研ぎすますダラーナ(集中)を、ガムシャラに自我を執着させ、徹底的にやって、それが、きちんとできるようになって
成功させることのほうが「 天の声 」を聴くよりも多大な精神的負荷がかかってるはず・・
一足飛びに「 天の声 」が聴けて遍満化育せしめる生かす氣を存分に受け入れやすくなったわけではない。

もちろん聖者の直轄の指導と交わり・・インドの神秘的な大自然が心の浄化に与えたインパクトは大きいでしょう。( 環境要因は大きい )

現代人の刺激の多さと複雑さときたら異常なほどです。

いたずらな複雑さと申しますか・・本能心を刺激し差別心を助長するものであふれて
心は何か満たすものを探して、飽くなき欲望をそそらされ
心は休まるとこを知らず不満に喘いでいて、喘いでいることすらも分からず
等身大の自己自身と向き合う時間も持たず疲弊し苦しんでる方も多いです。

ですので、天風先生の場合は、インドの大自然のなかで、いろんな雑多な刺激や気を散らすものがなく、聖者の指導の下で、ほぼ強制的に自己と向き合う質朴な修行に専念できた・・というのは環境面からの心の浄化や強化という点でアドバンテージが大きすぎる・・

ですが・・そこを差っ引いても

中村三郎( 天風先生 )は、難病がきっかけで弱り果てた心に七転八倒・・悶え苦しんで・・
病を治したいのはやまやまだけども、それ以上に元の心の強さの半分でもいいから取り戻したい!!
死刑宣告を受けて断頭台に上がっても動じなかった・・あれほど強かった心が

なぜこんなに、びくびおどおど、ひ弱くなって、女々しくなってしまったのか?


とにかく当時の心の強さの半分でいいので取り戻したい・・

という強い願いを持って当時の世界的肺の権威とされた北里博士のごときお医者さんや日本の著名な宗教家にも援けを求めた・・

しかし、どうにもならず・・

日本が駄目なら世界だ!ということでアメリカを皮切りに世界の2/3を探し回って・・・

そのプロセスで

奇縁で聖者の指導のもとで真理に取っ組む縁を与えられ、その行修のなかで感覚を研ぎすまし一心に尽くす・・
心を一心・・悪戦苦闘しながらも、ひたすらに、自我を執着させ、只管に、ある対象に没入させ打ち込む力をつける行という「 地の声 」を聴く
というステップを踏み、その基礎段階を踏まえて
その条件を満たして「 天の声 」が深い領域で聴けるようになってる。

私の内なるインスピレーションを直感的な知恵にした判断もありますが

「 地の声 」を聴けるようになるのに感覚を研ぎ澄まして徹底的な注意集中の力を鍛える

自我を只管、ある対象に注ぎ一心にして、感覚を研ぎ
心を一心にし極限まで注意集中する実力自体を底上げし強化する地ならしの訓練のほうが

「 天の声 」を聴けて、深い領域で溶け込ますようになるまで、恐らく3〜4倍くらいの精神的負荷と負担のかかる奮闘努力があって・・その土台があったればこそ、自我の執着が抜けきって力が抜けた時に聴けるようになってると直感的には思っています。

極度の執着や注意集中と、無心あるいは虚心の状態は非常に近接している・・
というのが、私の直感であり体験上の持論です。

そういう、とことんまで研ぎ澄まして粘って粘って執着し注意集中する力を磨いていったもの・・そういう基礎条件が満たされてないと天の声を深いとこで聴く準備的なものは決して満たされなかったはず・・ 

そうして、心を一心にして打ち込むことで聴ける基準に達する「 地の声 」が聴けて、条件が満たされたら、ほぼ自動的に

ほどなくして自我の執着が抜けきった地平において
「 天の声 」が聴けるようになってます。



そうして脳や腹の使い方が作り変えられて、余計なことを考えない脳と腹が出来
一心から無我無心になる時間が増えると、さらに次の条件が満たされて


「 心 」という入れ物が、遍満化育せしめる生かす氣を存分に受け入れやすくなり

( 生かす気が入りやすくなることで )

あんなに病を気にして惧れ迷い苦しんでいたのから、気持ちを自然に病から引き剥がせて

( 生かす氣が導入されたことで本然の力が出るようになり 

人としてあるべき元気もりもりピンピンした状態が、無理なく自然にメンタルイメージとしてメンタルピクチャーとして脳裏に兆すようになって

植物神経の機能も蘇り

恬淡とした強い心を取り戻し、( 病を気にしなくなることで )例えば小さな切り傷とかを自然に治す自然治癒力も最高度に発現し程なく生命の蘇りを果たしてますよね。

( 病を治そうとし心が悩み、心を基盤とする脳も混線し酸欠状態・・病と取っ組んでイメージ療法よろしく無理に元気な姿をイメージして云々でない・・

 聖者の元で、より高次元の魅力的な真理に熱心に取っ組むうちに
 身の病のことを気にし想わなくなった・・

闘病( 病と平面的に闘う )するのではなく、病とは別の、ふさわしい明るく積極的テーマに心を向けた・・

聖者の指導の下でテーマを「 高次元の真理の覚知 」にして段階的に取っ組んだ・・


そうして心の基盤になる脳と腹を( 聖者の直轄指導で )作り変えていったら

( 聖者の元での直の生活指導という余りに大きなアドバンテージはありますが )
遍満化育せしめる生かす氣が入りやすくなって

( 心機転換され )

心が病からくる苦しみ、暗き悩みから自然に気持ちが、そこから引き剥がされて、ごくごく自然に疑う余地もなく、本来のあるべき姿が兆し出し、そう想えるしかなくなった・・そうして病を忘れ気にしなくなったら、本来の治す力である自然療能力が最高度に発現し・・恐らく天風先生にとって天命的に治る病で、カイロで聖者についていく決断をした時点で、運命がクラリと、その流れを変え大枠の規定路線だったのだと思いますが勝手に治った・・ということも重要な箇所だと思っています。

なので、私も最初は、これをヒントにして

私自身の内から兆すインスピレーションを頼りに取り組んだわけです。


ただしインドの山奥に行くわけにもいかないんで


それに似た状況を探して、私のような者でも届くレベルのとこから段階的に取っ組んだんです。







やり方は・・例えば

真理が書かれた「 成功の実現 」などの口述書を読み込むなど、いろんな下準備や下ごしらえもしましたけど


地ならしが出来てからは

「 成功の実現 」等の口述書は暇があれば1日のうち5分でもいいので

真理に触れる機会を持ったのと


日常生活においてやった小さなことは



ミキサーに野菜や果物を入れて
スイッチを押してガーーーッと回して

それが回転して、けたたましい音を鳴らして生野菜や
果物などを砕いてる最中に

その音が鳴り響いてる・・まさに真っ最中において


軽いクンバハカで眉間を涼しくし

ミキサーの破砕音以外の外界の「 かすかな物音 」をジー――ッと聞き取るように努めたりしました。



これだって、まあ状況的には似てますよね。


ただし、スケールが小さすぎるし


これでしたら中村三郎( 天風先生 )が取っ組んだ課題とは比べ物にはならないくらい簡単でしょう。

だって天風先生の場合は、世界最高クラスの山の麓の巨大な滝つぼ(の轟音)の傍で
その背後の獣や鳥の声を心を澄まし思いを尽くして感覚を研ぎ澄まして聞き取る訓練です。


それに比べて私は・・ミキサーのガーーーッって音です・・
スケールが滅茶苦茶小さいですが・・


※なお巨大な滝が轟音とどろく中で背後の動物の鳴き声を聴くという行・・・実際に、それなりの大きな滝のそばで
その轟音がゴーーーーッと鳴り響いてる最中に
それを背景にして、そのさらに背後の鳥や獣の鳴き声を
感覚を鋭敏にし心を尽くして一心に聞き取ることを
日本のどこかの滝でもよいので実際に現場に行って為さってみたら
もう並大抵の集中力じゃ、できないことがわかるはずです。
極限レベルやと思います。

しかもインドで、天風先生が瞑想修行した、その滝ってのも、相当にスケールが大きかったはずなんで・・







ですが、まあ驚き呆れたことには、私の場合はスケールのちっちゃい・・
ギガを越えたテラ・スケールが小さいミキサーを利用した「 地の声 」を聴く訓練ですらも

私の場合、ガ―――ッっていう音が響いてる背後の音を感覚を研ぎ澄まして聞き分け聞き取るの意外に難しかったので

自身の一心に打ち込み集中する力そのもの・・心を尽くし、思いを尽くすことをこれまで、ほとんど鍛えてなかったことに思わず呆れてアハハと独り笑いしたことがあります。

こういうの・・氣をいろんなことに散らされ、徹底的に注意集中する力そのものが著しく衰えて、さまざまなことに擦り減ってる現代人にとっても・・意外に大事な訓練かもしれないですよ。ばかに味気なくシンプルなものですけど・・

部下の扱いに困ってる部長さんだけでなく(;^_^A
育児の悩みに覿面してるお母さんとかも・・こういうふうに生活のありふれた場面における心がけで出来る一心に打ち込むことをして、その力を磨いて底上げしてったら・・とにかく悩みに覿面してるのから一旦心を引き剥がして、落ち着いた気持ちで観ることが出来やすくなるでしょう。



それはさておき


こういうのやってくと、もう、なおさら中村三郎( 天風先生 )のスケールの巨大さと
研ぎ澄まされた注意集中力の凄まじさに、あの当時、畏敬の念すら覚え、さらに尊敬念が高まったのも併せて記憶してます。





そういうのを心を尽くして聞き取るのに馴れて背後の音を聞き分け聞き取れるように・・
手の届く小さなことを日々の生活のなかで注意集中の訓練をしつつ
先にも述べたことに留意し安定打坐法も全霊でブザーの音に自身の全てを打ち込み、溶け込ませるようにしてやりましたし




こういったこと以外で



例えば

以前にもメルマガで書いたように


虫歯の治療で歯医者さんに行って、診察台に仰向けになってる時

もう1時間以上まな板の上の鯉状態でいないといけなかったので
心がけ次第で、毎回、強制的な訓練になるでしょう。


実際のやり方は

ドリルでキュイーーン・・キュイーーンという音が響いて歯を削ってる最中を

安定打坐法の絶好の機会だわい!しめしめ・・と、とらえて

ドリルで虫歯を削られてる、あの音が脳内で響いてる・・

その真っ最中に、肩の位置を下げ( 横隔膜を下げて )小指を締め肩の力が下がりやすいようにし足の親指を締めてムンと肛門を締め上げ・・氣を下腹に満たして圧を高め動揺を感じたときは息を止めた絶対クンバハカの完全充実体にし

やや気持ちが落ち着いてきたら

キュイーーン・・キュイーーンという音の背後で流れるクラシックのBGMの韻律を眉間を涼しくし感覚を研ぎ澄ませながら一心に聞き取るように心がけて

そのクラシックのリズムを楽しむというような、ごくささやかな小さなことをしたり


さらには


眉間を涼しくし

軽いクンバハカで

右脳訓練でお馴染みの七田眞先生のオレンジカードなどを十秒くらいジー―ッと凝視して、瞑目し

そのハッキリした残像が、やがて消えるまで、その「像」を追いかけることを日々の仕事に取り入れてやったり


それだけでは飽き足らず


以前もメルマガで書いたように


例えば


以下のような黒点





  ●





こういうのを眉間を意識し、涼やかにして

ジーーッと10秒くらい凝視し、注意集中し

閉眼した際に、ハッキリ脳裏に浮かぶ反転した白い残像が、やがて脳裏内で暗闇に消えるまで追いかけて無念無想・・無心の状態を味わい


 さらに黒い点の面積を小さくし


   ・ ←こういう0.5mmにも満たない黒点でも

ハッキリと残像が脳裏に浮かんで、それが長く脳裏に残せるように徹底的な注意集中の訓練をし、仕事の切り替え時などに活かしたわけです。


( これも私にとっては、すごく良くて

よかったからメルマガに書いたら

読者(の一部の方)には、こんなの全然脳裏に浮かばない!と不評だったみたいでして・・
だいぶん、ごちゃごちゃメールが来たんで・・段階的にやればできると思うんですが・・(;^_^A
( 参考 )






あとは、安定打坐以前のとこで地ならしをし、後天的な自発的小さな訓練で心を積極にする行法・・

日常生活で心がけたのは、サイトにも新たにリライトしてSTEP1として書いてるように

心の特別なお手入れなどの潜在意識領に溜まった肉性意識由来の消極的な要素・・自己否定 、怒り 憎しみ、 嫉妬、懈怠などの表面意識に浮かび上がった時に雑念、妄念の温床になるところの心象材料のクリーニングに努め日々の生活においても、そういう類の念に巻き込まれないように客観的相対思索と積極念に集中することで対応し



こういう私でも手の届く・・かつ、日常生活の、ありふれた局面で出来る小さなことを日々の生活で心がけ

心の強さ、神経系統の安定・強化を施すのと併せて日常生活に織り込んでいった。

メインでやったのは、そういう、ごくふつうのシンプルなことくらいです。


尋常ならざる尊いご縁をもらっておきながら体を精錬せず鈍らにしてちゃアカンやろ。
体も精神も継続的に鍛錬すべし!!日々の鍛錬が大事という気概があるんで

バイブルなんかは、もう趣味みたいなもんで読んでるし
大祓祝詞や般若心経などを自我が消えて無心になれる領域にスコーンと入れるほどの超高速読誦で精神を積極に耕すこともポスト求聞持で心をリセットする意味合いも込めて未だにやってはいますので

恐らくそういうことも緩やかに貢献したのかもしれません。



なぜなら



人体の神経系統のうち内分泌を司る叢がクリーニングされ浄められて氣血の導通がよくなってくると
この精妙な音が聴こえてきやすくなるんだよ・・という記述も先のヨガの根本教典に書いてあったように記憶してますんで・・

肉体や神経系統の上流に当たる精神方面から精神を積極的に満たす後天的な小さな訓練を地味にやって小さな条件を積み重ねて精神方面から下流部に波及させてクリーニングして・・なおかつ、クンバハカを癖づけて神経生命を安定化させていったのは‥当然大きかったのでしょう。


ですが、初期段階の繊細で金属的なナーダ音が聴こえるようになったことについては安定打坐が一番貢献した気がするので・・体験的に・・




そんなこんなで大自然の神秘の氣を受け容れやすくなる安定打坐を淡々とやってたら


心をひょいっと霊的境地に入れるのが容易になり

それが楽しくうれしくて更に打ち込んで熱心にやってたら

程なくして


微かな音として心の耳に響いてくるシーーーンという無機質で繊細かつ金属的な音・・

当時は、ナーダ音とわからず

ブログにも書いたように、あの当時ですらも、もうヨーガによい印象がなかったので
ほんとあの事件は私にとっても大きかった・・
ヨガ=危うくて怪しい・・アカンもの・・という先入観が入ってしまって、探求を5年以上遅らせたと思う・・


で・・当りは付けてても、ほったらかし状態だったのですが・・(;^_^A


これが耳の遠くから、シーーンという、かそけき音として聴けるようになり
何か聴いてるだけで神経系が、いい意味で活性化し澄んでくる・・というのが心に兆し感じられるようになっていきました。




( ちなみに、この時、この当時のシーーーン・・・ジーーーンという微かな音ならぬ微細な音は、不快ではないけども

 まだウットリするような心地よさや奥ゆかしさ、平安や安心を深く感じせしめ慰めをもたらす多重的な美妙音としては、この当時の段階では、まだ浅くて聴けてない段階・・ )




そういう段階から

先のような些細で小さなトレーニングを粘り強くコツコツしつつ

淡々と安定打坐をやってるうちに、その音は
いろんな音が混ざってると気づいて


眉間に意識を持って行って

その一つの音に意識を合わせ集中するなどの´聞き分け´があの当時出来てて、これだけでも脳のおしゃべりが止まるし、動中の静ひつに留まりやすいので、大きな効験を得てたと思います。






面白かったのは

この内部音に、じーーっと注意を向けて感覚を研ぎ澄まして一心に聴いてると、当然心のおしゃべりは止むわけで
脳のおしゃべりを止める作用も「 ナーダ音 」は、あるというのを当時発見したし

ナーダ音が介在することで脳のおしゃべりが止むと静寂と安らぎの門が見えてくるなというのも発見しました。

また

思ったり考えたりする心が何かに気を取られ忙しくし過ぎて

澄んだ・・純粋観照的位置から外れて余裕を無くしてるとナーダ音は聴こえないというのも気づいて

この音ならぬ音( 秘音 )を
眉間を涼やかにして一心に一音に集中して聴き入った後は意識を拡げて

「 音 」を高い視座で見守る( ナーダ音を俯瞰する )
というような立場で大らかに過ごすことを心がけるようにしたのも覚えてます。




ただし、そこからさらに、より深い美妙音かつ多重的になって

心が釘付けになり聴いてると慰められる懐かしい美妙音( より深い秘音 )が
聴けて溶けて行って自分がなくなるという感覚を覚えることが少しずつ増えるようになっていったのは・・



先にも言及したように

「 成功の実現 」「 心に成功の炎を 」等の実践で、もうわかったような気になってしまい・・

これ私の課題の一つで悪い癖なんですが・・
もう、これでいいんやないかと思ってのらくらまではいかないまでも安穏と過ごしてたんですが・・

天風哲人が定義なさってる先天の一気( 宇宙霊 )に対する憧れや中村三郎を天風にした真の聖者という方に対する強い関心が昂じて更に探求したくなり

( 心身統一行の幾つかを熱心に行じてバイパスした土台での )
インドのヨギの科学的瞑想のごくさわりの私の身の丈に合ったものを淡々と実践し微々たるものを積み重ねたのが、とても大きい・・これと相関が強いと自己分析してます。

あとは就寝前に、この瞑想すると「 観念要素の更改 」が、やけに都合がよいというのもあったので・・






なお


この記事をお読みになってる方は、

割と瞑想も練度の高い方が多いみたいで瞑想についても割と質問が多い・・


なので、私自身は、先にも述べたように、瞑想については、その成果に割に満足してて、深まっていったという生活実感と確頼感、勝利感はあるので・・どうしたら瞑想が深まりますか?というご質問について、この時点での自分なりの実際体験上のお答えも出来るので、しておきますが





どんな瞑想をするにしろ


瞑想の深化で重要なのは

先にも述べたように、そもそも論として、無心あるいは虚心の状態と徹底的な・・極度の注意集中状態というのは近接して表裏一体の関係があって近・現代人は、これがすり減り衰えてるから、注意集中する力自体を日々の生活の中で少しずつ鍛えるということ

そうしたら自然に無心の状態に入っていきやすい

さらには

気が咎め、雑念、妄念になってマイナスの氣を発生させ心を汚し傷つける言葉や行いをしないように出来るだけ、心がける。

( それと対極の )
建設的なのをもたらす清新な氣で心内がいっぱいになる霊性満足の感謝生活をシンプルに心がけ肉性意識領域の芥( ゴミ )を上質な喜びで間接的に洗う。
身近な小さなとこで、そういう小さな行を心がけ、小さく些細な条件を積み上げる。

ごく身近なとこで、こういう小さなことをシンプルに心がけ、積み重ねて、心内を嬉しい清新な氣で一杯にする。


瞑想以前に

いたずらに複雑なもんや大きな決断を伴うようなことではない・・

人として当たり前で、こちらのほうが本来は楽な生き方である気を咎めさせない
爽やかで恬淡とした霊性満足的な感謝本位生活への小さな行為というのを積み上げる

些細な決断や心がけで出来る身近で、ささやかなことを心がける

これももう、弱まりがちな霊性を高め日々の瞑想を少しずつ深化させるのに
めっちゃくっちゃの・・くったくたに重要やと思ってます。


そのためにも霊性が覚知されて肉体を思う本能心や心を思う理性心ではない・・
もいっちょ上の霊性心が出やすくなって

生きとし生ける生命を活かす清々しい氣を大量に受け入れやすく
仮我とはいえ自我が積極化されることで神経系が静かなバイブレーションで活性化しやすくなるような

心身の積極化と心の調和と安定をもたらす日々の生活に根差した各種行法
( 心身統一法を支える各種の行である観念要素の更改、積極観念の養成法、神経反射の調節 )
等・これも本当に小さくて簡単なことばかりですが、これに実意丁寧に取り組み

奥底の肉性意識領域に溜まっていて、心の全体をして、心の態度を積極に置き心を消極方向に振れやすくさせる肉性意識由来の雑念妄念素を少しずつ洗い
積極に働きやすいように心の基盤である( 脳 )と( 腹<特に下腹> )を作ってやる。

※不安や恐れ、取り越し苦労や苦悩にさいなまれやすい方は
 そういうふうな心の働かせ方を強めすぎて脳の基盤が、そういう方面が過剰に働く脳のネットワークになって連動的に腹も弱ってるので新しい情報と新しい方法を入れて取り組んで新たに作り変えればよいという寸法です。
 ( 3か月くらいの熱心な取り組みで、新しい神経ネットワークのつなぎ変えができるらしいので期間の目安になる )

かつ

思いやりに根差した霊性由来の正直、親切、愉快を合言葉にした三行などの積極的な行為を肩の力を抜いて小さな決断で、気軽にできる些細なことを恬淡と心がけ小さな条件を積んでいくことで
その行為の刹那に生まれて、霊性を高める肥やしになる積極的で清新なプラスの氣・・

言い換えれば霊性心を嬉しくさせる氣が生じることで間接的に神経系統さらには肉性意識の本能心を鎮め洗い清める。
( 何か、些細な決断で済む身近な人の幸福や喜びの足しになることを身近なとこで等身大で恬淡とやってったら心が嬉しく清々しく爽やかになりますよね。
このときに積極的な行為で霊性を成長させ心を清新にするプラスの氣が、その刹那に体内に発生し神経系統を通じバイパスし脳の中枢の癒しのホルモン系統の分泌を促し心の全体に積極的な佳き影響を与えると私は観ています )


※とても難しいことのように思うと難しいですが・・
 無財の七施というのありますよね。(^_^)
 ニコッと笑顔というのだって立派な施しになるそうです。



そういう感謝を前面に押し立てた・・人としてごく当たり前のシンプルな霊性満足的な純正の生活をしてったら

瞑想で精神統一し深く深く入っていくときに

呼吸を乱す雑念が湧きにくく心に引っ掛かりがない

というような下ごしらえがあり、さらに先のような一心に打ち込む集中する力を訓練で鍛えたものでもって脳と腹を作り変えて



そういう下準備があった上で



無心領域に入る安定打坐法や・・安定打坐以外の瞑想をなさってるでしたらそれとは違うコンセプトのその他の瞑想にギュギュっと打ち込む・・


そうすると心に、けい礙( けいげ )がなく



心が澄んでいて嬉しいし、集中する力もつけてるので、すすすっと深いとこに入りやすくなる・・と思ってます。

これはもうテクニックとプラスアルファの問題ですが・・・

心が何かイライラしてたり不平不満や愚痴や悩みで一杯だったり・・

心を一心にする力を無くし感謝本位の霊性満足生活から、どんどん離れてたら


いくら最先端、最高度な瞑想テクニックを知っててもスッと深いとこに入れんと思う。


いただくご報告から、お祈りを就寝前になさる方も、このブログを読んでるようで、稀に相談があるんで追記しますが・・祈りを日課にしてる方でしたら・・そういうふうに心が弱り消極化するようなことを生活の中で積み上げて、ひっかかりがあったら深く深く祈れないのではないかと・・







そういう小さなことを心がけた生活土台を踏まえた上でテクニック論になりますが




瞑想していて

呼吸が深く静まって

心を統一状態にしてって


だんだん呼吸そのものが長く静かになっていき

瞑想の初期の爽やかな変容意識状態( いわゆる恍惚としたトランス状態 )に入っていきますよね。



そうして意識が深まってくと
浅〜中等度催眠のときに生じる生理的段階と酷似した感覚が出てくるかもしれません。



そういう瞑想の初期状態になったら、さらに呼吸を鎮めて微かな喜びを探していくとよいのではないでしょうか?



ただ


先にも言ったように、この体験にこだわる必要もない。人それぞれだと思います。



より本質は

少し肩の力を抜いて心身統一の高級な心性で
そっちの生き方のほうが楽な霊性満足的な

人として、そういう生き方のほうが、本来的には、やりやすい純正な生活を

あなたの身近なとこで心がけるということなのかもしれません。

そういう小さな些細なことをしてったら、( 深い瞑想を妨げがちな )肉性由来の本能心が積極的行為で積極的な氣が生じることで洗われ鎮めやすくなって・・妄雑念が拭われて、忘れたころに深い瞑想ができるようになって日々の生活に上質な喜びが増えてるのかもしれません。