前回のブログでは

人との出会いで、お互いによいものを与え合ったら、
心の態度の積極化に貢献し、運気もパワーアップしていくという例として豊臣秀吉をとりあげ
運気の盛衰( 好不調のリズム )についても少しだけふれてみました。

これまでの占星学研究は、主に個々人の誕生した生年月日・時間や、生まれた場所等を加味することによって、その人の生来の性質、傾向、人生の流れなどを判断するものが主流でした。
この傾向は、今でも続いてると思われます。


個人の運気というのは、もちろん、その人が持って生まれた生命の器というものがあるでしょうし
生まれた環境といった背景要因もある。

( 私なんかは口述書の実践で大きなブレークスルーがあった人間ですが )


 元々の初期値が運が強くない・・運のよくない方だって嘆くことはない・・

 本人の強い決意による後天的な修練の持続によって運を良くして拓かれてくるものもあるのではないか。

さらには

一般的には、人には運気の流れと言いますか、何らかの春夏秋冬の大きな運の流れがあるとも言われています。



頑張っても頑張っても何故か上手くいかなく感じる時期もあったりする。

これをお読みのあなただって、「 こんなに頑張ってるのに、なぜ?うまくいかないんだろう??
おかしいなぁ・・なぜ、あの時は、あんなにスイスイ上手くいってたのに、
スランプと言いますか・・歯車が狂ったように、突然うまくいかなくなってしまった・・・なぜだろう。」といった素朴な疑問を抱いた体験をお持ちではないでしょうか?

そういった個人の運気の流れというのは数多く研究されてきてまして、個々の運勢や運命を判断する占いの本とかも読んだこともあるのではないでしょうか?


 今回(の記事)は、そういった個人の運気というものが、元々持っている個人の運命傾向や本人の心がけによる後天的修練で運を良くするだけでなく( 外的な )出会い( 関わる人 )によっても大きく影響され得るのではないか?ということで主に夫婦の間の関係と申しますか・・


夫婦のエネルギーの交流が心の態度にも影響し円満な場合の仕事や生活・・運の良さにもたらす影響というのは甚大なものがあるのかもしれない・・
また、このよしあしが周期性のある運気の転機( 重大な岐路 )における盛衰に関係するのかもしれないということで、その仮説を検証をするために、考察を進めてみます。



その例として、これまで

秀吉バージョンを挙げて、みっちり書き下しをしたことがありますが・・これだけでは心もとないので、「 織田信長バージョン 」「 徳川家康バージョン 」でも執筆してみます。

ただし、この戦国時代当時の道徳観、倫理観と現代では、あまりに大きな乖離があることは否めません。

現代の倫理・道徳的常識とは、かけ離れたものも多いです。



ですが、時代をこえても通用する普遍的なもの・・変わらざるものもあると思いますので・・





以上を踏まえて、先ずは


「 織田信長 」の場合でやってみると、

信長が最も愛したのは正室の濃姫と言われています。


濃姫は謎多き女性の一人とされてますが


僧侶から還俗し油売りから身を起こし戦国大名になった、あの斎藤道三の娘です。


この時代は家柄だけでは通用しない時代だからこそ、多くの才能・才覚が
頭ひとつ、腕一つでのし上がれる時代でして、
まさにこの人( 道三 )も、この時代を象徴したような方でした。

信長の政策のひとつであった「 楽市楽座 」や 「 関所の撤廃 」も
舅である道三が先に領内において類したこと( らしきこと )をしていたと言われています。
信長は斎藤道三らから学んだことを、楽市令として制度化し、より拡大して実行したとも言えます。


道三は信長の器量を本能的に見抜いたから
美姫で肝も据わっていた愛娘を信長にやったとも言われていますが
信長は、かの道三の娘の濃姫と1548年に政略結婚しています。



ただし、結婚当時の信長は、「 うつけ者 」と言われ最低・・散々の評判です。

( 油断させるために、わざとそうしていた説もあり、底知れない運の深みを匂わせていますが )

「 信長公記 」にも、信長は、よくこれで人前に出られるなぁ・・
というような奇妙奇天烈な服装をしたり

品行方正とは程遠い・・と申しますか・・常識はずれで
行儀は悪く、城下では人目も憚らず柿や瓜をかじり
餅を食い、人に寄りかかり、肩にぶらさがって、ふらふら歩いていたこともあるのだとか。





初期値的に強運を匂わせるものは感じられますが、

先に挙げたように「 大うつけの信長 」で線が一本抜けて、失敗に対して鈍感なところがあるのは否定できなかったわけでして

濃姫( 斎藤帰蝶 )を妻にして、結び合いを強めた後に、信長の強い運がポンと弾けたようにして高まったように思えます。
事実として信長は、濃姫を娶った後に激しい織田家の跡目争いを制し尾張一国をほぼ統一し頭角を現していますから。

そうして

更にその強い運気が高まり


1548+12=1560年 「 桶狭間の戦い 」で世間の評価も一変します。



信長は、この戦いの出陣前に清洲城において

「 人生五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり 」
というフレーズで有名な「 敦盛(あつもり) 」を舞い
熱田神宮において戦勝祈願をした後、出陣しています。



そうして信長は情報を制し、機先を制し気の緩みをついて

信長直轄で精鋭の2000〜3000の兵力を
義元本陣(の一点)に集中的にぶつけることで

5倍とも10倍とも言われている圧倒的な戦力差を覆し
「 東海の雄 」と言われた今川義元を打ち破っています。





この戦いの結果については周辺大名の、ほぼ誰も信長が勝つなんて予想もしてなかった。


ですので、これが信長にとって天下統一に向かう大きな布石になったのは、ほぼ間違いないですよね。

これは信長にとって大きな戦いでしたが・・

この時期というのを改めて俯瞰してみると・・これは濃姫と信長が結婚して丁度12年目に当たる年でした。



信長の理念や信念の強さ・・さらには運の強さは・・もういろんな専門家が語り尽くしてる感がありますので、ここでは敢えてふれませんが・・個人的には濃姫と結婚して12年間で、その結び合いを強めて信長の気迫の強さや信念、強い運がさらにパワーアップし、その節目に当たる12年目に大きな運を引き寄せた・・として史実を因果分析してみたい気持ちに駆られます。




それから更に12年後

1560+12( +1)=1573年

1年ずれてますが、
中世的権威の象徴でもあった足利義昭を追放し
230年以上続いた室町幕府を滅ぼしてまして

その後も天下布武という大きな理念を抱いて天下統一事業にまい進し

強固な中央集権体制のかたちを作っています。


諸国大名が領地拡大や領土保護に、きゅうきゅうしてたのに・・
信長は、彼らとは、あまりに次元が違う
大志と合理的考えを持って行動していた・・と言えると思います。




その約9年後に変転があり

何らかの因により運を落とし1582年に本能寺の変で倒れますが

濃姫と結婚後の運気の周期性( 運気のリズム )は感じられます。

こうしてみると道三の娘である濃姫と結婚し、結び合いを強めたことで
信長の大胆さや志の大きさ・・心の強さ・・周囲の巻き込み力がさらにパワーアップし、
その運のスケールも拡がり勢いを増した・・と見ることもできるのではないでしょうか?




次の秀吉バージョンは、以下にこってり書いてますが・・

秀吉バージョン

改めて簡潔に書くなら

 秀吉の場合・・現時点で、最も確からしい歴史考証によれば・・
幼少の頃は、養父( 竹阿弥 )と全くそりが合わず・・
いつも苛立ちついでに養父に折檻( 現代的に言えばDV )をされていたし、
近所のガキ大将からも、ひどく虐められていたのだそうです。


それでもう・・ほとほと嫌になって14歳の時に家出したとされています。


しかし、家出したはいいものの・・全く住まいも定まらない放浪生活を続け飢え死に寸前だったと言われています。


そんななかで、やはり初期値的に強運である所以でしょう。

 藤吉郎(秀吉)は、飢え死にしてもおかしくなったのですが運よく今川家の家臣の松下家に拾われます。


 ですが、そこで仕事を誠心誠意精いっぱいやっても、全く浮かばれていません。

 仕事を熱心にやればやるほど浮いた存在になり仲間から煙たがられ・・
ぎくしゃくし上手くいきません。松下家に仕官してた先で娶った妻からも愛想をつかされて離縁したとされています。


そうして半ば追い出されるようにして松下家を出て17歳の時に運よく信長のところに再仕官できたわけだけども・・ここでも、やはり下積みです。強い運があることは匂わせていますが、仕事を熱心にやればやるほど浮いた存在になり仲間から煙たがられがちになります。


ところが、秀吉( 藤吉郎 )が25才( 1561年 )に寧々という福女を娶った後に元々の強運にプラスして運気がうなぎ登りになっていったように思います。

と言いますのも・・秀吉( 藤吉郎 )は寧々を娶って、ほどなくして、いきなり将校になってまして・・さらに1561年+3年=1564年には、美濃国の斎藤龍興との戦いで、信長が攻めあぐねてるときに周辺城主に誘降工作を諮って成功させ、大きな戦功を挙げています。

さらにそこから9年後

寧々を信頼し彼女から信頼され・・よく尽くし、よく尽くされ、与え合ってお互い良きものを交換し合ったのだと思いますが・・寧々と結婚してから数えて12年後

 1561年+12年=1573年には、長浜城主( 12万石の大名 )になってるわけです。
 
 「 鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス 」で、いくら知略を巡らし創意工夫をしても14歳で家を飛び出て25歳までの約12年間はと言いますと、運の強さを彷彿とさせるものの・・本当に鳴かず飛ばずで、うだつが上がらなかったのに・・この差は何なんでしょう・・
呆れるくらいのすさまじい栄達です。


そこから更に12年後

 細かくは1573年+9年=1582年の本能寺の変( 1582 )後、
 主君を討った明智光秀軍の討伐を決断し、 今や伝説となってる「 中国大返し 」で打ち破り

 1573年+9年+3年=1573年+12年=1585年には関白になって大阪城を建てています。



 その後、糟糠の妻で福女である寧々をないがしろにして茶々に入れ込むことで秀吉の善いものがブロックされ横暴性が増し、心の消極性が極大化することで運を落とし没落していったように思いますが・・そこに何らかの運気の周期性と法則性があるように見えます。

秀吉バージョン



徳川家康バージョンについて考察してみると


 家康の場合は阿茶局( あちゃのつぼね )が
信長の濃姫や秀吉の寧々( 北政所 )みたいな位置でして

 やはり家康も初期値的に強運の星に生まれてることは間違いないですが、この方を1579年に側室にしてから家康の運気は「 うなぎ登り 」になっています。

それまでは運の強さはあるものの、鳴かず飛ばず・・「 いくら待っても鳴かないホトトギス 」でしてひたすら下積み・・忍苦続きの日々です。



今川義元のもとでは、当時の家康(元康)の家臣団は
先陣ばかりを務めさせられ
言ってみれば「 使い捨て・・」「 ぼろ雑巾 」のような立場です。

そういう´使い捨て´のような立場でも生き残れるということでも強運を匂わせていますが・・浮かばれていません。

1560年に義元が、かの「 桶狭間の戦い 」で信長に敗れて後、
やっと今川家の人質から解放され三河で独立しています。

ですが

信長と同盟を結んで後も、今川家の時と同様、
その関係は実質的には、臣下とあまり変わらない立場で
最もリスクの多い先陣を任されることが多かったと言われています。





それに三方ヶ原の戦い(1572年)では、
武田信玄が指揮する
当時最強の武田軍に惨敗しています。

その際は、恐怖のあまり馬上で糞尿を垂れ流し、
ほうほうのていで浜松城に逃げ帰ったらしく・・

脱糞の匂いに気づいた部下から諌められた・・
という逸話まであるのだとか。


( お食事中の方には申し訳ない話ですが・・・ )



こういった逸話を知るにつけ

家康も最初から豪のものだったわけでもなく、聡明だったわけでも
元から忍耐強かったわけでもなく「 環境 」によって創られた分と

理想を意志し自ら意志、意欲をして後天的修練で自分自身の心を強く創っていった・・

武芸にも戦略にも秀でて聡明に自らを作っていった分の
合成的なものがあると観ています。



※余談ですが三河武士の強靭な結束力と強さも、
使い捨ての先陣を任される試練と苦難のなかで
作られ培われていったという説もあります。

 家康は6歳で織田家の元に人質に送られ、織田家が
今川家に敗れて後

今度は今川家の人質として駿府へ送られ、
8歳から19歳までの約12年間を
人質として生活することを余儀なくされてます・・

家康の類まれな忍耐強さは環境によって創られたとも言われています。

 結果論的には、こういう辛抱があったから、人格的に、棘が削られ円くなる・・さらに深みが増して挫折の痛みに対する耐性が付き・・理屈では測れない人情の機微を介すようになって、家康にとっては、よかったとも言えるのかもしれません。
( これもインスピレーションで執筆してるわけですが )







話を元に戻しますが

家康は、阿茶局( あちゃのつぼね )という福女に会う前は
かなり下積みでして・・生き残れただけでも滅法強運ではあることは匂わせているのですが戦闘においても先にも書いたように、武田信玄に惨敗をし滅亡寸前まで追い込まれています。




結婚においても、家康は、あまり良い話を聞きません。

阿茶局を側室にする・・ずっと以前に築山殿と
政略結婚していますが、

この築山殿は、今川義元の養女で、お嬢様育ちで気位の高い女性でもあったことから、
あまりいい結婚ではなかった・・
大変だったという逸話も残っています。

( 家康が側室にした女性は、秀吉と違って貴種好みでなく、
家柄の良い女性は相手にせず、
全員身分の低い女性でして
聡明さや丈夫な子供を産んでくれそうな方・・
その他独特の基準で選んだのは、
この築山殿との結婚(の失敗)と秀吉の失敗から学んだとも言われています )




そんな忍従と下積みがずっと続くなかで
家康は、強運なのに、いっこうに芽が出ないわけでして


特に

家康が38歳の時、阿茶局( あちゃのつぼね 当時25歳 )を
側室にした時期

1579年は家康にとっては、まさにどん底でして・・

長男・・そして正室( 築山殿 )を・・
所謂「 築山殿事件 」で知られるお家騒動で、信長の命を享けて
家康自身の命令で切腹( 自害 )させる・・という痛恨の絶苦( 絶痛 )をなめています。



ですが

 聡明で人格的にも優れた阿茶局を側室にしてから約12年・・


心の積極性・・その強さがパワーアップし、本来の強運が弾けたお陰か
 

どん底の苦から大きく飛躍しています。


細かくは1579+3=1582年

織田信長が明智光秀に本能寺の変で討たれ
明智軍から逃れるため、

滞在していた堺から山中(伊賀)を越え三河へ運よく無事に帰還し



そうして、これを吉に転じ
この頃に名参謀「 本多正信 」が家康の家臣になることで
甲斐、信濃を支配下に置くなど着実に勢力を伸ばしていきます。




そうして1579+3+9=1579+12=1591年には、
豊臣秀吉に臣下の礼をとってはいますが豊臣政権下で重鎮( ご意見番の一人 )になっています。

 秀吉は、この時が絶頂期なのですけど・・その2、3年前から判断がおかしくなり

秀吉の心の消極性のうち残酷性、横暴さ、傲慢性等が増したせいか
その後、失政、失策・・が目立つようになり民心も離れ

秀吉の弟で家臣にも慕われていた秀長が亡くなるなど不幸も続いてまして
 
 豊臣政権は、ほころびが見え始めてるなかで、家康の場合は家臣団の結束力がさらに増して
国内における影響力が着実に大きくなっていきます。


 確か関東転封( 関東に移封 )になったのもこのくらいの時期でして
当時の視点からみたら左遷ですが、領地は250万石になり大きな転機になっています。


そこから更に9年後の決断が要求される変転の年・・
1600年に関ヶ原の戦いで圧勝し・・
そこから3年後・・1603年には江戸に幕府を開いています。

( 1591+12=1603 )


さらに、そこから12年
 大坂の陣(1615)で豊臣家を滅ぼし、その後300年近く続く
徳川幕府( 江戸幕府 )の雛型の完成をみています。


 家康は忍従と屈辱に耐える苦労続きの生活が長かったせいか
神経の太い線が抜けたように失敗に対する耐性があり
さらには、心の機微に敏感で部下はもちろん女の人の扱いにも長けてたようでして
先にも述べたように側室選びにも失敗せず・・秀吉みたいに
300人もの女性に手を出し色に溺れることもなく・・

秀吉の正妻だった寧々にも非常に丁重でした。



とりわけ阿茶局( あちゃのつぼね )を大事にし

 この方との間に子供はできませんでしたが
36年間・・自身が亡くなるまで篤く信頼し
よく尽くされエネルギーを貰っていたようです。


戦場にもたびたび同伴させてたという史実も残っています。

そのせいか阿茶局は、小牧長久手の戦いに同行した折
それが原因で流産した・・とも言われている・・・

人格的に優れていた・・ということについては以下の逸話から、なんとなく推察できます。


それは、阿茶局にまつわる、こんなエピソードです。

家康が将軍の位を秀忠に禅譲し駿府に隠居していた頃


秀忠の側近の酒井家次が将軍の代理で正月元旦の年賀の使い( 賀使 )として家康の元を訪ねた。

その際、その年は大変寒い年で、家次は寒いので、あんまり深く考えず・・

礼式もわきまえず軽〜い気持ちで寒気予防のために先ず綿帽子を頭にかぶって、その上から公的な礼服着装の際に被る折烏帽子( 侍烏帽子 )をかぶって、元旦のご挨拶に臨んだらしいのですが


将軍の使いとして公式に家康に年賀のご挨拶をするとき

運悪く侍烏帽子がすぽっと脱げて、内側にかぶっていた綿帽子が露わになってしまった。


家康は、これが気に入らず、

「 お前の父の忠次のような老体ならともかく、
  お前のような若者が、そんなことをするとは!なんとも横柄、横着で無礼なことだ・・
 隠居した身である、わしの前だから、事は大したことではないが、もし、これが江戸の諸大名が列席する公式の行事の前であってみろ・・こういった場で、こういうことがあって、側近であるそちが、礼法にない綿帽子なんかを丸出しにし間抜けな姿をさらしたら・・・これは将軍家の恥・・諸大名からの失笑の種・・ひいては、その御威光にもかかわることぞ!
なんたることぞ! 」と家次を、ものすごい剣幕で叱りつけた。

 家次は、家康の勘気にふれ、ただただ恐れ入って小刻みに震え平伏していたが

これを傍らで見て不憫に思った阿茶局はとっさの機転を利かし


家康に

「 家次殿は実は昨夜、ひどい風邪で、とても年賀のご挨拶は無理なご様子でした。

これでは明日の拝謁がかなわない・・1日延ばして1月2日にしようか・・実は思い悩んでいると申しますので
もし、年賀のご挨拶を1日延ばしたら、いくらひどい風邪とはいえ、大御所さま( 家康公 )が、どうお思い遊ばすか・・・その心証を量りかねるので・・

そんなことをするくらいなら

 私(阿茶)が厚着をしてもよい、綿帽子をつけてでもよいから、少々無理してでも年賀のご挨拶の大役を果たした方がよいでしょう。
 

と家次殿に私(阿茶)が申したのです。

このことは全て私(阿茶)の一存でしたことで、決して家次殿の思いつきではないのです 」

と( 嘘 )の事情を話し、家臣の窮状を救うために、自分に非を着せ、とっさに助け船を出したそうです。


阿茶局にそう言われた家康は、怒りを鎮め、家次は、何とか事なきを得たとのことです。



こういったことは、ほんの些事に過ぎませんが、こんなことが自然かつ咄嗟にできて、しかも巧く場をおさめられるような人は、そんなに多くないかもしれません。

普段から心のトレーニングをしており、思いやりを耕し、なおかつ聡明でないと、咄嗟( 反射的 )に、こういうことは出来ない・・場もおさめられないでしょう。

( これとは反対で何らかの失態を犯し責められたりしたら、自我防衛のため咄嗟に他人に罪<非>をなすりつけ、濡れ衣を着せ、後で良心が傷み後悔し心が消極的になる因を作って、その後の心のリカバーに多くの労力と時間を要する方も多いです・・ )



人格に優れていただけでなく才知に長けていて聡明だった・・ということについては上記のエピソードからも彷彿されますが

その聡明さだけでなく彼女には腹力( 腹の力 )もあって、その腹力が歴史にまで影響を与えたエピソードとして
阿茶局が「 大阪冬の陣 」で、豊臣方との和議に際し徳川方から特使として派遣され政治的役割を果たしたことがよく知られています。


 阿茶局を一躍日本史に登場させた、この和議については、TVドラマで放映されてるような・・あんな和やかで生易しいものではなかった・・この和議は、リアルの現場では恐ろしいくらいの腹の力が要求されるものだったと言われています。

 と言いますのも・・講和の談判の最中も、講和を有利に進めるために徳川方の戦闘は中止されず・・闘いの真っ最中でして、

矢を射当てたとき、射手が大声をあげる矢叫びの声や
双方の剣戟( けんげき )の響きがキンキン響き渡って物凄い修羅場のまさに真っただ中です。


しかも、イギリスから輸入した大砲( セーカー砲、カルバリン砲 有効射程距離1800m、最大射程距離6300m )の砲弾( 一個の重さ約8kg )が大阪城にバンバン撃ち込まれ、轟音が鳴り響く中を講和( 和議 )の為に往来し和議に臨んだと言われています。

そのため阿茶局は、鉄製の駕籠に乗って大阪城に行った・・
和議の為の談判中も駕籠の中から大声で会話したという逸話まであります。

( しかし、いくら鉄製の駕籠に乗って、その中にいても・・
一個の重さ約8kgの砲弾が秒速500mでやってきて、
もし万一運悪く阿茶局が乗ってる駕籠に、ドカーンと直撃したら・・その衝撃力は50tです。

いくら鉄製の駕籠でも、ただでは済まないでしょう。

それに・・あまりに頑丈にしたら、駕籠を運ぶ人も重くて運べないでしょう・・

ですので

鉄製の駕籠と言っても「 流れ弾や流れ矢を防ぐ程度 」の気休めだったのではないかと・・

 そういう背景からして「 家康公の為ならば・・お役に立つなら・・ 」という強い思いがあって、才知だけでなく度胸もあり腹の力がないと交渉の場にすら立てないのではないでしょうか?
・・普通の女子(おなご)では無理ではないかと思われます。
こういう方を列女と言うんではないかと・・




「 大坂夏の陣 」では真田幸村が家康本陣を狙って
鋭く切り込んで、その覇気に気圧され、本陣の旗本隊が、逃げ腰になり
崩れかかって危機に陥った時、攻めてくる相手に決して背を見せず
家康の傍らにいて、矢面に立ち、体を張って家康を守ったのが
阿茶局( あちゃのつぼね )その人だったとも言われてますので・・

そういうことをされてる・・ということは「鏡の法則」( 与えたら、与えたものが与えられやすくなるという返報性の原理)から

命懸けで守ってもらえるくらいの愛を返されるくらいなのだから家康公は、この方を実に深く愛してよく尽くしていた・・と言えるのではないでしょうか?



事実として家康は遺言で剃髪すらさせてません。特別待遇です。
( 他の側室は全員 家康死後、尼になったと聞いています )



そういう具合に家康は阿茶局から篤く信頼され、よく尽くされ愛されてたし、、家康自身も懇意にしてたがゆえに心身のエネルギー状態もよく心の強さ、積極性が保たれ

節目・節目の危機で

苦しまぎれ・・とか・・周りに迎合し便乗で決断したりだとか

激情に駆られて決断するわけでもなく単なる思いつき・・気まぐれで決断するわけでもない

冷静かつ沈着に情勢判断を誤らず対処し大きな決断をくだし得て、
それがよい結果につながったのではないでしょうか?


その一方で、これがおかしくなるといくら強運の星の下に生まれていても陰陽の調和が崩れ、決断を下す当の本人の判断をおかしくし優柔不断性、横暴性、傲慢性・・などの消極性が出てきて重大な転機における選択にも大きな影響を与え運を落とす場合がある。




 こういうふうに調査してみると・・やはり夫婦愛のエネルギーの交流( 言葉、態度、振る舞い )が自然にお互いの人格を創り、何らかの周期性のある運気にも影響する





よく尽くし尽くされてお互いよきものを交換し合う夫婦愛のエネルギーの交流が心の態度にも影響し円満な場合の仕事や生活にもたらす影響というのは
甚大なものがあるのかもしれない・・また、このよしあしが運気の周期における重大な岐路において盛衰に関係するかもしれない・・というのが、何となく視えてくるような気もしています。

 戦国時代の三英傑は、結構ばっちりと年数がハマって周期性があるように思えます。

 こういう分野もさらに研究が進んで、夫婦円満の新たな動機付けになるとよいですよね。


これらの記事が何らかの参考になれば幸いです。


( 以下の記事は、筆者である私自身の言葉を付け加えて表現し直してますが・・・ )

心身統一行法を熱心にやってる方でしたら、苦手な方でも、心的態度を積極にし向けることはできるとは思いますし

真剣に実践していったら、出会う人も変わっていく場合がある。

出会う人が変わらなくっても

普段つき合う人に接する際の自分自身の心的態度を意志の能力で尊く積極的に変え、それを持続していくことで拓かれてくるものがあるのではないかと思います・・


で・・まあ多少の不満はあるかもしれませんが・・完璧な人間なんていないわけだし、普段からお互い多少の欠点は、まあまあと目を瞑り合ってお互いの良いところを認め合い交換し合うってのは意外に大事だと・・この記事を書きながら思った次第です。


( 関連記事 )

12年周期の運気の盛衰と男女愛のエネルギー( H・フォード )