前回のブログでは

人との出会いなどで、出会い方がよければ、
心の態度の積極化がパワーアップしてスパークするという例として豊臣秀吉をとりあげ
運気の盛衰( 好不調のリズム )についても少しだけふれてみました。


やはり夫婦愛のエネルギーの交流( 言葉、態度、振る舞い )が自然にお互いの人格を創り、心を少しずつ強くする。

その一方で、これがおかしくなると陰陽の調和が崩れ心の積極性にも少なからず影響を与え運気も乱れる。



夫婦愛のエネルギーの交流が心の態度にも影響し
円満な場合の仕事や生活にもたらす影響というのは
甚大なものがあるのかもしれない・・
また、このよしあしが運気の盛衰に関係するかもしれない


その例として

秀吉バージョンだけでは心もとないので、「 織田信長バージョン 」
「 徳川家康バージョン 」でも執筆してみます。

ただし、この戦国時代当時の道徳観、倫理観と現代では、
相当な乖離があることは否めません。

現代の常識とは、かけ離れたものも多いです。



ですが、時代をこえても通用する普遍的なもの・・変わらざるものもあると思いますので・・





以上を踏まえて、先ずは


「 織田信長 」の場合でやってみると、

信長が最も愛したのは正室の濃姫と言われています。


濃姫は謎多き女性の一人とされてますが


僧侶から還俗し油売りから身を起こし戦国大名になった、あの斎藤道三の娘です。


この時代は家柄だけでは通用しない時代だからこそ、多くの才能・才覚が
頭ひとつ、腕一つでのし上がれる時代でして、
まさにこの人( 道三 )も、この時代を象徴したような方でした。

信長の政策のひとつであった「 楽市楽座 」や 「 関所の撤廃 」も
舅である道三が先に領内において類したこと( らしきこと )をしていたと言われています。
信長は斎藤道三らから学んだことを、楽市令として制度化し、より拡大して実行したとも言えます。


道三は信長の器量を本能的に見抜いたから
美姫で肝も据わって賢かった愛娘を信長にやったとも言われていますが
信長は、かの道三の娘の濃姫と1548年に政略結婚しています。



ただし、結婚当時は、「 うつけ者 」と言われ最低・・散々の評判です。

( 油断させるために、わざとそうしていた説もありますが )

「 信長公記 」にも、信長は、よくこれで人前に出られるなぁ・・
というような奇妙奇天烈な服装をしたり

品行方正とは程遠い・・と申しますか・・
行儀は悪く、城下では人目も憚らず柿や瓜をかじり
餅を食い、人に寄りかかり、肩にぶらさがって、ふらふら歩いていたこともあるのだとか。



しかし

そんな「 大うつけの信長 」でしたが

濃姫( 斎藤帰蝶 )を妻にして、跡目争いを制し

尾張一国をほぼ統一し頭角を現していきます。

そうして


1548+12=1560年 桶狭間の戦いで

世間の評価は一変します。



信長は出陣前の清洲城において

「 人生五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり 」
というフレーズで有名な「 敦盛(あつもり) 」を舞い
熱田神宮において戦勝祈願をした後、出陣しています。



そうして臨んだ、この戦いにおいて信長は情報を制し、機先を制し

気の緩みをついて

信長直轄で精鋭の2000〜3000の兵力を
義元本陣(の一点)に集中的にぶつけることで

5倍とも10倍とも言われている圧倒的な戦力差を覆し
「 東海の雄 」と言われた今川義元を打ち破っています。




この戦いの結果については周辺大名の、ほぼ誰も信長が勝つなんて予想もしてなかった。


ですので、これが信長にとって天下統一に向かう大きな布石になったのは、
ほぼ間違いないですよね。

信長の理念や信念の強さは・・もういろんな専門家が語り尽くしてる感がありますので
ここでは敢えてふれませんが・・個人的には濃姫と結婚してから信長の心の強さや信念が
さらにパワーアップし、そのスケールが拡大し勢いを増した・・
として史実を因果分析してみたい気持ちに駆られます。



それから約12年後

1560+12( +1)=1573年

1年ずれてますが、
中世的権威の象徴でもあった足利義昭を追放し
230年以上続いた室町幕府を滅ぼしてまして

その後も天下布武という大きな理念を抱いて天下統一事業にまい進し

強固な中央集権体制のかたちを作っています。


諸国大名が領地拡大や領土保護に、きゅうきゅうしてたのに・・
信長は、彼らとは、あまりに次元が違う
大志と合理的考えを持って行動していた・・と言えると思います。




その約9年後に変転があり

1582年に本能寺の変で倒れますが

濃姫と結婚後の運気の周期性( 運気のリズム )は感じられます。

こうしてみると道三の娘である濃姫と結婚したことで
信長の大胆さや志の大きさ・・心の強さ・・周囲の巻き込み力がさらにパワーアップし、
そのスケールも拡がり勢いを増した・・と見ることもできるのではないでしょうか?




次の秀吉バージョンは、以下にこってり書いてますので省略します。

秀吉バージョン




徳川家康バージョンについては


 家康の場合は阿茶局( あちゃのつぼね )が
信長の濃姫や秀吉の寧々( 北政所 )みたいな位置でして

 この方を1579年に側室にしてから
家康の運気は「 うなぎ登り 」になっています。

それまでは鳴かず飛ばず・・
いくら待っても鳴かないホトトギスでして
ひたすら下積み・・忍苦続きの日々です。



今川義元のもとでは、当時の家康(元康)の家臣団は
先陣ばかりを務めさせられ
言ってみれば「 使い捨て 」のような立場です。

1560年に義元が桶狭間の戦いで信長に敗れて後、
やっと今川家の人質から解放され三河で独立しています。

ですが

信長と同盟を結んで後も、今川家の時と同様、
その関係は実質的には、臣下とあまり変わらない立場で
最もリスクの多い先陣を任されることが多かった。





それに三方ヶ原の戦い(1572年)では、
武田信玄が指揮する
当時最強の武田軍に惨敗しています。

その際は、恐怖のあまり馬上で糞尿を垂れ流し、
ほうほうのていで浜松城に逃げ帰ったらしく・・

脱糞の匂いに気づいた部下から諌められた・・
という逸話まであるのだとか。


( お食事中の方には申し訳ない話ですが・・・ )



こういった逸話を知るにつけ

家康も最初から豪のものだったわけでもなく、聡明だったわけでも
元から忍耐強かったわけでもなく「 環境 」によって創られた分と

理想を意志し自ら意志、意欲をして自分自身の心を強く創っていった・・

武芸にも戦略にも秀でて聡明に自らを作っていった分の
合成的なものがあると観ています。



※余談ですが三河武士の強靭な結束力と強さも、
使い捨ての先陣を任される試練と苦難のなかで
作られ培われていったという説もあります。

 家康は6歳で織田家の元に人質に送られ、織田家が
今川家に敗れて後

今度は今川家の人質として駿府へ送られ、
8歳から19歳までの約12年間を
人質として生活することを余儀なくされてます・・

家康の類まれな忍耐強さは環境によって創られたとも言われています。

 結果論的には、これがあったから、よかったとも言えるわけですが・・







話を元に戻しますが

家康は、阿茶局( あちゃのつぼね )という福女に会う前は
かなり下積みでして戦闘においても先にも書いたように、
武田信玄に惨敗をし滅亡寸前まで追い込まれています。




結婚においても、家康は、あまり良い話を聞きません。

阿茶局を側室にする・・ずっと以前に築山殿と
政略結婚していますが、

この築山殿は、今川義元の養女で、お嬢様育ちで気位の高い女性でもあったことから、
あまりいい結婚ではなかった・・
大変だったという逸話も残っています。

( 家康が側室にした女性は、秀吉と違って貴種好みでなく、
家柄の良い女性は相手にせず、
全員身分の低い女性でして
聡明さや丈夫な子供を産んでくれそうな方・・
その他独特の基準で選んだのは、
この築山殿との結婚(の失敗)と秀吉の失敗から学んだとも言われています )




そんな忍従と下積みがずっと続くなかで
家康は、いっこうに芽が出ないわけでして


特に

家康が38歳の時、阿茶局( あちゃのつぼね 当時25歳 )を
側室にした時期

1579年は家康にとっては、まさにどん底でして・・

長男・・そして正室( 築山殿 )を・・
所謂「 築山殿事件 」で知られるお家騒動で、信長の命を享けて
家康自身の命令で切腹( 自害 )させる・・という痛恨の絶苦( 絶痛 )をなめています。



ですが

 聡明で人格的にも優れた阿茶局を側室にしてから約12年・・


心の積極性・・その強さがパワーアップし弾けたお陰か
 

どん底の苦から大きく飛躍しています。


細かくは1579+3=1582年

織田信長が明智光秀に本能寺の変で討たれ
明智軍から逃れるため、

滞在していた堺から山中(伊賀)を越え三河へ運よく無事に帰還し



そうして、これを吉に転じ
この頃に名参謀「 本多正信 」が家康の家臣になることで
甲斐、信濃を支配下に置くなど着実に勢力を伸ばしていきます。




そうして1579+3+9=1579+12=1591年には、豊臣秀吉に
臣下の礼をとってはいますが豊臣政権下で
重鎮( ご意見番の一人 )になっています。

 秀吉は、この時が絶頂期なのですけど・・
その2、3年前から判断がおかしくなり

秀吉の心の消極性のうち残酷性、横暴さ、傲慢性等が増したせいか
その後、失政、失策・・が目立つようになり民心も離れ

秀吉の弟で家臣にも慕われていた秀長が亡くなるなど不幸も続いてまして
 
 豊臣政権は、ほころびが見え始めてるなかで、
家康の場合は家臣団の結束力がさらに増して
国内における影響力が着実に大きくなっていきます。


 確か関東転封( 関東に移封 )になったのもこのくらいの時期でして
当時の視点からみたら左遷ですが、領地は250万石になり大きな転機になっています。


そこから更に9年後の決断が要求される変転の年・・
1600年に関ヶ原の戦いで圧勝し・・
そこから3年後・・1603年には江戸に幕府を開いています。

( 1591+12=1603 )


さらに、そこから12年
 大坂の陣(1615)で豊臣家を滅ぼし、その後300年近く続く
徳川幕府( 江戸幕府 )の雛型の完成をみています。


 家康は忍従と屈辱に耐える苦労続きの生活が長かったせいか
心の機微に敏感で部下はもちろん女の人の扱いにも長けてたようでして
先にも述べたように側室選びにも失敗せず・・秀吉みたいに
300人もの女性に手を出し色に溺れることもなく・・

秀吉の正妻だった寧々にも非常に丁重でした。



とりわけ阿茶局( あちゃのつぼね )を大事にし

 この方との間に子供はできませんでしたが
36年間・・自身が亡くなるまで篤く信頼し
よく尽くされエネルギーを貰っていたようです。


戦場にもたびたび同伴させてたという史実も残っています。

そのせいか阿茶局は、小牧長久手の戦いに同行した折
それが原因で流産した・・とも言われている・・・

人格的に優れていた・・ということについては以下の逸話から、なんとなく推察できます。


それは、阿茶局にまつわる、こんなエピソードです。

家康が将軍の位を秀忠に禅譲し駿府に隠居していた頃


秀忠の側近の酒井家次が将軍の代理で正月元旦の年賀の使い( 賀使 )として家康の元を訪ねた。

その際、その年は大変寒い年で、家次は寒いので、あんまり深く考えず・・

礼式もわきまえず軽〜い気持ちで寒気予防のために先ず綿帽子を頭にかぶって、その上から公的な礼服着装の際に被る折烏帽子( 侍烏帽子 )をかぶって、元旦のご挨拶に臨んだらしいのですが


将軍の使いとして公式に家康に年賀のご挨拶をするとき

運悪く侍烏帽子がすぽっと脱げて、内側にかぶっていた綿帽子が露わになってしまった。


家康は、これが気に入らず、

「 お前の父の忠次のような老体ならともかく、
  お前のような若者が、そんなことをするとは!なんとも横柄、横着で無礼なことだ・・
 隠居した身である、わしの前だから、事は大したことではないが、もし、これが江戸の諸大名が列席する公式の行事の前であってみろ・・こういった場で、こういうことがあって、側近であるそちが、礼法にない綿帽子なんかを丸出しにし間抜けな姿をさらしたら・・・これは将軍家の恥・・諸大名からの失笑の種・・ひいては、その御威光にもかかわることぞ!
なんたることぞ! 」と家次を、ものすごい剣幕で叱りつけた。

 家次は、家康の勘気にふれ、ただただ恐れ入って小刻みに震え平伏していたが

これを傍らで見て不憫に思った阿茶局はとっさの機転を利かし


家康に

「 家次殿は実は昨夜、ひどい風邪で、とても年賀のご挨拶は無理なご様子でした。

これでは明日の拝謁がかなわない・・1日延ばして1月2日にしようか・・実は思い悩んでいると申しますので
もし、年賀のご挨拶を1日延ばしたら、いくらひどい風邪とはいえ、大御所さま( 家康公 )が、どうお思い遊ばすか・・・その心証を量りかねるので・・

そんなことをするくらいなら

 私(阿茶)が厚着をしてもよい、綿帽子をつけてでもよいから、少々無理してでも年賀のご挨拶の大役を果たした方がよいでしょう。
 

と家次殿に私(阿茶)が申したのです。

このことは全て私(阿茶)の一存でしたことで、決して家次殿の思いつきではないのです 」

と( 嘘 )の事情を話し、家臣の窮状を救うために、自分に非を着せ、とっさに助け船を出したそうです。


阿茶局にそう言われた家康は、怒りを鎮め、家次は、何とか事なきを得たとのことです。



こういったことは、ほんの些事に過ぎませんが、こんなことが自然かつ咄嗟にできて、しかも巧く場をおさめられるような人は、そんなに多くないかもしれません。

普段から心のトレーニングをしており、思いやりを耕し、なおかつ聡明でないと、咄嗟( 反射的 )に、こういうことは出来ない・・場もおさめられないでしょう。

( これとは反対で何らかの失態を犯し責められたりしたら、自我防衛のため咄嗟に他人に罪<非>をなすりつけ、濡れ衣を着せ、後で良心が傷み後悔し心が消極的になる因を作って、その後の心のリカバーに多くの労力と時間を要する方も多いです・・ )



人格に優れてただけでなく才知に長けていて聡明だった・・ということについては上記のエピソードからも彷彿されますが

その聡明さが歴史にまで影響を与えたエピソードとして
阿茶局が「 大阪冬の陣 」で、豊臣方との和議に際し徳川方から特使として派遣され政治的役割を果たしたこともよく知られています。


ただし、和議については、TVドラマで放映されてるような・・あんな和やかで生易しいものではなかったと言われてます。

 講和の談判の最中も、講和を有利に進めるために徳川方の戦闘は中止されず・・闘いの真っ最中で、

矢を射当てたとき、射手が大声をあげる矢叫びの声や
双方の剣戟( けんげき )の響きがキンキン響き渡って物凄い修羅場の真っただ中・・


しかも、イギリスから輸入した大砲( セーカー砲、カルバリン砲 有効射程距離1800m、最大射程距離6300m )の砲弾( 一個の重さ約8kg )が大阪城にバンバン撃ち込まれ、轟音が鳴り響く中を講和( 和議 )の為に往来し和議に臨んだと言われています。

そのため阿茶局は、鉄製の駕籠に乗って大阪城に行った・・
和議の為の談判中も駕籠の中から大声で会話したという逸話まであります。

( いくら鉄製の駕籠に乗って、その中にいても・・
一個の重さ約8kgの砲弾が秒速500mでやってきて、
もし万一運悪く阿茶局が乗ってる駕籠に、ドカーンと直撃したら・・その衝撃力は50tです。

いくら鉄製の駕籠でも、ただでは済まないでしょう。

それに・・あまりに頑丈にしたら、駕籠を運ぶ人も重くて運べないでしょう・・

ですので

鉄製の駕籠と言っても「 流れ弾や流れ矢を防ぐ程度 」の気休めだったのではないかと・・

 そういう背景からして「 家康公の為ならば・・お役に立つなら・・ 」という強い思いがあって、才知だけでなく腹が据わってないと交渉の場にすら立てないのではないでしょうか?
・・普通の女子(おなご)では無理ではないかと思われます。
こういう方を列女と言うんではないかと・・ )


「 大坂夏の陣 」では真田幸村が家康本陣を狙って
鋭く切り込んで、その覇気に気圧され、本陣の旗本隊が、逃げ腰になり
崩れかかって危機に陥った時、攻めてくる相手に決して背を見せず
家康の傍らにいて、矢面に立ち、体を張って家康を守ったのが
阿茶局( あちゃのつぼね )その人だったとも言われてますので・・

そういうことをされてる・・ということは「鏡の法則」( 与えたら、与えたものが与えられやすくなるという返報性の原理)から

命懸けで守ってもらえるくらいの愛を返されるくらいなのだから家康公は、この方を実に深く愛していた・・と言えるのではないでしょうか?



事実として家康は遺言で剃髪すらさせてません。特別扱いです。
( 他の側室は全員 家康死後、尼になったと聞いています )



そういう具合に篤く信頼され、よく尽くされ愛されてたし懇意にしてたがゆえに
心身のエネルギー状態もよく心の強さ、積極性が保たれ

節目・節目の危機で

苦しまぎれ・・とか・・周りに迎合し便乗で決断したりだとか

激情に駆られて決断するわけでもなく単なる思いつき・・気まぐれで決断するわけでもない

冷静かつ沈着に情勢判断を誤らず対処し大きな決断をくだし得て、
それがよい結果につながったのではないでしょうか?


なお

家康の場合も秀吉と同様で、信長みたいに最初っから天下統一を成すというようなビジョン( 大望 )があったわけでは決してなく、生き残るのも至難の業・・というようなところからスタートしお家( 松平家<徳川家> )および三河一門を存続・繁栄させようという強い願いから、ひとつひとつ試練や苦難を乗り越えていく過程で、貫禄を身につけ周りから押し上げられるようにして気がついたら天下人になっていた・・といった感じに見えます。
( 参考 秀吉公の出世講座 関ヶ原ブログ )

その点は秀吉と類似してますが、秀吉の場合は寧々を疎んじ意見を聴き入れなくなって淀殿に入れ込んでからは、いいものがブロックされ横暴さ、残酷さと思い上がりが酷くなって、温かみが消え心の消極性が強調されたせいか失策続きで晩年は精彩を欠いています。

秀吉バージョン


こういうふうに調査してみると・・やはり夫婦愛のエネルギーの交流( 言葉、態度、振る舞い )が自然にお互いの人格を創り、運気にも影響する

その一方で、これがおかしくなると陰陽の調和が崩れ心の積極性にも少なからず影響を与え運気も乱れる。



夫婦愛のエネルギーの交流が心の態度にも影響し円満な場合の仕事や生活にもたらす影響というのは
甚大なものがあるのかもしれない・・また、このよしあしが運気の盛衰に関係するかもしれない・・というのが、何となく視えてくるような気もしています。

 戦国時代の三英傑は、結構ばっちりと年数がハマって周期性があるように思えます。

 こういう分野もさらに研究が進んで、夫婦円満の新たな動機付けになるとよいですよね。

これらの記事が何らかの参考になれば幸いです。