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2016年11月20日

運気の12年周期の盛衰と男女愛のエネルギー( 徳川家康、織田信長、豊臣秀吉 )

前回のブログでは

人との出会いなどで、出会い方がよければ、
心の態度の積極化がパワーアップしてスパークするという例として豊臣秀吉をとりあげ
運気の盛衰( 好不調のリズム )についても少しだけふれてみました。


やはり夫婦愛のエネルギーの交流( 言葉、態度、振る舞い )が自然にお互いの人格を創り、心を少しずつ強くする。

その一方で、これがおかしくなると陰陽の調和が崩れ心の積極性にも少なからず影響を与え運気も乱れる。



夫婦愛のエネルギーの交流が心の態度にも影響し
円満な場合の仕事や生活にもたらす影響というのは
甚大なものがあるのかもしれない・・
また、このよしあしが運気の盛衰に関係するかもしれない


その例として

秀吉バージョンだけでは心もとないので、「 織田信長バージョン 」
「 徳川家康バージョン 」でも執筆してみます。

ただし、この戦国時代当時の道徳観、倫理観と現代では、
相当な乖離があることは否めません。

現代の常識とは、かけ離れたものも多いです。



ですが、時代をこえても通用する普遍的なもの・・変わらざるものもあると思いますので・・





以上を踏まえて、先ずは


「 織田信長 」の場合でやってみると、

信長が最も愛したのは正室の濃姫と言われています。


濃姫は謎多き女性の一人とされてますが


僧侶から還俗し油売りから身を起こし戦国大名になった、あの斎藤道三の娘です。


この時代は家柄だけでは通用しない時代だからこそ、多くの才能・才覚が
頭ひとつ、腕一つでのし上がれる時代でして、
まさにこの人( 道三 )も、この時代を象徴したような方でした。

信長の政策のひとつであった「 楽市楽座 」や 「 関所の撤廃 」も
舅である道三が先に領内において類したこと( らしきこと )をしていたと言われています。
信長は斎藤道三らから学んだことを、楽市令として制度化し、より拡大して実行したとも言えます。


道三は信長の器量を本能的に見抜いたから
美姫で肝も据わって賢かった愛娘を信長にやったとも言われていますが
信長は、かの道三の娘の濃姫と1548年に政略結婚しています。



ただし、結婚当時は、「 うつけ者 」と言われ最低・・散々の評判です。

( 油断させるために、わざとそうしていた説もありますが )

「 信長公記 」にも、信長は、よくこれで人前に出られるなぁ・・
というような奇妙奇天烈な服装をしたり

品行方正とは程遠い・・と申しますか・・
行儀は悪く、城下では人目も憚らず柿や瓜をかじり
餅を食い、人に寄りかかり、肩にぶらさがって、ふらふら歩いていたこともあるのだとか。



しかし

そんな「 大うつけの信長 」でしたが

濃姫( 斎藤帰蝶 )を妻にして、跡目争いを制し

尾張一国をほぼ統一し頭角を現していきます。

そうして


1548+12=1560年 桶狭間の戦いで

世間の評価は一変します。



信長は出陣前の清洲城において

「 人生五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり 」
というフレーズで有名な「 敦盛(あつもり) 」を舞い
熱田神宮において戦勝祈願をした後、出陣しています。



そうして臨んだ、この戦いにおいて信長は情報を制し、機先を制し

気の緩みをついて

信長直轄で精鋭の2000〜3000の兵力を
義元本陣(の一点)に集中的にぶつけることで

5倍とも10倍とも言われている圧倒的な戦力差を覆し
「 東海の雄 」と言われた今川義元を打ち破っています。




この戦いの結果については周辺大名の、ほぼ誰も信長が勝つなんて予想もしてなかった。


ですので、これが信長にとって天下統一に向かう大きな布石になったのは、
ほぼ間違いないですよね。

信長の理念や信念の強さは・・もういろんな専門家が語り尽くしてる感がありますので
ここでは敢えてふれませんが・・個人的には濃姫と結婚してから信長の心の強さや信念が
さらにパワーアップし、そのスケールが拡大し勢いを増した・・
として史実を因果分析してみたい気持ちに駆られます。



それから約12年後

1560+12( +1)=1573年

1年ずれてますが、
中世的権威の象徴でもあった足利義昭を追放し
230年以上続いた室町幕府を滅ぼしてまして

その後も天下布武という大きな理念を抱いて天下統一事業にまい進し

強固な中央集権体制のかたちを作っています。


諸国大名が領地拡大や領土保護に、きゅうきゅうしてたのに・・
信長は、彼らとは、あまりに次元が違う
大志と合理的考えを持って行動していた・・と言えると思います。




その約9年後に変転があり

1582年に本能寺の変で倒れますが

濃姫と結婚後の運気の周期性( 運気のリズム )は感じられます。

こうしてみると道三の娘である濃姫と結婚したことで
信長の大胆さや志の大きさ・・心の強さ・・周囲の巻き込み力がさらにパワーアップし、
そのスケールも拡がり勢いを増した・・と見ることもできるのではないでしょうか?




次の秀吉バージョンは、以下にこってり書いてますので省略します。

秀吉バージョン




徳川家康バージョンについては


 家康の場合は阿茶局( あちゃのつぼね )が
信長の濃姫や秀吉の寧々( 北政所 )みたいな位置でして

 この方を1579年に側室にしてから
家康の運気は「 うなぎ登り 」になっています。

それまでは鳴かず飛ばず・・
いくら待っても鳴かないホトトギスでして
ひたすら下積み・・忍苦続きの日々です。



今川義元のもとでは、当時の家康(元康)の家臣団は
先陣ばかりを務めさせられ
言ってみれば「 使い捨て 」のような立場です。

1560年に義元が桶狭間の戦いで信長に敗れて後、
やっと今川家の人質から解放され三河で独立しています。

ですが

信長と同盟を結んで後も、今川家の時と同様、
その関係は実質的には、臣下とあまり変わらない立場で
最もリスクの多い先陣を任されることが多かった。





それに三方ヶ原の戦い(1572年)では、
武田信玄が指揮する
当時最強の武田軍に惨敗しています。

その際は、恐怖のあまり馬上で糞尿を垂れ流し、
ほうほうのていで浜松城に逃げ帰ったらしく・・

脱糞の匂いに気づいた部下から諌められた・・
という逸話まであるのだとか。


( お食事中の方には申し訳ない話ですが・・・ )



こういった逸話を知るにつけ

家康も最初から豪のものだったわけでもなく、聡明だったわけでも
元から忍耐強かったわけでもなく「 環境 」によって創られた分と

理想を意志し自ら意志、意欲をして自分自身の心を強く創っていった・・

武芸にも戦略にも秀でて聡明に自らを作っていった分の
合成的なものがあると観ています。



※余談ですが三河武士の強靭な結束力と強さも、
使い捨ての先陣を任される試練と苦難のなかで
作られ培われていったという説もあります。

 家康は6歳で織田家の元に人質に送られ、織田家が
今川家に敗れて後

今度は今川家の人質として駿府へ送られ、
8歳から19歳までの約12年間を
人質として生活することを余儀なくされてます・・

家康の類まれな忍耐強さは環境によって創られたとも言われています。

 結果論的には、これがあったから、よかったとも言えるわけですが・・







話を元に戻しますが

家康は、阿茶局( あちゃのつぼね )という福女に会う前は
かなり下積みでして戦闘においても先にも書いたように、
武田信玄に惨敗をし滅亡寸前まで追い込まれています。




結婚においても、家康は、あまり良い話を聞きません。

阿茶局を側室にする・・ずっと以前に築山殿と
政略結婚していますが、

この築山殿は、今川義元の養女で、お嬢様育ちで気位の高い女性でもあったことから、
あまりいい結婚ではなかった・・
大変だったという逸話も残っています。

( 家康が側室にした女性は、秀吉と違って貴種好みでなく、
家柄の良い女性は相手にせず、
全員身分の低い女性でして
聡明さや丈夫な子供を産んでくれそうな方・・
その他独特の基準で選んだのは、
この築山殿との結婚(の失敗)と秀吉の失敗から学んだとも言われています )




そんな忍従と下積みがずっと続くなかで
家康は、いっこうに芽が出ないわけでして


特に

家康が38歳の時、阿茶局( あちゃのつぼね 当時25歳 )を
側室にした時期

1579年は家康にとっては、まさにどん底でして・・

長男・・そして正室( 築山殿 )を・・
所謂「 築山殿事件 」で知られるお家騒動で、信長の命を享けて
家康自身の命令で切腹( 自害 )させる・・という痛恨の絶苦( 絶痛 )をなめています。



ですが

 聡明で人格的にも優れた阿茶局を側室にしてから約12年・・


心の積極性・・その強さがパワーアップし弾けたお陰か
 

どん底の苦から大きく飛躍しています。


細かくは1579+3=1582年

織田信長が明智光秀に本能寺の変で討たれ
明智軍から逃れるため、

滞在していた堺から山中(伊賀)を越え三河へ運よく無事に帰還し



そうして、これを吉に転じ
この頃に名参謀「 本多正信 」が家康の家臣になることで
甲斐、信濃を支配下に置くなど着実に勢力を伸ばしていきます。




そうして1579+3+9=1579+12=1591年には、豊臣秀吉に
臣下の礼をとってはいますが豊臣政権下で
重鎮( ご意見番の一人 )になっています。

 秀吉は、この時が絶頂期なのですけど・・
その2、3年前から判断がおかしくなり

秀吉の心の消極性のうち残酷性、横暴さ、傲慢性等が増したせいか
その後、失政、失策・・が目立つようになり民心も離れ

秀吉の弟で家臣にも慕われていた秀長が亡くなるなど不幸も続いてまして
 
 豊臣政権は、ほころびが見え始めてるなかで、
家康の場合は家臣団の結束力がさらに増して
国内における影響力が着実に大きくなっていきます。


 確か関東転封( 関東に移封 )になったのもこのくらいの時期でして
当時の視点からみたら左遷ですが、領地は250万石になり大きな転機になっています。


そこから更に9年後の決断が要求される変転の年・・
1600年に関ヶ原の戦いで圧勝し・・
そこから3年後・・1603年には江戸に幕府を開いています。

( 1591+12=1603 )


さらに、そこから12年
 大坂の陣(1615)で豊臣家を滅ぼし、その後300年近く続く
徳川幕府( 江戸幕府 )の雛型の完成をみています。


 家康は忍従と屈辱に耐える苦労続きの生活が長かったせいか
心の機微に敏感で部下はもちろん女の人の扱いにも長けてたようでして
先にも述べたように側室選びにも失敗せず・・秀吉みたいに
300人もの女性に手を出し色に溺れることもなく・・

秀吉の正妻だった寧々にも非常に丁重でした。



とりわけ阿茶局( あちゃのつぼね )を大事にし

 この方との間に子供はできませんでしたが
36年間・・自身が亡くなるまで篤く信頼し
よく尽くされエネルギーを貰っていたようです。


戦場にもたびたび同伴させてたという史実も残っています。

そのせいか阿茶局は、小牧長久手の戦いに同行した折
それが原因で流産した・・とも言われている・・・

人格的に優れていた・・ということについては以下の逸話から、なんとなく推察できます。


それは、阿茶局にまつわる、こんなエピソードです。

家康が将軍の位を秀忠に禅譲し駿府に隠居していた頃


秀忠の側近の酒井家次が将軍の代理で正月元旦の年賀の使い( 賀使 )として家康の元を訪ねた。

その際、その年は大変寒い年で、家次は寒いので、あんまり深く考えず・・

礼式もわきまえず軽〜い気持ちで寒気予防のために先ず綿帽子を頭にかぶって、その上から公的な礼服着装の際に被る折烏帽子( 侍烏帽子 )をかぶって、元旦のご挨拶に臨んだらしいのですが


将軍の使いとして公式に家康に年賀のご挨拶をするとき

運悪く侍烏帽子がすぽっと脱げて、内側にかぶっていた綿帽子が露わになってしまった。


家康は、これが気に入らず、

「 お前の父の忠次のような老体ならともかく、
  お前のような若者が、そんなことをするとは!なんとも横柄、横着で無礼なことだ・・
 隠居した身である、わしの前だから、事は大したことではないが、もし、これが江戸の諸大名が列席する公式の行事の前であってみろ・・こういった場で、こういうことがあって、側近であるそちが、礼法にない綿帽子なんかを丸出しにし間抜けな姿をさらしたら・・・これは将軍家の恥・・諸大名からの失笑の種・・ひいては、その御威光にもかかわることぞ!
なんたることぞ! 」と家次を、ものすごい剣幕で叱りつけた。

 家次は、家康の勘気にふれ、ただただ恐れ入って小刻みに震え平伏していたが

これを傍らで見て不憫に思った阿茶局はとっさの機転を利かし


家康に

「 家次殿は実は昨夜、ひどい風邪で、とても年賀のご挨拶は無理なご様子でした。

これでは明日の拝謁がかなわない・・1日延ばして1月2日にしようか・・実は思い悩んでいると申しますので
もし、年賀のご挨拶を1日延ばしたら、いくらひどい風邪とはいえ、大御所さま( 家康公 )が、どうお思い遊ばすか・・・その心証を量りかねるので・・

そんなことをするくらいなら

 私(阿茶)が厚着をしてもよい、綿帽子をつけてでもよいから、少々無理してでも年賀のご挨拶の大役を果たした方がよいでしょう。
 

と家次殿に私(阿茶)が申したのです。

このことは全て私(阿茶)の一存でしたことで、決して家次殿の思いつきではないのです 」

と( 嘘 )の事情を話し、家臣の窮状を救うために、自分に非を着せ、とっさに助け船を出したそうです。


阿茶局にそう言われた家康は、怒りを鎮め、家次は、何とか事なきを得たとのことです。



こういったことは、ほんの些事に過ぎませんが、こんなことが自然かつ咄嗟にできて、しかも巧く場をおさめられるような人は、そんなに多くないかもしれません。

普段から心のトレーニングをしており、思いやりを耕し、なおかつ聡明でないと、咄嗟( 反射的 )に、こういうことは出来ない・・場もおさめられないでしょう。

( これとは反対で何らかの失態を犯し責められたりしたら、自我防衛のため咄嗟に他人に罪<非>をなすりつけ、濡れ衣を着せ、後で良心が傷み後悔し心が消極的になる因を作って、その後の心のリカバーに多くの労力と時間を要する方も多いです・・ )



人格に優れてただけでなく才知に長けていて聡明だった・・ということについては上記のエピソードからも彷彿されますが

その聡明さが歴史にまで影響を与えたエピソードとして
阿茶局が「 大阪冬の陣 」で、豊臣方との和議に際し徳川方から特使として派遣され政治的役割を果たしたこともよく知られています。


ただし、和議については、TVドラマで放映されてるような・・あんな和やかで生易しいものではなかったと言われてます。

 講和の談判の最中も、講和を有利に進めるために徳川方の戦闘は中止されず・・闘いの真っ最中で、

矢を射当てたとき、射手が大声をあげる矢叫びの声や
双方の剣戟( けんげき )の響きがキンキン響き渡って物凄い修羅場の真っただ中・・


しかも、イギリスから輸入した大砲( セーカー砲、カルバリン砲 有効射程距離1800m、最大射程距離6300m )の砲弾( 一個の重さ約8kg )が大阪城にバンバン撃ち込まれ、轟音が鳴り響く中を講和( 和議 )の為に往来し和議に臨んだと言われています。

そのため阿茶局は、鉄製の駕籠に乗って大阪城に行った・・
和議の為の談判中も駕籠の中から大声で会話したという逸話まであります。

( いくら鉄製の駕籠に乗って、その中にいても・・
一個の重さ約8kgの砲弾が秒速500mでやってきて、
もし万一運悪く阿茶局が乗ってる駕籠に、ドカーンと直撃したら・・その衝撃力は50tです。

いくら鉄製の駕籠でも、ただでは済まないでしょう。

それに・・あまりに頑丈にしたら、駕籠を運ぶ人も重くて運べないでしょう・・

ですので

鉄製の駕籠と言っても「 流れ弾や流れ矢を防ぐ程度 」の気休めだったのではないかと・・

 そういう背景からして「 家康公の為ならば・・お役に立つなら・・ 」という強い思いがあって、才知だけでなく腹が据わってないと交渉の場にすら立てないのではないでしょうか?
・・普通の女子(おなご)では無理ではないかと思われます。
こういう方を列女と言うんではないかと・・ )


「 大坂夏の陣 」では真田幸村が家康本陣を狙って
鋭く切り込んで、その覇気に気圧され、本陣の旗本隊が、逃げ腰になり
崩れかかって危機に陥った時、攻めてくる相手に決して背を見せず
家康の傍らにいて、矢面に立ち、体を張って家康を守ったのが
阿茶局( あちゃのつぼね )その人だったとも言われてますので・・

そういうことをされてる・・ということは「鏡の法則」( 与えたら、与えたものが与えられやすくなるという返報性の原理)から

命懸けで守ってもらえるくらいの愛を返されるくらいなのだから家康公は、この方を実に深く愛していた・・と言えるのではないでしょうか?



事実として家康は遺言で剃髪すらさせてません。特別扱いです。
( 他の側室は全員 家康死後、尼になったと聞いています )



そういう具合に篤く信頼され、よく尽くされ愛されてたし懇意にしてたがゆえに
心身のエネルギー状態もよく心の強さ、積極性が保たれ

節目・節目の危機で

苦しまぎれ・・とか・・周りに迎合し便乗で決断したりだとか

激情に駆られて決断するわけでもなく単なる思いつき・・気まぐれで決断するわけでもない

冷静かつ沈着に情勢判断を誤らず対処し大きな決断をくだし得て、
それがよい結果につながったのではないでしょうか?


なお

家康の場合も秀吉と同様で、信長みたいに最初っから天下統一を成すというようなビジョン( 大望 )があったわけでは決してなく、生き残るのも至難の業・・というようなところからスタートしお家( 松平家<徳川家> )および三河一門を存続・繁栄させようという強い願いから、ひとつひとつ試練や苦難を乗り越えていく過程で、貫禄を身につけ周りから押し上げられるようにして気がついたら天下人になっていた・・といった感じに見えます。
( 参考 秀吉公の出世講座 関ヶ原ブログ )

その点は秀吉と類似してますが、秀吉の場合は寧々を疎んじ意見を聴き入れなくなって淀殿に入れ込んでからは、いいものがブロックされ横暴さ、残酷さと思い上がりが酷くなって、温かみが消え心の消極性が強調されたせいか失策続きで晩年は精彩を欠いています。

秀吉バージョン


こういうふうに調査してみると・・やはり夫婦愛のエネルギーの交流( 言葉、態度、振る舞い )が自然にお互いの人格を創り、運気にも影響する

その一方で、これがおかしくなると陰陽の調和が崩れ心の積極性にも少なからず影響を与え運気も乱れる。



夫婦愛のエネルギーの交流が心の態度にも影響し円満な場合の仕事や生活にもたらす影響というのは
甚大なものがあるのかもしれない・・また、このよしあしが運気の盛衰に関係するかもしれない・・というのが、何となく視えてくるような気もしています。

 戦国時代の三英傑は、結構ばっちりと年数がハマって周期性があるように思えます。

 こういう分野もさらに研究が進んで、夫婦円満の新たな動機付けになるとよいですよね。

これらの記事が何らかの参考になれば幸いです。



navikan at 17:48|PermalinkComments(0)TrackBack(0)運の研究 

2016年10月19日

周りを高め繁栄させ幸せにした秀吉の正妻 寧々( 北の政所 )の信念に学ぶ 暗転と好転の理由

 

 今回も出来事と出来事の間( ま )・・エネルギーを高めて
運気を自然に上げ心を積極化させる福男、福女について考察してみます。




人間如何に生きたら葛藤なく命のいきおいが勢いよくなって日々幸福を感じて生きられるのか?とか・・
念願実現とか能力開発のテーマからは、やや離れるのですが、まあこういうのもいい・・と思い前回引き続き取りあげてみます。




さて


日本史のなかで福女を探索したら

これについては

豊臣秀吉の正妻の寧々( <北政所>別名<高台院> )が最もふさわしい・・

kitanomanodorokoro



このことについては異論は、ほぼないと思います。


 あまり歴史に詳しくない方でも、

この方の名前を幾度か聞いたことはあるのではないでしょうか。


現在放映中の大河ドラマ「 真田丸 」でも秀吉の正妻として、
あの鈴木京香さんが演じていたことは記憶に新しいと思います。



 寧々( 寧子 )のことはご存じなくても
 

豊臣秀吉( 藤吉郎 )は、知らない方はいないでしょう。

わたしの個人的( 信条的 )には、秀吉という方は・・うーーむ・・・という方なんですが、長所は学ぶことはできるし、あの塙保己一が尊敬していた方ということから取り上げてみます。

toyotomihideyoshi01


この方は「 日本史上で異様な出世をした天下人 」として知られてます。




 ですが



 この人の生い立ちを含めた史実を追っていくと、
秀吉は、寧々と結婚してお互いを高めあってなかったら、どうなってたか・・
かなり危ういと思ってます。





なお


 いろんな方々がいろんな視点から豊臣秀吉の奇蹟の栄達の理由をあれこれあげています。


所説を大きく分けると「 桁違いの心の強さ 」と「 対人関係の巧さ 」でして


 
 心の強さという点では



●初志貫徹・・どんなつまらなくみえることや人の嫌がることでも
心の積極性、心の強さを発揮し
  誠心誠意( 真心 )を尽くし、小さな目標でも手を抜かず何事も辛抱強くやり遂げ続けたから




 例を挙げるなら・・


 草履取りやらせたら草履取りの職務( 役割 )を理解しこの仕事がわが生涯の仕事・・と与えられた立場で四六時中目標遂行に頭脳を巡らし誠心誠意ベストを尽くして、身の丈に合ったところで頑張って實力をつける・・・

足軽やらせたら足軽の仕事( 役割 )を理解し、これがわが生涯の天職・・と思い与えられた立場でベストを尽くし、四六時中目標遂行に気を巡らし練り続け半端なことや、いい加減なことはしない・・
そうして誠意を尽くし十二分・・小さな目標を為す、そうして自身の實力を少しずつ養っていく

そうして、器と実力を少しずつ広げることで出世の階段を上がっていく

 侍大将をやらせたら、そこでもこれまでと同じように、これが我が一生の仕事・・と思い侍大将の立場と役割を自覚し四六時中小さな目標遂行に気を巡らし与えられた職分にベストを尽して、この立場で實力を培っていく

 大名やらせたら大名の職務( 役割 )を理解し与えられた立場で・・誠心誠意ベストを尽くして職分を果たし實力をつけていったということ





「 対人関係の巧さ 」という点では


 ●誰にも憎まれない、朗らかで誰からも好かれる・・人に、とても好かれる要素があったから



という2つです。( 少し私の言葉を加えてますが )



特に「 人に好かれる 」というのは
当たり前のようでいて、大事なこと・・と改めて共感してますが、




私も中学生の頃から

「 本質的なところの運命の修正は可能なのか?そのファクターは? 」

という素朴な問いとかがあって長年研究をしてることもありまして・・




 運を拓くには?ということについては、そこそこ年季が入ってますんで今回は異論を書いてみます。


 で


 結論から申しますと・・



多くの方々が秀吉という人物を研究して指摘なさってること・・

「 心の強さ、心の積極性、誠心誠意の真心 」(1)
「 人に好かれる 」(2)

(1)を貫くことが最も大事で、人に好かれるようにするのも大切なことと思ってますが


これだけじゃないと思ってるんです。








 史実を挙げながらインスピレーションの力も借りて、その理由をこれから論じていきますが・・


 先ず言えることは



  秀吉( 藤吉郎 )は、寧々に会って結婚する以前から
どんなつまらなそうな仕事も、これが我が天職とうち決めて・・誠心誠意・・
どんなきつくても心の積極性を発揮し精を出してた形跡があるんですよ。

 それに

・・人に好かれるように誠意を尽くしているふしもある

だのに挫折続きでして報われていない・・

 不遇続きと言いますか・・この方の身の上に起こる出来事が不幸で悲惨なんですよ。



これらは、wikiから引用して書いてるのが多いので、
今のところ確からしい史実とされてるものばかりです。


続きを読む

navikan at 05:07|PermalinkComments(0)TrackBack(0)運の研究 

2016年10月18日

山本権兵衛翁の習慣  

前回のブログ「 山本権兵衛翁に学ぶ ※不思議な運の強さ 」の記事で山本権兵衛翁の運の強さやその生涯・・さらに関わった人・・人脈を調べていったら

天風哲人ゆかりの方がどんどん出てくるのでサブテーマで少し調べてみました。







山本権兵衛翁の周辺の人脈を調べてみますと


先ず

この方のお兄さん( 吉蔵氏 )の子供さんが

山本英輔海軍大将でして天風先生の熱心なお弟子さんです。


先ほどあげた東郷平八郎翁・・
この方も、大正年間から天風先生に心酔していた方ですが


東郷翁と山本翁の実家は100mと離れてない隣人同士・・
山本翁のほうが4歳年下ですが若き頃からよきライバルで顔なじみです。

後年は、この方(東郷平八郎翁)を政争の道具みたいに扱われては困る・・
大事な方だ・・ということから、あえて、やや疎遠にしていたそうですが・・


さらには


 天風先生が、20億円以上の資金を元手に銀行の頭取をして悠々自適だったはずなのに

「 一切の社会的地位を捨てて

上野公園や日比谷公園で辻説法し始めて、湯上りのような爽快な気分に浸っていたとき

 当時の検事長の向井巌氏に見出され

向井氏から紹介され、その説法に聴き惚れて
「 この方は、大道で講演させておく人ではない 」
と思わず言ってしまったとされる原敬氏も熱心な心身統一法の実践者だったそうで・・
実は、この方も第一次山本内閣でNO2とも言える内大臣を務めており権兵衛翁と非常に縁が深い。


※ただし天風先生の場合は、講演する場所とか話す相手とかこだわりないし頓着なく・・

 上野公園とかで野外説法をしていた際は・・当時は知名度もなく聞く人も少ない・・

 たまたま道を歩いていて通りかかって興味本位に立ち止った御婆さん・・

 このたった一人の為にすら

 誠心誠意・・熱心に・・その老婆が、立ち去るまで説法をしてた。




それに、いくら資産家だったり相当に名を馳せてる方であろうとも天風先生にとっては、そんなの関心もない・・


 知名度が上がって非常に有名になって以降・・国家の要職にあるような相当に社会的地位の高い方を天風先生に紹介しても

 天風先生にとっては

「 その人が、どれくらい真理探究に燃えていて
心を尊く清く強くする自己修養・・自己統御に真剣・・熱心か? 」
という1点だけが・・どうやら最大の関心事だったみたいでして・・


 むしろ、そういう地位や財だけが誇りの自意識に凝り固まったような人の場合は・・
出直してきたほうがよいですよ・・というようなニュアンスで軽く諭され、あしらわれるケースが多かったのだとか。






それはさておき




山本翁との繋がりを調べていくと原敬氏のような総理経験者とかも講演を聞いてお弟子さんになってますが・・別にお弟子でないけれども


 斎藤実翁( 後の総理大臣 )とかも朝鮮総監時代に天風先生と知り合いになっていまして、実はこの方は山本権兵衛翁の腹心中の腹心の方で、翁が海軍大臣時代に藩閥にとらわれず抜擢した一人とされています。

斎藤実翁と天風先生


ですので、山本権兵衛翁も「 天風 」という名前くらいは知っていたのかもしれません。

 なぜなら自分の腹心中の腹心の部下である斎藤氏からも信頼され仲がよく

 志を同じくし相当に仲が良かったのに戦死した実の兄の子で甥っ子に当たる英輔氏

 さらには


 友人で志を同じくし苦楽を共にした顔なじみの東郷翁まで天風先生の講演をしげく聴講しているんですから・・当然、耳には入ってたのではないかと。





なので調べに調べまくりましたが



 山本権兵衛翁が天風先生の講義を受講した
という記録( 形跡 )や情報は一切ありませんでした。

面識はあったということだけは確認できています。
( 「 成功の実現 」の第6章に1回だけ、その名前が出てきますんで )








山本権兵衛翁を色々文献調査したら



山本権兵衛翁が、トキ( 登喜子 )さんと結婚した後のエピソードとして、

以下のことを普段心がけていたということが述べられていまして、




相当に自己統御力に卓越した方だったということがわかっています。



列挙してみます。


●お酒も煙草も一切やらない・・そういう欲を放棄し、大きなことの為に犠牲にする

 トキ( 登喜子 )さんと出会ってドイツ留学以降は、
どんちゃんさわぎの宴会があっても
お酒も飲まず、痴話話やおべっかも大嫌いで
午後9時には、「では失礼」・・とすたこらさっさと帰っていた。



一説では、山本翁の父の五百介氏がお酒が原因で病になったことから、
お酒は強いにもかかわらず、その害を痛感して、あえて飲まなかった・・・

もう一つの説は、西郷従道翁の説諭で、ふっつりやめた

他にもあって、前にも書きましたが・・ドイツ留学した際に、あるドイツ将官に
軍事において実習も大事だが学術は、もっと大事なので
断酒をして学問に精励することを忠告され、そういう欲を・・より大きな欲のために犠牲にした・・・
という逸話も残っています。

 煙草嫌いは、もともとだったのだとか。
 ( 小耳にはさんだ話では馬に乗るのも大嫌いだった )


なお

 この方は地位や名誉にあまり頓着がない方で、権力におもねることも・・どうやらあまり好きではなかったらしく


 山本翁が軍務局長時代には既に自宅から徒歩で職場( 霞が関の海軍省本部<当時> )に向かうのが日課になっていたそうなのですが・・

そのことを知っていた松方正義総理大臣( 当時 )が、山本権兵衛局長に用事を思い出したので


甥っ子さんを使いに出し


甥っ子さんは、朝早くから、当時の仕事先の海軍省の本部に向かって、てくてく歩いている山本翁を何とかつかまえて


「 私の叔父である松方総理が●×の用事があって呼んでいますので、ちょっと総理の自宅においでください!」

と要請しても

 山本翁は( 内容の軽重や緊急性を判断した上で )

 「 そのご用件でしたら職場で伺いますので、そこで改めて依頼してください・・
その旨総理にお伝えください 」と総理の直々のお使いできた甥っ子さんに言い・・


 別に特別扱いすることもせず・・構わず、職場に向かって、さっさかさっさか歩いて行った・・

 松方総理( 当時 )は、使いに出した甥っ子さんから、そういう、つれない返事をされ、簡単にあしらわれてしまった・・ということを聞いて苦笑いした・・という逸話も残っています。
 
 

●家も質素で客間が一つしかない( ←総理時代ですら、こんなありさまだったらしい )

 ふつうは、こういうふうに出世したら、たいていの人が大豪邸を建てたり酒池肉林に身を浸したりするもんですが・・こういうのにも頓着が無い・・遠く離れた生活・・

 この方は西郷隆盛翁に心酔しまくってた方なので、恐らく西郷遺訓なんかも読んでたはずで

「 命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり・・・」
ってのも心魂に刻んでたのか・・かなり近いことを心がけてたらしい雰囲気も、そこはかとなくあたりに漂ってます。

 そんな具合で始末に困る・・と申しますか・・権力におもねることも大嫌いで地位や名誉にも頓着なかったにもかかわらず・・
後に政治にも関心を持ち・・ここでも、ころころ転がるようにして出世してしまい、
晩年は総理大臣を務めることになったわけですが

総理大臣になってからも・・相応の堅固な生活は変わらず

自制の利かない生活から離れるという厳しい自己節制を己に課し

夜の晩さん会とかも翁が主催の場合は
翁の方針で午後9時以降は、しないことになってたらしく他の方が主催したものの場合で午後9時以降の晩さん会の場合は招待されても基本的に出席しない・・


宴会でもお酒を一滴も飲まず閉会したら、いそいそと帰宅する・・

 
業務も引き締まったものだったらしく業務処理が早い早い・・べらぼーに早かった。


パクパク片づけ、指示も的確

朝の散歩をすませると、午前9時きっかりに首相官邸に出て業務につく。

そして細大もらさず書類に目を通し、少しでも疑問があったら担当大臣を呼んで事細かに質問する。

大臣の方もいつ呼び出されるかわからないし、その質問が怖いくらい的を得すぎていて心臓に悪いくらい・・なので質問に答えられるように勉強もしておかなければならないので、うかうかしてられない・・

冷や冷やもので必死に勉強する・・

首相官邸が、これほど忙しい空間になったのは、官邸始まって以来
前代未聞とまで云われたのだとか。

だから、就任してたった4カ月で 行政組織の減量( 要するに人員整理 )、効率化と財政改革を行い放漫になった国の歳出予算を11%も削減することができたのでしょう。



 歳出予算11%削減というのがどれくらい凄いかと申しますと・・

平成の時代に当てはめたら・・例えば平成28年度の国の一般会計予算は
約96.7兆円ですんで、その11%といったら約10兆6千億円の放漫なところ・・だぶついたところの歳出を減らした・・という意味になります。

 基準に満たず、この人のゆえに人員整理された方はいるわけで、整理されてしまった方から見れば山本翁は裁き主なわけですけども国家(や国民)全体として考えてみたら山本翁は、すごい福男になるのかもしれません。


( 出典 シーメンス事件と山本権兵衛内閣 )



そういうのまで深堀していったらキリが無いので、おいといて・・

実際、山本翁のお陰で、藩閥関係なく取り立てられ相当に活躍できた方が多くいたみたいで

 山本翁のビジョンや人格的磁力に魅了されそれが伝染して翁にその能力を見出され開発せしめられた方の場合は・・多少仕事がきつくても構わない・・・・

 肉体的にはきつくても・・好きなこと・・得意なこと・・誇りを持てることを全力でやらせてもらえて
精神的にも充実し満たされ清々しい・・国の為に貢献させていただているという気高い感覚ももらえる・・
 そういう感じで嬉々として働く側近の方も引き寄せられるようにして集まってきて、それなりに周りにいたそうです・・
( 後に総理大臣になった斎藤実翁なんかがその代表例で、この方は、山本権兵衛翁に目をかけられ長州出身でも薩摩出身でもない・・岩手出身の方ですが全く藩閥に関係なく抜擢されています・・ )





まあ・・(文献を調べた範囲で)多数決でいったら・・

こんな方に仕え支える側近たちは、

別の意味で・・自分がそういう節制が出来ない・・いろんなしがらみを整理できない方の場合は、なんだか気が咎めて煙たくて、さぞ大変だった方も結構いたのかもしれませんけど。




  総じて、煙たく感じる方のほうが多かった・・とも聞いてます・・

 周りもある意味ではすごかったと思います。

 こういう人をトップに据え得る社会的な雰囲気があったというだけでもビックリ・・凄いことです。




とりあえず・・こういった・・修行中のお坊様みたいな山本翁の習慣が幸いして

翁が大臣のとき・・1907頃、渡英したところ、

当時のイギリスの海軍のトップにいたく気に入られ

( なぜなら、イギリスのフィッシャー海軍卿という
当時イギリス海軍の父と言われてた方も、お酒も飲まず煙草も吸わず謹厳・・

夜は9時くらいに「 では失礼 」と・・さっさと帰る習慣で、キングの命でもなければ決して出席しない・・それについていけない・・しがらみに絡みとられて、生活の整理が出来ず、しまりのない側近からは煙たがられていたらしく )

それが原因なのか・・よくわかりませんが

 二人で意気投合しまくって異例ともいえる長時間にわたる親密な懇談になり

イギリスとの同盟が深く堅固になったらしい・・というウソみたいな実話も残っています。




さらに


●身持ち堅固で浮いた話が一切ない


山本翁と登喜子さんが夫婦仲がよかったというのも間違いないようです。
この人( 山本翁 )関連の資料を読み漁りましたが

そのなかに子供さんらの証言も入っていて
「 夫婦で争いをしているのを見たことがなかった・・」
と口をそろえて証言しています。

●一汁一菜のつつましい食事・・

夜は比較的早く夜10時前には寝て朝は4時半に起き朝の散歩は毎日欠かさない

家では、家の掃除が日課( 総理大臣になっても退役しても変わらず )

 




こういった規律正しい生活を心がけていたようです。






こういうエピソードを知るにつけ・・・

 統御方法や念願実現のノウハウ・・運を開く実際法を研究してる私にとっては不都合・・と申しますか・・・
いろんな複雑な思いが錯綜するわけですが

山本翁は生涯の伴侶となった超福女の美しいトキさんに意外な形で出会い結婚し

モンツ艦長の薫陶を受けて順調に出世し海軍官房主事〜軍務局長〜海軍大臣〜総理大臣というキャリアを経る中で




世俗の誘惑の引力も強くかつ多くなって・・

ドロドロしたものにまみれ誘惑される空間や場面がさらに多くなって

転落の落とし穴も巧妙で多くなっていったと思うんですよ。





いくら美妻をいただいて誓ったからとて
つい気持ちが緩んで、何かの拍子にお酒に溺れたり誘惑に負け転落する方だって多い・・と思うのです。

ですが、そういう誘惑をはねのけて


以下のつつましい習慣

 ↓ ↓ ↓

●青年(30代くらい)の頃から、宴会でもお酒は飲まない・・煙草も一切やらない・・
夜9時以降の宴会は出ない・・

●浮いた話が一切なし・・よき家庭人

●一汁一菜のつつましい食事

相撲や芝居が多少好きで趣味は読書

早朝の散歩と掃除が日課





これを慎ましく貫いて、厳しく自己を訓練し、私心を超えて国の為に尽くし大きな進化向上を確実に果たしているのですから・・








それに天風先生の講演を万一聞いていたとしても・・

どんなに早くても晩年(60代後半以降)となります・・

なので、そういうノウハウを知らなくても、こういった慎ましい習慣を30代くらいから貫いていたことになるわけです。




人里離れたところで晴耕雨読的生活のできる方でも案外難しい

俗世のしがらみを断って修行するお坊さまでも案外難しく心が折れて挫折したり、戒めを破ってしまうこともある・・一般市民もしないような破廉恥なことをしてニュースになる・・そういうのは今も昔も変わらない・・現代でもありますよね。


それなのに・・これだけの国家の要職にあって、様々な誘惑の多い方が、先にあげたことを生活の中で誠実に貫いて、放漫になったり贅奢に陥ったりせず心の落ち着きを保って生活を律することがどれほど厳しく大変なことか・・・




それでいて、いざ仕事となると
押しても引いても動かない強靭な意志の強さ・・覇気
よいと思ったことはどこまでも貫く押しの強さ・・金剛のごとき信念


さらに


的確で誠意のこもった仕事ぶり
公平、公正な人事、適材適所の配置
( 閻魔帳と言われるくらい
部下の仕事ぶりや性格、日頃の素行・・付き合い・・
家族構成まで把握して、当人の本来の力が発揮されやすい適材配置に心を砕いた )

 周囲が震えあがる・・虎みたいな覇気を放つこともあったらしい
( この方の前に立つと、普段の状態でも燦々と輝く灼熱の太陽の前にある思いがした・・と回想してる方もいます )



かと思えば


強面ながら

ニコニコすることも多く
腹も出来ていて部下に大きく任せて成果を上げたら部下を褒め励まし持ち上げ


失敗したら後の責任は自分できっちり取る・・



 意志の力が煥発しビジョンを強く持ち信念が金剛石のように固まり

これだけの、よき習慣を統御し日課にし続け


積極的な生活態度を貫いて

私心を離れて国の為に誠心誠意尽くし続けたのですから

裏返せば、そういう習慣を保てたから、余計なことにうろちょろ心が分散せず
そういう爆発的パワーが生まれた・・





いろいろ考察するに・・


 激動の時代をたくましく生き抜くプロセスで

モンテ艦長・・西郷隆盛、従道翁等のよき師

特に良き妻で福女に変貌した登喜子さんの底抜けの感謝と恩と愛のエネルギーを滔々と捧げられ・・

自身も誠実な愛を注いでお互いに情愛を交換し合うことで自然にそういった覇気や英氣・・よき習慣を会得し福男になっていった・・




お互いがよき交流をすることで周りも巻き込まれてミックスアップしていったのかもしれない・・

心身統一道( 心身統一法 )を知らなくたって立派に運を切り拓いて

知って実践してる方以上に、心を統御し習慣統御してる事実があるわけで

いろんなルートがある・・と言えなくもないなと思った次第です。



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「 山本権兵衛翁の生き方に学ぶ  ※不思議な運の強さ 」

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navikan at 00:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)