ジーニアスQuest

 読んで頂いた方が、心の管理法や目標達成力を培うためのパワフルな方法
   継続力をつけるための習慣化のノウハウ
  や速読など能力開発等の記事をアップしています。  

運気の12年周期の盛衰( 男女愛のエネルギー以外で運気に影響を与えるファクター )

男女の愛のエネルギー以外で

聖者や恩師との密なる交流によるエネルギーが
心の積極性や運勢に影響を与える例としては



天風哲人の場合をケースにして深くリサーチしてみると・・
この方は少し複雑でして・・

捨て鉢になってた中村三郎( 天風哲人 )でしたが

縁あって頭山翁に拾われた16歳からの12年・・

頭山翁の福運の保護・・大きな守りを受けて
心も非常に強く積極的で28歳までは軍事探偵として活躍してます。

結婚( 奥さん )よりも
恩師の頭山翁のほうの影響を強く受けている感じです。

やはり頭山翁という方の影響圏が凄かったのだと思います。
この頭山翁という方も強烈でして

命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人・・
佳い意味で仕末に困った方で
中村三郎( 後の天風哲人 )は大きな影響をうけたようです。

ですが頭山翁と出会って12年後の28歳のときコザック騎兵に捕えられ
銃殺寸前の絶体絶命の境涯から奇跡的なかたちで
九死に一生を得てから、しばらくして当時不治の病とされた奔馬性結核に罹患しています。


事実として天風哲人( 中村三郎 )は30歳で、当時不治の病といわれた肺結核・・さらによくないことに奔馬性肺結核に罹患し、結核のなかでも、特に病の進行が早い、たちの悪い病にかかるという大きな試練に遭ってまして

そうして精神的にも、何かがぷつっと切れたようになっています・・


死ぬことをなんとも思わないような気持ちも強く心が強い豪の者だったのに・・

ほんとうにまあ・・あんなに強かった心が、
これほどまでに弱くなってしまうのか・・

というくらいに、びくびくおどおど・・
きなきなくよくよ心配性・・不安神経症候群に陥り

これほど惨めで哀れな心になったことを嘆き苦しむ。

さらには治る見込みのない病と闘い身悶えしてるうちに

さらに過敏になってキレやすく弱っていく心をなんとかしようと

高名な医者はもちろんキリスト教や仏教など有名な宗教家にも救いを求め・・

教えを請いますが・・「 祈れ 」という助言しかない・・といったようなあんばいでどうにもならない・・


理論も実践体系もなく絶望する・・



そういう辛く暗澹とした精神状態に陥いる・・という内的試練に陥っています。


これってまさに孟子の言うところの


「 天のまさに大任をこの人に降さんとするや、必ずその心志を苦しめ、その筋骨を労せしめ、
その体膚を餓えしめ、その身を空乏にし、おこなうこと、そのなさんとする所に払乱せしむ・・」

というような外的および内的試練に曝されたのじゃないかと思います。

これは、天(の氣)がある人に大任を授けようとするときは、必ず、その人の志や思い通りにはさせず、
理不尽なことが続き、トラブルも多発・・そうして精神や身心を苦しめ、その筋骨を疲れさせ、
窮乏の境遇におき、何をやってもうまくいかない、ひどい目に遭い
わざわざその人を我慢強くじっくり鍛えるものである

こういった試練があるのは、天がその人の精神を鍛え、忍耐力を強くし、
大任を担うに足る人物に大きく育てようとしている、 そんな証拠なのである 」
というようなニュアンスの言葉です。

まさに、三郎( 天風哲人 )は、これではなかったかと・・

前述したように・・戦国時代において結局勝利し、大任を果たしたのは、
天才肌の信長でも・・秀吉でもなかった・・最も辛抱強く我慢強かった家康です。

時代や国は違いますがH・フォードも、とても忍耐強く我慢強い・・
幾度挫折しても決して諦めず熱意で恐れを越えて
焦らず弛まず淡々とやり抜く性質の方だった・・ということから・・
孟子のこの言葉は、かなり信憑性を感じます。







それはさておき

そんなことが、その当時、わかろうはずもない・・

そんな余裕があろうはずもない中村三郎は、それで已む無く

 死ぬのも恐れなかったあんなに強かった心が・・なぜ?WHY?こうも弱くなるのか?

この弱く惨めになった心・・病から来るだるさ・・不快と苦痛・・
そして死に対する不安が止まらなくなった心を
なんとか立て直すメソッドを教えてくれる人を探そうと発心し


日本( の医学者・識者、宗教家 )に助けを求めても全然駄目・・

どーにもならなかったから・・ということで

病が一時小康状態になったのも手伝ってニューソート系の1冊の本を頼りに
単身アメリカに渡ることを計画します・・


これも命懸けでしょう。

あの当時は抗結核薬( 抗生物質 )もない・・いつ死んじゃうか分からないんですから。

明治時代から昭和20年代までの間・・日本において結核は、
「 国民病・亡国病 」とまで言われるほど猛威をふるった病でして、
最近ではJOYさんとかハリセンボンの(箕輪)はるかさんが罹患することで、近年結核が増え始めた・・ということで少し認知されるようになりましたが

明治から大正の結核が猛威をふるってた頃・・天風哲人とほぼ同時代に生きた方で、哲人より4歳年上

五千円札で有名なあの樋口一葉も同じ奔馬性肺結核に罹患し発病から、わずか半年後の24歳で若くして亡くなってます。

荒城の月などを作った哲人より3歳年下の滝廉太郎も一葉と同じく24歳・・

哲人より10歳年上の歌人・石川啄木も26歳で亡くなっています。

哲人より9歳年上の正岡子規は21歳で大喀血したことで病( 肺結核 )を自覚し、35歳で亡くなるまでの14年間辛い闘病生活を余儀なくされています・・子規の場合は奔馬性肺結核ではなく、進行が遅かったようですが、「 治療には栄養が大事 」ということで大食を続け、吐き、また食べ鎮痛剤を飲む日々を送り、ときには余りの苦痛に自殺すら考えることもあったのだとか。
( 要出典 )




こういった方々同様・・中村三郎( 天風哲人 )も肺結核に罹患している時は全身のだるさ、発熱、体重減少、息切れ、血の混じった痰(たん)などが出始め、喀血することで気持ちも萎える・・毎日が死というものと向かい合わせで、日々死を自覚し不安と苦痛と闘うことを余儀なくさせられています。


そういう闘病生活を送るなかで、中村三郎( 天風哲人 )は、坐して死を待つよりは・・という・・半ばやけっぱちの決意で

軍事スパイだった体験を生かし、

ニューソート系の哲学者に教えを請うために、病が小康状態になったのを、
よい機会ととらえて国の法律を犯して密航してアメリカに渡るわけです。



しかし、藁をもつかむ気持ちで渡った先( アメリカ )で、ニューソート系の本を執筆した当の本人である
青年哲学者に会って教えてもらおうと思っても「 糠に釘 」みたいな答えで全くどうにもならない

それでアメリカ( ニューソート )に見切りをつけて


死を強く自覚し見つめる日々を送りながらヨーロッパの学者・識者を尋ね回っても駄目

とどめになったのが

当時世界一の哲学者とされてたハンス・ドリュースの

「 もし人間が心を自らの思うままにできるんだったら、
そもそも哲学も宗教も この世には生まれてはいないよ。  

あんたが求めてることは、海の魚を森に求めてるのと同じことだ・・

 心というものは絶対に人間の自由にならないものなのだ。 」

という(とどめの)一言



この言葉で魂が抜けた夢遊病者のようになって
観念し、ここまで探しても駄目・・世界一の哲学者ですらも無理というんだから、無理すじなのだろう・・
なんて俺は馬鹿な旅に出たのか・・病や不運から心を離して、それに組み敷かれずに感じたり思ったりする心を尊く強くしようなんていう発心は所詮は無駄だったのだ・・

ああ・・馬鹿だった・・もう、どうせ死ぬなら故郷の日本に帰ってお墓に入ろうとして日本に向かうための船に乗ることになります。

( さんざんやり尽くし努力しても得られるものがなかった・・というのは、本当に真剣、深刻に求め、やってきた方であればあるほど、成せなかった・・得られなかった場合の喪失感や挫折感・・・絶望感・・涙も出ないくらいの寂莫感・・というのが迫ってくるというのは私も、ほんの少し経験したことがあるので・・痛烈な痛みに似た悲しみを越えてしまって最早血の気も通ってないような一個の物体みたいな状態に落ち込んだのだと思いますが )





そうしたところ乗った船がスエズ運河にさしかかった時

イタリアの砲艦が座礁して、運河が塞がって通れなくなる・・
( 当時は運河の通れる幅が狭かったらしいです )


それで一時避難的に、その船はアレキサンドリアの港に錨を降ろすことになり・・


その処置の間に幾ばくかの暇が出来たので

同じ船で仲良くなったフィリピン人の釜たきにピラミッド見物に誘われた・・

この時の中村三郎( 天風哲人 )の当時の心境は・・

「 結核で、どうせ俺はすぐ死ぬ・・
もう、どうせ死ぬなら日本で死のうと思って船に乗って日本に帰る途中
なんか変なことになった・・どうせ日本に帰って墓に入るのに、
ピラミッド( でっかいお墓 )なんかを見たってしょうがないだろう 」
というような実に自棄的で投げやりな気持ちだったらしいですが・・

なぜか妙に気が向いたので

( ←こういう気持ちが湧き出たのも聖者に引き合わせる天の意向だったのだろうと思います )

フィリピン人の釜たきに誘われるまま

エジプトのピラミッドを見に行くために立ち寄ったカイロのホテルで大喀血し、
へろへろ・・ぐったりした時に運命的にカリアッパ聖者に会っています。

( 命懸けの発心をして死との肉薄を強く自覚した日々を送って約5年後・・
奔馬性肺結核と診断されてたので、当時の医療事情では、いつ死んでもおかしくなかったと思いますが・・
元々ずば抜けた生命力もあったのでしょう。よく体ももってくれた・・運命も待っててくれたんでしょう  )

これが35歳くらいの時です。

そこから聖者のもとで直にヨーガの行を伝授され食事を正され、果物や野菜中心にしたり
雪解け水が流れる川で難行をしたり・・ヒマラヤの第三ピークの山のふもとのゴルケ村・・そこから歩いて6〜7kmのとこにあった巨大な滝つぼの傍で瞑想したり・・瞑想の帰り際に聖者とざっくばらんに話したりした末3年近くの行で急速に心の進化・変容を体験せしめられることで悟得し


心の強さ、尊さ、清さも取り戻され・・

自身の修行の自助努力にプラスして聖者の信念と癒しの力が加わることで

元気でぴんぴんした姿を自然に脳裏に描けるようにもなり・・

「 誰がなんと言おうと俺は治る!」という強い信念を抱くに至り・・免疫力も高まったお陰か
後遺症は残ったものの・・奔馬性肺結核も奇跡的に治ってしまう。


その後12年で大きく飛躍しています。


 その絶頂期が

35+12=47歳

つまり天風哲人が47〜48歳のときである
1924年あたりでしょうか?

このときの会員の顔ぶれを見たら実に錚々たるものです。






 ですが、その後12年を経て1936年以降くらいから天風哲人本人の心の強さ、高尚さは不動ですが

個人の運勢は衰えていきます。

恐らく当時の人々の強欲的なエゴ・・天の調和から外れた( 怖れや不安、利己的強欲性等の暗愚面 )が増大していった社会風潮というのもあったのでしょう。

哲人は、そういう風潮に逆行するようなことを

自らのインスピレーションと意志と信念を曲げずに孤軍奮闘で、
国賊と罵られようが戦争に反対したから運気が衰えたのだと思われます。

当時の世論の99%が狂ったように戦線拡大に向かっていた・・1920年代に成立した排日移民法なども戦争に向かうバックボーンにあったようですが・・新聞の論調なんかも政府や軍の強硬派に迎合し権力におもねる形で偏向報道が凄くなって、すべての新聞が戦争一色になっていったらしい・・



当時の報道姿勢やジャーナリズムを責めるのも実に簡単ですが・・それより、なぜ?どうして、狂ったように、こうなっていったのか?というのを研究する方が、ひょっとしたら後学の為になるのかもしれません・・・

 あの当時、良識と大局観・・冷静な国勢分析にも優れた骨のあるジャーナリストが全くいなかったとは到底思えないので・・






ちなみに・・あの当時、ある程度の影響力のある方で時の政府及び軍部に
反対の声を挙げれたのは、若槻 禮次元総理、米内光政元総理、
岡田啓介元総理、中野正剛翁、頭山満翁など、ほんの一握り・・
あまりにも少数だったと言われています。

山本権兵衛総理および原敬翁が内大臣の時に改正できた

「 軍部大臣現役武官制 」

これが、復活しちゃって軍部の力があまりに増して
力の均衡が崩れてしまったのも、やはり相当に痛かったのじゃないか・・

原敬翁が1920年代に暗殺されたのも実に痛かった・・
あの頃は、有能な政治家が凶刃にばたばた倒れていってる・・



新渡戸 稲造翁も一定の影響力はあって戦線拡大に反対なさってますが、
1933年日本が国際連盟を脱退した頃にお亡くなりになってます。


言論界における有識者とされる方とかも当時は率先して戦争に賛成する方々が多く、
宗教界も積極的に戦争を推し進めた宗派もあったり、
そういうのを好まない宗派についても、はっきり声を挙げて反対しなかった・・
( 雰囲気的に、もはや反対できない状況になっていったらしいです )

( 敗戦後は、なんでこんな馬鹿な戦争をしでかしたんだ・・
俺も・・実は私も、この戦争には反対だったのだ・・

そもそも、国力が違いすぎてただろう・・
という声が言論界にも出てきたし
宗教界を中心に驚くほど沢山あがったらしいですが・・
残念ながら後の祭りでした )




そんななかで、天風哲人は、強くインスピレートされたものと・・

ご自身が実際に30歳の頃にアメリカに行って、
その豊かさや強大な工業力・・ヤンキー魂とかも・・恐らく肌で知っていた・・というのも理由のひとつだと思われますが

孤軍奮闘で戦争反対の論陣を張り

非国民と言われようが・・
官憲に目を付けられ牢屋に入れられようが

軍部にわけのわからないいちゃもんをつけられて自宅を取り壊されようが、お構いなく

「 正義の戦争ではない!それに、このまま調子に乗って
戦線を拡大し続けてったら国が危うくなる・・下手したら国としてのかたち(体)がなくなる 」



と、開戦前・・そして開戦当初から、一貫して反対し

「 自ら反みて縮くんば、千万人と雖も、吾往かん 」

を地で行った・・と申しますか・・



哲人の意に反して日本が日米開戦にも踏み切って



奇襲攻撃で日本が真珠湾攻撃で戦果をあげて浮かれてる時も

 「 これで日本は火の海になってしまう・・」と慨嘆し嘆き悲しんだのだとか

さらには

弟子や知人が出征するときは「 生きて帰れ 」と励ましたとかいう逸話も残っています。



挙げていったらキリがなくなりますが

こんなふうに大東亜( 太平洋 )戦争に反対し続けたから、

心の強さや尊さは不動でも、個人としての運気は一時期衰えたのだと思われます。

( 要出典 )





私自身が、各論では、離れたところでアプローチを変えて実践研究しつつも

バックボーンについては未だに、現実の力を大事にする天風哲学や心身統一法のコンセプトを根幹に据えて研鑽材にしてるのは、こういったことも理由の一つになってるわけでして、

私自身も、先の戦争において、欧米が絶対の正義だとは微塵も思ってませんが・・
当時の日本の行為が正しいとも思ってはいません・・

当のアジアの側から見て当時の日本がどのように映って見えていたのかをとても端的に表現した史料もあります。

戦争と平和の倫理学


天風哲人は、大東亜戦争を正義の戦争ではないと反対し、開戦と同時に終戦のために力を尽くしていたということにも、当時の哲人のリアリズムとインスピレーション・・
リアリズム・・現実の力に根差して日本の国を守ろうとする愛
理念と信念の強さ・・・いずれも凡愚を抜きん出てまして非常に卓越してたと思うわけです。





こういうの書くと長くなるので・・先を急ぎますが・・





天風哲人は1936年から9年のそういう苦難と変節を経て


1936年+9年=1945年の敗戦の国家存亡の危機の際

戦争終結・・さらなる悲劇を食い止めた陰の立役者のおひとりとして
命懸けの決断と体を張って騒乱を鎮めることで、ひっそりと活躍後

 
1945+3年後の1947〜1948年くらいから

戦争中にB29に乗って作戦参加して不時着し捕虜にされたアメリカの飛行中尉が
半殺しの目にあうような窮地に瀕した際に天風哲人が機転を利かせて助けた奇縁※もあって

当時の日本に絶大な影響を誇っていたGHQに、記念講演を依頼される等して、また少し盛り返しています。


( ※戦時中、天風哲人が自宅を潰され疎開させられていた茨城県で、B29に搭乗して東京空襲の作戦に参加してたB29の搭乗員<アメリカの飛行中尉>が、疎開先の田んぼの脇に不時着し、それを見つけた農民たちに捕えられ、にっくきアメリカの敵を捕まえた・・と大騒ぎになっていた・・

 農民を中心に村の衆が大ぜい集まって、その中尉を寄ってたかって袋叩きにし、荒縄で縛り上げて・・それが周りにも伝わって・・ものすごい大騒ぎになってたらしいですが、すぐ近くにあるお寺や教会からも助けの手は差し伸べられない・・・人道的な観点から、助け得る人がいなかったので、天風哲人から助けられた飛行中尉は・・よっぽど感動( 感激 )したのでしょう。

 戦時中でもあったし、当時の雰囲気から、勢い( 弾み )で殺されても仕方のない状況だったのではないでしょうか?

 この飛行中尉は恐らく死を覚悟してたのかもしれません。



 なぜなら、助けられた、その中尉は戦後、従軍記者になってまでして志願して、日本に行って・・名前も知らされてない天風哲人を探しまくって、お礼をしようと行動したくらいなので・・

 あの当時の状況からすると、助けるのも命懸けで簡単ではないでしょう・・
 当時のような状況じゃなかったら、スッとやれる人もいるかもしれないけど・・


あの当時だったら、( 何も考えない無垢で無我の領域から )本心・良心を煥発させて、( 何も思惟を働かせず )こういう人道的なことやるのも相当難しいはず・・

 官憲が恐ろしくて・・・敵の捕虜を助けたら憲兵に目を付けられ、自分も難癖つけられて牢屋に入れられるかもしれない・・恐ろしい・・そんなリスクは負えない・・といった判断が働くでしょう・・理性心を働かせ思惟が働いたら・・そんな状況だったと言えるかと )





その後はロックフェラー三世から請われて何十億円ものお金を積まれようが決してアメリカに行かず

 疲弊し誇りや自信を失った日本人の魂の復興の為に力を尽くしたのは、このブログ読者の方でしたら
よくご存じのことと思います。


そういった個人の史実を俯瞰すると


心の置き方の積極化で氣の受け入れを豊富にし生命エネルギーの状態をよく保つ・・運勢や運命という点で

人との交流というのにフォーカスするなら

先ず先に挙げた5事例のうち4事例

特に( 信長、秀吉、家康 )については、「 嫁さんパワー 」は意外に侮れない・・と申しますか・・
個々の運勢にも大きく寄与してる気がします。


また12年の周期の前後3年くらいに人生の岐路になるような
大きな決断をくだすことがあり、
それがまた運気のリズムに影響を与えているような傾向を見てとることが出来ます。

 
なんらかの運気の盛衰の法則性があるように思えます。



なお

こういう分野では「 安岡陽明学 」とかが有名ですが

12年周期の運勢の盛衰というのは、
個人だけでみるのではなく、お相手( 配偶者 )や子供、父母等も考慮してトータルで運の勢いを見る・・
というのも´あり´かもしれないなと思った次第です。




ということで


やはり霊性の高い方と出会って謙虚な気持ちで交流するのが
一番生命のエネルギーの調和を促し、氣の受け入れが大きくなり、心に張りと活気をもたらし、その置きどころを尊く清く強くせしめる・・

それによって内在の発展的な気持ちを引き出し、強調するのに影響を与え
心の消極性( 妬み、恨み、憎しみ、臆病、傲慢性、横暴、色情、怠け癖 etc )
が発動しやすくなって芽吹いて・・一時的にはよくて快を味わっても結局は、大きな苦しみになり退廃化し不幸や滅する方向に向かうのを干渉させブロックし、それが強くなるのを抑える力が強い

その次が金もいらず命もいらず・・というような
強烈な師・・その次が信じてくれる配偶者( <夫婦愛>のエネルギー )・・
といったような感じの・・階層的力関係の法則があるのかもしれません。


周りを高め繁栄させ幸せにした秀吉の正妻 寧々( 北の政所 )の信念に学ぶ 暗転と好転の理由

 

 今回も出来事と出来事の間( ま )・・エネルギーを高めて
運気を自然に上げ心を積極化させる福男、福女について考察してみます。




人間如何に生きたら葛藤なく命のいきおいが勢いよくなって日々幸福を感じて生きられるのか?とか・・
念願実現とか能力開発のテーマからは、やや離れるのですが、まあこういうのもいい・・と思い前回引き続き取りあげてみます。




さて


日本史のなかで福女を探索したら

これについては

豊臣秀吉の正妻の寧々( <北政所>別名<高台院> )が最もふさわしい・・

kitanomanodorokoro



このことについては異論は、ほぼないと思います。


 あまり歴史に詳しくない方でも、

この方の名前を幾度か聞いたことはあるのではないでしょうか。


現在放映中の大河ドラマ「 真田丸 」でも秀吉の正妻として、
あの鈴木京香さんが演じていたことは記憶に新しいと思います。



 寧々( 寧子 )のことはご存じなくても
 

豊臣秀吉( 藤吉郎 )は、知らない方はいないでしょう。

わたしの個人的( 信条的 )には、秀吉という方は・・うーーむ・・・という方なんですが、長所は学ぶことはできるし、あの塙保己一が尊敬していた方ということから取り上げてみます。

toyotomihideyoshi01


この方は「 日本史上で異様な出世をした天下人 」として知られてます。




 ですが



 この人の生い立ちを含めた史実を追っていくと、
秀吉は、寧々と結婚してお互いを高めあってなかったら、どうなってたか・・
かなり危ういと思ってます。





なお


 いろんな方々がいろんな視点から豊臣秀吉の奇蹟の栄達の理由をあれこれあげています。


所説を大きく分けると「 桁違いの心の強さ 」と「 対人関係の巧さ 」でして


 
 心の強さという点では



●初志貫徹・・どんなつまらなくみえることや人の嫌がることでも
心の積極性、心の強さを発揮し
  誠心誠意( 真心 )を尽くし、小さな目標でも手を抜かず何事も辛抱強くやり遂げ続けたから




 例を挙げるなら・・


 草履取りやらせたら草履取りの職務( 役割 )を理解しこの仕事がわが生涯の仕事・・と与えられた立場で四六時中目標遂行に頭脳を巡らし誠心誠意ベストを尽くして、身の丈に合ったところで頑張って實力をつける・・・

足軽やらせたら足軽の仕事( 役割 )を理解し、これがわが生涯の天職・・と思い与えられた立場でベストを尽くし、四六時中目標遂行に気を巡らし練り続け半端なことや、いい加減なことはしない・・
そうして誠意を尽くし十二分・・小さな目標を為す、そうして自身の實力を少しずつ養っていく

そうして、器と実力を少しずつ広げることで出世の階段を上がっていく

 侍大将をやらせたら、そこでもこれまでと同じように、これが我が一生の仕事・・と思い侍大将の立場と役割を自覚し四六時中小さな目標遂行に気を巡らし与えられた職分にベストを尽して、この立場で實力を培っていく

 大名やらせたら大名の職務( 役割 )を理解し与えられた立場で・・誠心誠意ベストを尽くして職分を果たし實力をつけていったということ





「 対人関係の巧さ 」という点では


 ●誰にも憎まれない、朗らかで誰からも好かれる・・人に、とても好かれる要素があったから



という2つです。( 少し私の言葉を加えてますが )



特に「 人に好かれる 」というのは
当たり前のようでいて、大事なこと・・と改めて共感してますが、




私も中学生の頃から

「 本質的なところの運命の修正は可能なのか?そのファクターは? 」

という素朴な問いとかがあって長年研究をしてることもありまして・・




 運を拓くには?ということについては、そこそこ年季が入ってますんで今回は異論を書いてみます。


 で


 結論から申しますと・・



多くの方々が秀吉という人物を研究して指摘なさってること・・

「 心の強さ、心の積極性、誠心誠意の真心 」(1)
「 人に好かれる 」(2)

(1)を貫くことが最も大事で、人に好かれるようにするのも大切なことと思ってますが


これだけじゃないと思ってるんです。








 史実を挙げながらインスピレーションの力も借りて、その理由をこれから論じていきますが・・


 先ず言えることは



  秀吉( 藤吉郎 )は、寧々に会って結婚する以前から
どんなつまらなそうな仕事も、これが我が天職とうち決めて・・誠心誠意・・
どんなきつくても心の積極性を発揮し精を出してた形跡があるんですよ。

 それに

・・人に好かれるように誠意を尽くしているふしもある

だのに挫折続きでして報われていない・・


そういう不遇にも決して不貞腐れたり自棄にならない天来の楽天性や
心の強さというのが、確かに最も大事というのは、異論はない
です。

一般的に、心が折れるでしょう。

誠心誠意やっても、報われないということが続いたら・・








 とにかく誠心誠意を尽くしても不遇続きと言いますか・・この方の身の上に起こる出来事が不幸で悲惨なんですよ。




これらは、wikiから引用して書いてるのが多いので、
今のところ確からしい史実とされてるものばかりです。

ということで



秀吉のことについてほぼ定説で事実とされてるものを列挙してみますね。

★出自も武士とは言えない卑しい身分の出 氏素性がはっきりしない・・
名字があったかもわからない


★小柄だったせいか近所のガキ大将からも散々虐められていた

★秀吉の母親は再婚したのですが秀吉( 藤吉郎 )は、
養父( 竹阿弥 )と全くそりが合わず・・というか嫌われており、
暴力的な養父の不満鬱積のはけ口にされ、いつも苛立ちついでに折檻をされていた




 
 諸説の中で母親再婚説が有力で秀吉は、養父に、
いつもひどい仕打ちをされ虐待まがいのことをされていた・・


 なので嫌になって14歳くらいで家を飛び出た・・



 秀吉は、関白になったとき母親の「 なか<仲> 」の
叙任に際して従1位という異例ともいうべき
位を与えるために力を尽くしていて

 実際、この母親が亡くなったときに秀吉は気絶するほどショックを受けた・・というような逸話も残っています。


 それなのに父親の存在が希薄過ぎでして、
父親のことになると、口がむっつりと閉じてしまってるんです。
そういう文献があることから養父から圧迫を受け反抗と葛藤・・摩擦と軋轢の日々を送っていたらしいことが彷彿とされます。






さらには


★嫌になって14歳で家を飛び出してからは針売りの行商をしたが
全く上手くいかない・・食うや食わず・・
住まいも定まらない飢え死に寸前の放浪生活

★なんとか拾ってもらって最初に仕えた今川氏の家臣の家臣である
松下加兵衛には目をかけられ、雑役をする下働き( 小者 )として、
馬の飼料となる草を刈ったり雑用を黙々とこなした

 
★仕事ぶりが認められ17歳で小納戸役に抜擢され、
経費節減、さらには主人にできるだけ得をさせてあげれるよう
誠心誠意を尽くし主人の家の赤字を黒字にした

 ここで14歳くらいから3年近く仕え誠心誠意尽くす・・


 それなのに同輩から妬まれ疎んじられ虐められ屈辱を味わう

★松下家の奉公人の娘「おきく」と結婚しますが、あまりうまくいかない
 同輩にも虐められ松下屋敷を去らざるを得なくなる


稀代の人たらしとされる方ですから、面白くて愉快で飽きさせない・・
憎めない方だったはずで・・人懐っこい笑顔で妻の「おきく」にも接したはず・・

賑やかで笑いの絶えない愛のある家庭が作れたはずなのですが・・

うまくいかず夫婦仲も冷える




 仕事仲間からの虐めが次第にひどくなる・・
あの人たらしの名人の秀吉ですから、
当然、人の懐に、ひょいっと飛び込んで、うち融けようとしたはず・・


ですが関係を破壊させるパターンが作動し

 限界がきて、とうとう松下屋敷に居れなくなって、「おきく」とも離縁。

先に書いたように

 文献を調べると松下家の経費削減と松下家の得になることに取り組み、これが我が天職・・と思い全力を尽くして事に当たることで才覚を発揮し事実として赤字を黒字にするという涙ぐましい貢献も為さっている・・
 
ある見方をすれば、これだけよい奉公人はいない・・

それにも関わらず・・離縁・・さらには今川家( 松下屋敷 )を去らざるを得なくなる・・
 ※ただし長い目で見たら、ある意味運がよかった・・ということでしょう。人生何が幸いするか分からない・・・
 なぜなら、秀吉が今川家を去って数年後・・俗に言う「 桶狭間の戦い(1560) 」で前士官先の今川家は、織田信長によって滅ぼされてしまうのですから



 ただし

秀吉の立場、この方目線で、この時限局内で見たら・・

この時点では・・客観的に見ても、これだけ生い立ち上のマイナス要因が多いわけでして・・

それに仕事でも真心と誠意を尽くしても努力も実らない・・
報われない・・全く先も見えない

ここまで不遇だと不運を嘆いて
自身の生い立ちを呪って恨みと愚痴を溜めこんで・・
もう自棄になり、不貞腐れて
人生をあきらめて生きていくという選択肢も可能だったはずです。



自信も失ってたはず・・自分は無力で、容姿も劣っていて、誰からも好かれない・・と・・多少なりと感じてなかったはずもない・・・
 


  このあたりの秀吉の心理を司馬遼太郎さんの名筆
「 新書 太閤記 」による精神分析の篩(ふるい)にかけたら

 どんな辛い、苦しいことがあっても養父に虐待されてた・・あの頃よりもマシ・・
飢え死に寸前の放浪生活よりも天井があるだけマシ・・と思って、
自身をゼロにし前だけ向いてたからこそ何とか明るく愉快に日々を送れたのだろう・・

といった趣旨のことが書かれていました。

( 少し私の言葉を付け加えてますけど・・この方の生い立ちは、マイナス要因が多すぎて並の人間なら心が折れて・・自棄になる・・いじけて前を向く気力もなくしてる・・
フロイトの学説なんて、完全に棄却されてる・・この方の生涯を俯瞰すると・・・ )


 



そういう散々な不遇な目に会って松下屋敷( 今川家 )に居れなくなって出ていかざるをえなくなりましたが


★17〜18歳くらいから織田信長に再仕官するが、辛い職務の連続
 
 松下家で3年奉公した経験を生かして信長の小者、つまり雑役をする下働きとして働き始めてます。

 最初は馬飼い・・松下家で小納戸役を務めた経験や実績は
まったく認めてもらえず最初っからやり直しです。

 日によって日替わりメニューでやらされる仕事内容が違い、見通しが立てにくい・・上の意向で、あっちこっちにやらされ、振り回される・・単純作業の割に小さなミスも許されず責任も重い・・先も見えない


 自信も失ってたとは思いますが・・

 しかし・・それでも秀吉はめげない・・


 なお


 秀吉( 藤吉郎 )は、信長に認められ出会ったから
とんとん拍子に運が拓かれのだ・・という方も多いかもしれません。

 もちろん、そのとおりでして秀吉( 藤吉郎 )は、( 当時の時代の )格式や伝統・・家格を重んじるガチガチの今川家だったら、あれほど認められて世の中に出られなかったはずです。
 

そうは言っても

よくよく史実を追ってみると

寧々( 寧子 )と交際を深めて、数えで25歳で結婚する以前の6〜7年間は、拾ってもらったことに死ぬほど感謝し誰よりも早く起きて、どんなつまらなく思える仕事でも天職と思い精を出し貢献しても、大して報われてない・・


史実を調べると今川家( 松下家 )でも3年近くやっていたように

17〜18歳から織田家の小者として人の嫌がる難事を進んで引き受けて、
雑用仕事で、人が手を抜きそうな、つまらないこと、きついことも丁寧にやり遂げ実績をあげ実力を高め続ける

そうしてたら

★今川家のときと同じように頭一つ抜けて抜擢され台所奉行を任される。
経費削減に熱心に取り組んで経費をこれまでにかかっていた費用の
1/3にまで減らして、ここでも主君に得をさせたらしい。


 ここまで来るのに最初っから振り出しで地べたをはいつくばるような奉公して既に6年近くもかかっています。

それに寧々と結婚する前は、いろんな文献を読む限りでは仕事仲間とも、( 一部を除いて )うまくいってません。


ここでも、試練と申しますか・・誠心誠意を尽くしても、なかなか芽が出ない・・と申しますか・・・



 成功する人は他の人間を友とし、好かれ味方となし得るが、成功できない人は自分の周囲を敵や無関心者によって囲まれてしまう・・

もちろんご尤もなご教説ですが、こんなことは秀吉は肌で感じてたと思うんです。





 ですが


家を飛び出して14歳から25歳までの約12年間・・・心の強さや積極性を発揮し
与えられた職分を理解し立場をわきまえ、その立場で、これが天職・・一生の仕事と決め精一杯ベストを尽くし関わる人とも仲良くしようとしたはずですが報われず・・活かされず、浮かばれてないわけです。 それでも腐らずやけっぱちにならない・・というのが・・こりゃあ改めて凄いなと思います。
 


( 一般的には心が折れると言いますか )・・

 こういう史実を淡々と追ってみると、秀吉の心の強さや楽天性に驚かされますが・・とにかく、誠意をもって尽くしても報われないどころか下手すると仇になったりしてる・・それでも、不貞腐れたり自棄にならない・・ひねくれたりしない・・

秀吉は、そういう驚異的な心の強さというのを堅持してはいたけども・・とにかく報われてない・・(;^_^A



そんな状況だったのに



1561年に浅野長勝の養女で杉原定利の娘だった寧々( 寧子 )を娶る




一説には、当時秀吉( 藤吉郎 )よりも4年くらい先に仕官し、地位も高く、武勇に長けていて体格も立派・・容貌も見目麗しかったという記録が残っている前田利家( 犬千代 )からも惚れられて・・
結局寧々が選んだのが秀吉だった・・とも云われてますが・・

       ↑ ↑ ↑

この出来事以降から、何かがはじけたようにクラリと変わって、
心の積極性がパワーアップしたせいか・・ベースのところの運氣の流れが、だんだんとよくなっていくわけです。
       ↓ ↓ ↓


事実として

同じ心の構えで同じことをやってる秀吉( 藤吉郎 )の身の上に起こる出来事がガラリと変わってきます。
 

これもベースのところの運気が変わってきたせいなのでしょうか・・

新書 太閤記 ( 司馬遼太郎 )から引用してみます。
一応史実にも則っています。


( ここから )

 

 「 猿が寧々を貰ってほどなく、にわかに騎乗の士に取り立てられたのである。
  
  はじめて織田家の士籍に入ったことになる。 
士であれば戦場には馬に騎り、侍兜をかぶり、家来数人を従え、
末席ながらもお城の祝宴や評定( ひょうじょう )に出ることもでき、
給付も扶持米ではなく、禄であった。禄は33貫で、まず最下級の将校といっていい。

 「 寧々、奇妙なことよ。お前を貰うと、禄がついた。
なんとおまえは福女であるらしい 」といって、寧々をよろこばせた。


 ( ここまで )
  

このように、今でいうところの将校になっています。

秀吉(藤吉郎)が実際にこういう会話をしたかどうかはわかりませんが、
運が向いてきた兆しを感じたのではないでしょうか?





さて、これをご覧のあなたは、不思議に思いませんか?


子供の頃に養父から虐待まがいのことを常にされ、圧迫され、周りからも虐められ
もうほとほと嫌になって家を飛び出して針の行商で諸国を放浪するが
全くうまくいかず餓死寸前になる

 何とか今川家の家臣の家臣である松下氏に拾われ、
感謝感激して、そこで誠心誠意奉公してた時に・・
自分の才もよく知っていて
与えられた立場でベストを尽くして経費を減らすのにも貢献する・・涙ぐましいことやってる感があります。


 それに・・あの秀吉( 藤吉郎 )のことですから、短所も欠点も丸出しにして人の懐にひょいっと飛び込んで仲良くするのもうまく、仕事に精を出し身の丈に合ったことをしながら実力を養いつつ・・きっと同僚にも好かれようと心を砕いてきたはずなのです・・


 ですが、それもむなしく全くと言っていいほど報われず・・破壊的パターンが作動し、ぎくしゃくしがち

妻( おきく )ともうまくいかない・・離縁の憂き目に遭い、とうとう男ヤモメになってしまう


無力感にさいなまれ、容姿も劣っている・・
自分は、どうやら誰からも好かれないらしい・・と自己嫌悪に陥りかけたかもしれません。

( ちなみに、いわゆるたいこもちの・・権力におもねる´よいしょ文献´ではない・・比較的客観的な記述で有名なルイス・フロイスの「 日本史 」という文献から秀吉の容貌を述べた箇所を追いかけてみると

 「 身長が低く、醜悪な容貌の持ち主で、目が飛び出している 」と記してます。
( 一応、この記述は当時のキリスト教布教者の悪意フィルターは多少入ってるとは思いますが、

秀吉ご自身も「 皆が見るとおり自分は醜い顔をしていて五体も貧弱 」と述べたことがあるらしいので・・ )



さらには

少なからぬ実績をあげ、貢献したのにもかかわらず同輩から煙たがられ・・松下屋敷も追い出されてしまう




そういうなかで織田信長に何とか拾われ 


17〜18歳頃から織田家の小者として人の嫌がる難事を
進んで引き受けて、どんなつまらないこと、きついことも工夫をしながら精一杯やり遂げ実績をあげ続ける。


そうして

今川家のときと同じように頭一つ抜けて抜擢され
台所奉行を任され、その立場で経費削減に熱心に取り組んで
経費をこれまでにかかっていた費用の1/3にまで減らして、
ここでも主君に得をさせる。

 ここまで来るのに最初っから振り出しで
既に6年近くもかかっています・・
それに・・頭一つ抜けたことで仕事仲間と、またもやごたごたしてもいます。

なかなか芽が出ない・・先も見えない・・展望も開けない


なのに、なぜ、寧々と結婚して以降は、恐らく同じ心的態度で、同じようにやって、

( Before ) → ( After )ってくらい劇的に運が拓けてくるのでしょうか?

まあ秀吉も最初の頃は「 兆し 」しか感じられなかったとは思いますが・・

私が思うに、この寧々って方も福女で、精神的に自立していて勇気づけ上手・・寧々と他愛ない世間話したり、笑いあったりしてるうちに秀吉の心の強さが増し自信も生まれ、良いものが出るようになった・・
 
 自分でも気づいてない独自の才を見抜くのも上手になって、人の心を発奮させ生き生き働かせるのも上手くなっていったのかもしれない・・



 私としては、秀吉の栄達は、自身のもつ類まれな生命のバイタリティに付加して寧々との出会いとお互いの良いとこを認め合うことによる心の化学変化ってのが、相当に大きかったのではないか?という仮説を立ててみたいわけです。



・・あとは・・・あの当時の時代の要求・・民衆の望みに合致して、「 時の運 」にうまく乗れたから・・とみてます。

( いわゆる時の運ってあると思います。 時の運に乗れれば吉になるが、時の運に見放されて残念ながら凶になるものもいる )


なお・・結婚に関しては寧々のほうが秀吉に惚れて積極的だった・・と言う説もあります。

( なぜなら、寧々の実母の朝日殿は、秀吉が一度結婚に失敗してるとか・・その他諸々の理由で、この婚姻に猛反対していたという伝記が残ってる・・

 そういうことからして・・秀吉の挫折にめっぽう強い・・生命力が強大で、常に前を向く明るさ・・どんなに報われなくっても自棄にならない・・これを背景に・・寧々と付き合うことで、打ちのめされてきたものが少しずつ癒えて秀吉に微かな自信が出て心の強さがスケールアップしたことは想像に難くない・・ )
 

 私がインスピレーションの力を借りて寧々の心情分析をするなら


寧々は、秀吉の先妻のおきくとは違って、

秀吉を「 この人は素晴らしい 」「 この人となら面白い人生が歩める 」
と心底信じ切って、それとなく示していた・・

 秀吉を変えた( 覚醒させた )のは、もちろん心の強さ、積極性・・元々人の上に立つ器・・・桁違いのバイタリティというのは、絶対条件としてあったと思います。
 
 何といっても、小学校の社会科の教科書に載るくらいの方ですから・・
 


ですが・・決してそれだけでなく、寧々の´この明るいエネルギー´を否定せず、そのまま垂直に受け容れ自身でも努力した・・

 




 それからの秀吉の目覚ましい活躍、そして運のよさは、この記事をご覧のあなたも、よくご存知ですよね。

 

  史実を追っていくと



★誰もなしえなかった墨俣の一夜城での功績(1566頃)


さらには

★腹心中の腹心で名参謀である竹中半兵衛、川並衆の蜂須賀小六、前野長康らを懐の深さと人の懐に飛び込む天性の才と気づいてない才を関わった人に気づかせ心を鼓舞しわくわくさせる・・そうして一緒に仕事をするようになる・・

( 恐らくこういうのも寧々から無意識に学んだのでは?・・あとは自信もついたからでしょう )

 
ちなみに竹中半兵衛が秀吉の与力になるのは1570年初頭


これで、さらに運気がうなぎ登りに上がって強くなっていきます。




そうして


★金ヶ崎の退き口(1570)


このときは信長が信じていた浅井長政に裏切られて、信長軍は、大きな危機に陥ったのですが、この際に殿軍( しんがり )を申し出てる・・という命懸けの決断をして強運と才覚で切りぬけてもいます。

※名軍師 竹中半兵衛の知略と川並衆の蜂須賀小六の体を張った命懸けの支え、活躍もあったと聞いています。
 特に、このとき秀吉軍の最後尾を担当したのが蜂須賀小六であったのは有名な話です。



以後は省略しますが


その後も破竹の勢いは止まることを知らず・・

一生懸命やっても、なんだか浮かばれない挫折と屈辱続きの12年間を経て・・

寧々と結婚して運が拓かれる微かな兆しを感じて・・

それを育ててから12年後の1573年には、とうとう長浜城主( 12万石の大名 )になってるわけです。

12−12−12と語呂がいい・・





寧々と出会う前の12年間の不遇と屈辱・・葛藤・・挫折・・

寧々と出会った後の栄達・・この見事なまでの境遇の違いっぷり・・




そうして


本能寺の変( 1582 )後、主君を討った明智光秀軍の討伐を決断し、今や伝説となってる「 中国大返し 」で打ち破る

1573年に長浜城主になってから12年後の1585年には関白になって大阪城を建てている。

秀吉の場合も12年周期( 前後3年の判断・振る舞い・・・命懸けの決断 )で人生の重要な岐路・危機があって、その選択とのるかそるかの決断によって大きな運命の変遷をたどってる雰囲気があります。


その後も幾つかの戦を重ね、とうとう天下人( 太閤 )になってしまう。




秀吉は、最初っから天性のものがあって人間関係の達人で偉大だった・・みたいな説が流布してますが・・私はそうは思えんのです。

 実際、それなりに研究されてる史実では小さい頃虐待され虐められ25年近く地べたを這いつくばるような境遇・・・頭一つ出そうになっても杭で打たれて浮かばれなかったわけですから。
 最初っから人間関係の達人なら、松下屋敷をおん出されてないでしょう。
 嫁に愛想をつかされて男やもめにもなってない。

自信も喪失し無力感も感じてたはず・・容姿に対する根強いコンプレックスも無かったとはいえない。

( 再び、たいこもち記述の少ないルイス・フロイスの「 日本史 」という文献からひも解くと「 指が6本あった・・」という記述もある。 これについては、前田利家の「 国祖遺言 」にも同様の記述があるので・・あながち嘘とも言えない・・ )

そんなコンプレックスの塊の秀吉を治療し、反転のエネルギーにできたのは



寧々が、そんな秀吉( の容姿や過去を見ず )ただ今だけ見て
「 この人は素晴らしい 」「 この人となら面白い人生が歩める 」と強く信じ切ったから

秀吉は、挫折にめっぽう強い桁外れの心の強さを土壌にしつつ・・このenergyを、そのまま素直に受け容れ、お互い精進し高め、身の丈に合ったところで実力を培いつつ( お互いに )自分を越えていけたから

あとは、当時の停滞し荒廃した風潮を打破し、新しい風を入れたいとうっすら感じていた民衆の望みに敏感で、時代のニーズに合っていたから




寧々目線で見たら・・寧々が強く信念したとおり・・晩年(の寧々)は、相当にさびしかったはずですが大きく見たら秀吉とこんなダイナミックで痛快な・・( 普通では味わえない )人生を過ごせた・・ということではなかったかと・・

 いろんな古い伝統や因習的常識・・縛りをぶっ壊して、本当に生きて生きて生き抜いた方・・と言えるでしょう・・秀吉は・・
 








さて


寧々はどういう方だったのでしょうか?

次に歴史上こんな福女は珍しいと私は思ってる寧々( 高台院 )について
フォーカスしてみます。

以下の項目から福男・福女を探ってもよいのではないでしょうか?

自分のなかの福男・福女を目覚めさせるという手もありますね。


もちろん寧々以上の徳と慈悲のある名前すら出てこない福女だっていたはずで、たまたま寧々が権力と結び付たからピックアップしてるわけで・・歴史に埋もれてる方も多いとは思います・・

 ※心身統一法等を熱心にやって、潜在意識をクリーニングし自身の邪欲、邪念を綺麗にし、意志の力を活性化し日々生活を充実させて心の積極性を養ってる方は、基本、自身も福男・福女で周りも自然に高めてると思いますけど・・




先ず言えるのは



●問題解決能力が高く稀にみる人格者・・寛容でユーモアに長けている

ルイス・フロイスの日本史から寧々の人柄を述べた箇所を
追いかけてみると

 「 関白殿下の妻は異教徒であるが、大変な人格者で、
彼女に頼めば解決できないことはない 」と記してます。

 フロイスは、また寧々(高台院)のことを「王妃」
もしくは「女王」とも表現しています。

 この前後の文脈で「 ( 秀吉)は、300名の側室を抱えていた 」
という記録もありまして、寧々は14名の側室を含む
300名の女性たちを仕切る正妻として
皆から敬愛され敬われていたことが彷彿とされます。
 
このときには懐が大きく腹のすわった大らかな女性になってたことは間違いありません。

秀吉に対して喚き散らしたりヒステリックになったりはしていないはず・・
少なくとも公的立場においては・・

 もし、そんな醜態をさらしてたら・・キリスト教フィルターが入っていてキリスト教以外の異教徒は滅法厳しい人物評価をくだしがちなルイス・フロイスから「王妃」もしくは「女王」という評価をされてないでしょう。

なお寧々は秀吉の浮気癖にはほとほと手を焼いて
嫉妬してもいますが、嫉妬をうまく使ってる。

彼女は自身の心の消極性のひとつである「 嫉妬の情 」をどこか客観的に見てるふしがあって、
夫婦の・・ある意味、恥部と申しますか
恥を晒していまして、そういうのを、あけすけに信長に訴えてもいます。


そうして、信長から感状として以下のようなユーモアと
慈愛あふれる返事を貰ってます。

 あの信長に、ここまでの気遣いをさせる・・
という点で相当に魅力を磨いていた方だったことが彷彿とされます。



 ( 以下引用 )

「 この前久しぶりに会ったがあなたはいっそう美しさが増している。
藤吉郎(=秀吉)があなたに対し色々と不満を言っているようだが、
言語道断である。あの「ハゲネズミ(=秀吉)」が
あなたほど良き女を他に得られるはずはないのだから、
あなたも奥方らしく堂々として、嫉妬などしないように。
この書状は秀吉にも見せてやりなさい 」

( ここまで )

 人格者で精神的に自立していて素直・・嫉妬ですら、うまく使ってる・・

子供はいなかったのですが・・荒くれで、やんちゃな子供たちを養子に迎えて養育し、海千山千の人と付き合うなかで前頭葉と腹が練られ、少しずつ発達させて心の尊さや強さ、寛容さ・・おおらかさを養っていったのではないでしょうか?

 それに、あの信長から、このようなユーモアあふれる書状をもらうということは、
「 返報性の原理 」「 与えたら与えられる 」という鏡の法則から観ても、
寧々は普段から誰に対しても調和に満ちたユーモアのセンスを磨いてたことが彷彿とされます。


さらには

 寧々は秀吉の実母( 寧々にとって姑に当たる )である
仲<なか>( 後の大政所 )と仲がよく、
嫁姑は実の親子のように親密な関係にあった・・
仲<なか>の死去まで同じ屋根の下で暮らしていた・・と言われています。

 人それぞれの事情があるかもしれませんが、人格者でなく寛容さ( おおらかさ )もない・・ユーモアもなく
とげとげしくガミガミ口うるさい方でしたら・・姑と衝突するのは避けられないはずでして・・
決して、こうはならないでしょう。

 


二つ目として


●家臣、領民からの信頼も厚く賢い・・そして感謝されることをしていて徳がある

家臣からの信頼が厚いという点では、子供に恵まれなかったため
福島政則、加藤清正らをやんちゃな少年の頃から養育し育てていまして、
非常に慕われ感謝されていたと言われてます。
寧々の甥である小早川秀秋も育てていたし、黒田長政についても人質になったときに、寧々が、親切で、よく面倒をみたという逸話があったと記憶してます。


さらに、この方は、徳がある・・と申しますか・・

こんな逸話もあります。

 秀吉が初めて長浜で城持ち大名になって、この城下町を活気づけるために
“年貢の減免”や”諸役を免除”といった特令を発表したのですが

年貢や諸役を免除したため、農民や商人など様々な人が長浜に集まってきた。

 そのため、負担の多かった土地を捨てて、新天地を求めて長浜にやって来たため、
近隣のお米や農産物の生産が落ちて、そこの領主たちから
不満の声が上がった・・

そのことに慌てに慌てた秀吉は方針を転換し

「年貢の減免”や”諸役を免除の特典」これは、もうこれからは止めにする・・・という命を出します。


 
 これに困ったのが町民たちで、その困窮や必死の訴えを現場で直に聞き、ふびんに思った寧々は、秀吉に対し町民にかわって年貢減免や諸役免除の継続を熱心に求め、とうとう秀吉も折れて、夫( 秀吉 )の政治的決定を覆えさせてまして町民たちに深く感謝されています。
 ( 女性がこの戦国時代に政治に口を出せるということからして、かなり異例<異常>ではないかと・・ )

 この時代に、権力者である秀吉に、女性の身で、こんなことに口を出してたら・・正室であっても相当に身が危ういわけで・・やはり慈悲があり感謝もされていて徳がある。


3つ目として

●悩まない・・素直・・明るく陽気・・ニコニコ良く笑う

「 笑う門には福来る 」を地で行った方で
あれこれ文献調査した範囲では
内側からの演技ではない自然な笑顔を心がけていたふしがあります。


4つ目として

●コミュニケーション力が非常に高く贈り物上手

以前から、主君である信長には、つぼを押さえた
珍しい贈り物を贈ったりして喜ばれてますし、公家となってからも、
たびたび贈り物を御所に届けて感謝されていた・・
さり気ない気づかいを見せていたことが、
「御湯殿上日記」等から知られています。

贈り物を送る相手の方自身のことや、
その方が抱える問題、趣向や教養・・
そして、その相手が、どういうことに興味・関心を持ってるかをよく把握し、
日頃から関心を持ってたからこういうことが、さり気なく・・
かつタイミング良くできたのではないでしょうか?

寧々が、普段から、こういうことをして、夫である秀吉のことを自然な形でアピールしてなかったら・・
いくら秀吉が人蕩(たら)しの名人でも、信長の信頼を勝ち得てたか・・

また

秀吉は、朝廷( 公家 )との交流、交渉で異例の速さで官位が与えられていき
とうとう「 太閤 」という地位にまで昇り詰めることができたわけですが・・
これも寧々のこういった裏方仕事がなかったら、ここまで異例のことが成し遂げられたか?
実にあやしいものです。




さらに5つ目・・


これはインスピレーションですが・・

●寧々は、秀吉のことを「 素晴らしい 」「 この人となら面白い人生が歩める 」と信じ切ってた
強い信念があった。


寧々のお人柄や個性はこういうのだけではないと思いますし、一部に文献的根拠が希薄なインスピレーション的記述も含まれていますが、とにかく優れたパーソナリティであったことは確かなようです。









なお


小ネタ( 時事ネタ )ですが、大河ドラマ「 真田丸 」で出てくる徳川家康は
秀吉没後・・そして関ヶ原の戦い・・さらには大阪冬の陣、夏の陣後も
一貫して高台院( 寧々 )を敬い丁重に遇しています。


家康は、非常に観察力が優れていて福女を見極める力もあったし
福女の力が身に及ぼす影響も知っていたのではないでしょうか?



関ヶ原の戦いに勝ったのは、福島政則、加藤清正らが徳川方についた。

黒田長政の大きな働き・・


さらには

寧々の甥である小早川秀秋が寝返ったことが原因とされてます。


もし

家康が寧々をないがしろにしてたら、やんちゃ盛りの少年時代から寧々に育てられてた福島正則や加藤清正は味方につくはずもない・・寧々を心から慕ってたらしいので・・


黒田長政も若かりし頃、寧々に相当に良くしてもらってたので家康の味方についてたか・・実にあやしい??

まして小早川秀秋もどうなってたか・・


そうなると

関ヶ原の戦いもどうなってたでしょうか?
歴史が変わってた可能性すらあります。




ちなみに



 運命の岐路において、心の積極性が失われ判断力が鈍ってしまったらどうなるのか?どういうことを、その判断、決断の果として学び体験し味あわなきゃならなくなるか?というのも、よくよく秀吉の生涯をみていけば見えてくるものがありますんで、これもインスピレーションの力を借りて執筆してみます。


 

秀吉は長浜城主になって12年後の1585年に関白になってます。
大阪城(の天主閣)も完成させ得意の絶頂状態です。

ここら辺りが絶頂期で、次のステージの岐路( 人生の転換期 )だったのではないでしょうか?



この転換期ともいうべき時に秀吉は茶々( 後の淀殿 )に目を付け、茶々に入れ込みはじめてるふしがあります。


yododonosozai0173



 ※これについては正式な文献がありませんが、恐らく大運の流れからしても、この辺りの時期があやしいです。
  そういった資料が今後出てくるのではないでしょうか?


 そして、このとき秀吉の心内に浮かぶ着想( 連想 )と申しますか・・その構想や施策・・行動もおかしくなって、温かさが消え運命も暗転していきます。


秀吉が朝鮮出兵の計画を思いついたのは1585年くらいから

既に、その計画が秀吉の頭にあって芽生え始めていたという情報もあるくらいです。

http://history-land.com/bunroku-keicho/



なお

茶々は、庇護され命を救われたとはいえ秀吉に心底感謝してるとは思えんのです。


戦国時代で、あの当時は、そういうのは通例とはいえ

父親の浅井長政を秀吉(の戦功が特に大きく)・・彼によって殺されたも同然で自刃を余儀なくさせられる。
茶々の兄( 万福丸:当時9歳 )も秀吉軍に発見され捕えられ処刑されている。

さらには、お家騒動で茶々の母親のお市の方まで・・またもや秀吉によって死に追いやられてるんですから・・

あまりに哀し過ぎる・・深い憤りと絶望感、無力感・・怒りを無念の皮で縛って押し殺し圧封し深いところに押し込んだ背景を持った不憫な女性かと・・


悪女とは思えない・・見直されてもいいと思う・・

 

とりあえず文献を幾つも読み漁った感じでは

 淀殿は優しい面もあるものの繊細で「 激情型 」の女性・・それゆえに非常につきあいにくい方だったとも言われています。
( あとは秀頼ONLYで、近視眼的になってしまい、より広く民のことや全体をみる余裕がなかった )

秀吉は・・自分でも気づけない悪いところが出るのをブロックし、自分でも気づけない´いいもの´が出るのを促す・・福女で妻でもある寧々に深く尽くして、そのよいエネルギーを交換し合えなくなって

 慢心して増長していった故なのか・・心身のエネルギーの状態が低下し、ほどよい温かさ・・遊び心や大らかさも無くなり破壊的な悪いものが出る・・と申しますか・・冷静な判断力も鈍って他人を見下し冷酷かつ思い上がりが酷くなって、心の消極性が強調されていきます。

1588年に茶々を公式に側室にし、この女の人に入れ込み・・・秀頼が誕生したら・・さらに言動や素行が、あからさまにおかしくなっていく・・

繁栄させ、人々と調和させる´いいもの´・・心の積極性に対応するものは、ブロックされ、なりを潜め、自らを破滅させる悪い種子が心内で伸びて強調されていく・・・




そうして


あれほどの・・飛ぶ鳥落とす勢いだったのが運命に暗雲が垂れこんでいきます。



下積み時代の初心を忘れ、やることが残忍になり

あれだけ人とのつながりを大事にして人好きで、どこか温かみとユーモアがあって親しみを湧かせる


人の懐に飛び込み、人に好かれ、人を発奮させ、自分でも気づけない他人の才を拓かせる天才だったはずなのに


そういうのが弱ってブロックされ人間関係とかも壊す・・不適応でごまかしの自己破壊的なパターンが強く出始める

悪いものばっかりが出始め心の消極性が増幅される・・すなわち・・傍若無人で、いよいよ横暴になって人を見下し自分を高いところに置きたがる


天下統一前の秀吉は人が死ぬ事を嫌っていたと言われてるのですが惨い行動も増えていまして

ことごとく豊臣家が滅亡するような策や、おかしな言動ばっかりとって不興を買ってるし、敵を増やし崩壊をまねくことにつながることばかりやってるわけです。




例をあげれば


●聚楽第でお金を湯水のように使い、しこたま浪費・・(1587)

●相談役だった千利休に切腹を命じる(1591)

北政所( 寧々 )や大政所らの懸命な助命嘆願も全く聞き入れない・・
秀吉の言動を抑える力のあった秀長( 秀吉の弟 )がこの年・・そして、この事件の1ヵ月前に亡くなったのも豊臣政権にとって相当に痛かったですが・・


●完成した大阪城及び天主閣(1585年)を落とす攻略法を、この年くらいに、あろうことか家康に教える

 この当時家康は、秀吉に臣従をしてたので、家臣のような位置でしたが、得意の絶頂にいたせいか・・家康に、この城の攻略法をうっかり漏らしてしまった・・という話がまことしやかに伝わっています。

 まさか、この会話を参考にして、( 秀吉自身の知恵を借りて )難攻不落のはずの名城である大阪城が30年後に、大坂の陣(1614〜1615)で骨抜きにされつつ、たった1、2年で落ちるなんて・・・当の秀吉は想像もしてなかったでしょう。
 
( 難攻不落の大阪城の攻略法を教えたのは秀吉自身 )


●淀殿( 茶々 )との間の子であるとされる秀頼を後継ぎにするために・・関白まで位をあげた秀次(現役関白)を自害させる(1595)
  
※一説では、秀次の自害は秀吉の命ではない・・という説もありますが、北政所( 寧々 )らの懸命な助命嘆願も全く聞き入れず・・秀次だけでなく秀次に関係する妻子・・幼児、童女一家皆殺しが実際にあったらしいので、たとえそうであったとしても、ほとんど説得力がありません。

 しかも、殺されたのは秀次の縁者( 秀次の正室で右大臣 菊亭晴季の娘の「一の台」はじめ、その間に生まれた13歳の娘 )幼児、童女・・さらには織田時代から忠節を尽くして仕えてきた方の娘や最上義光をはじめとする大名家の娘も殺されたと言われてます。

( これには、周りも震撼したのだとか・・潜在的なところで敵を作り滅亡の因になってます )


●朝鮮出兵での失敗( 1592〜93 、1597〜98 )

( 膨大な戦費の支出・・権威の失墜・・武断派と文治派の対立が深くなる )

 もちろん世界史を俯瞰したら、英雄のこういった対外侵略はアレキサンダー大王、秦の始皇帝、ナポレオン等決して珍しいことではない。


 日本も朝鮮出兵から遡ること300年前の鎌倉時代にチンギス・ハンのモンゴル帝国統一後の勢力拡大の延長として・・その息子たちの時代に元兵を送られ北九州が戦場になったこともある・・・攻め込まれた方はたまったもんじゃないのですが世界史的に見たらそれが英雄の英雄たる所以・・という説がある。


 それに国内をほぼ平定したことで日本に戦が激減し仕事のなくなった武士(戦闘)集団の雇用( 失業対策 )という位置づけもあった・・これが世界史における国内を平定した英雄のその後の戦略の通例ともいわれている

 それは、そうかもしれんのですが、この政策決定が豊臣家滅亡を早めたことは間違いない・・
 
さらに、朝鮮出兵の際、小早川秀秋の失態を石田三成が讒言し秀吉の逆鱗に触れ領地が没収され、三成への恨みが増す
※この小早川秀秋が関ヶ原で西軍( 石田三成方 )を裏切り東軍( 徳川家康方 )に付くことで東軍の圧勝になるのはよくご存じのことと思います。



先に列挙したように、こういった失策は全て豊臣が滅亡する直接の原因になったものばかりです。

人生の大運の12年周期の流れの中の分岐点で

秀吉が淀君( 茶々 )に入れ込まず・・茶々を選ぶことを決断せず・・慢心せず



寧々を誠実に愛し、よく尽くして、たあいない自然な笑いと機知をふりまいて・・柔軟で創造的なコミュニケーションを楽しむ・・自身を謙らせて日々を慎む・・心の積極性を養う・・


 初心を忘れ自分を思いあがらせ傲慢にさせ、自分を何段も上に上げて人を見下して会話を硬直化させたりして心を消極化させず、


 よく長所を交換し合って生命エネルギーの状態をよくして既定路線を歩んでたら・・


 判断や決断を、こうまで誤ることもなかったのではないでしょうか?

 こういう選択をするのは、当時の状況や秀吉の好色傾向から見て・・あまりにも難しかったと思いますが

1585年から1588年の判断と決断・・その振る舞いによって、その後の12年間・・1598年に亡くなるまで秀吉が味わったことを史実で見たら一目瞭然でしょう。




ということで・・さらにも駄目おしで、もうひとつ小ネタを・・


寧々が福女で周りを高めた事実をもうひとつ別の側面である友人( 親友 )と言う面から語るなら

寧々と小さい頃から仲がよかった「 まつ 」( 芳春院 )

この方は、10代くらいの頃から、寧々と隣同士の縁もあって

よく垣根越しに世間話しをしたり・・味噌や醤油の貸し借りまであって滅茶苦茶仲がよかったと言われてます。

 越前府中城主時代には、子供のなかった秀吉(寧々)夫妻のために前田利家とまつの娘を養女に差し出して寧々から大感激されてもいます。



http://r-ijin.com/matu/



寧々と仲がよかったまつが嫁いだ前田家ですが


秀吉没後・・徳川家康が大きな力を持ち始め、前田家当主の利家も亡くなる


そうなると

 前田家は豊臣政権におけるNO2ですので真っ先に滅ぼされてもおかしくなかったわけですが

前田利家の妻であった「まつ( 芳春院 )」が徳川家に自ら人質になりに行き、

「 大局 」を見極め、一時の激情に流されたり思い上がったりせず、いち早く前田家が臣従する姿勢を見せたため、滅亡が回避されるどころか加賀100万石の基礎を作っています。


まつ( 芳春院 )もレジェンド級の福女でして・・悲惨な新婚生活送ってたのに・・まさに「 類は類を呼ぶ 」ということだと思いますが、秀吉没後も寧々( 高台院 )と仲がよく、老年になっても、ずっと仲良くしていた・・とされています。

そういうのを考え合わせると「 まつ 」自身の福運( 徳分 )とさらに大親友の寧々の福運( 徳分のおすそわけ )も加わってエネルギーが高かったがゆえに心の態度が積極化され「 人生の節目、岐路、危機 」における、その時々の判断を間違えず、優柔不断に陥らず、決断もよくして、御家取りつぶしの危機からも救われ・・安堵どころか加増までされ繁栄の礎を作った・・と見ることもできるのではないでしょうか?


ちなみに

読者の中には、

私が今回取り上げた 豊臣秀吉およびその妻の寧々にしろ
山本権兵衛翁にしろ、こういった方々は世の中が乱れた乱世型に運を切り拓いた方なので

今のような時代にはそぐわない・・と感じる方もいるかもしれません。


 
 それに、「 幸福の内容量 」という点で、こういった英雄が、どれくらい幸福を実感して生活出来てたか?ということ・・これは本人にしかわからない・・うかがいしることのできないことです。


 
 それは、そのとおりでして・・あんまり幸福を感じてなかった・・ということも考えられます。



 
 ですが秀吉は、あの階級制度に縛られて、古い価値観や伝統で縛られまくってた時代・・
独占的で閉鎖的な経済体制に風穴を開け

公平・公正な自由競争と実力主義とで新興勢力を次々誕生させ活気を呼び込み中央集権体制の礎を作った信長の政策を継承し日本全国の統治者になって新しい時代( 桃山時代、大坂時代 )を切り拓いたというのは、やはり凄いことと思います。


しかも、生まれながらに家臣がいた信長や家康とは違って、秀吉は農民出身とされてまして、彼を支えてくれる家臣団など、生れた時には、だれ一人いなかったところから天下人になったのですから。



そういう意味では、



小さなことにくよくよせず


その心の強さを発揮し生命を完全燃焼させて当時の社会常識をぶち破って

よく生きて生き抜いた方・・大きく生きた方・・という意味で、過度に小さなことに拘り過ぎの現代の私たちに大きな光明を点じてくれるのではないでしょうか?

山本権兵衛翁の習慣  

前回のブログ「 山本権兵衛翁に学ぶ ※不思議な運の強さ 」の記事で山本権兵衛翁の運の強さやその生涯・・さらに関わった人・・人脈を調べていったら

天風哲人ゆかりの方がどんどん出てくるのでサブテーマで少し調べてみました。







山本権兵衛翁の周辺の人脈を調べてみますと


先ず

この方のお兄さん( 吉蔵氏 )の子供さんが

山本英輔海軍大将でして天風先生の熱心なお弟子さんです。


先ほどあげた東郷平八郎翁・・
この方も、大正年間から天風先生に心酔していた方ですが


東郷翁と山本翁の実家は100mと離れてない隣人同士・・
山本翁のほうが4歳年下ですが若き頃からよきライバルで顔なじみです。

後年は、この方(東郷平八郎翁)を政争の道具みたいに扱われては困る・・
大事な方だ・・ということから、あえて、やや疎遠にしていたそうですが・・


さらには


 天風先生が、20億円以上の資金を元手に銀行の頭取をして悠々自適だったはずなのに

「 一切の社会的地位を捨てて

上野公園や日比谷公園で辻説法し始めて、湯上りのような爽快な気分に浸っていたとき

 当時の検事長の向井巌氏に見出され

向井氏から紹介され、その説法に聴き惚れて
「 この方は、大道で講演させておく人ではない 」
と思わず言ってしまったとされる原敬氏も熱心な心身統一法の実践者だったそうで・・
実は、この方も第一次山本内閣でNO2とも言える内大臣を務めており権兵衛翁と非常に縁が深い。


※ただし天風先生の場合は、講演する場所とか話す相手とかこだわりないし頓着なく・・

 上野公園とかで野外説法をしていた際は・・当時は知名度もなく聞く人も少ない・・

 たまたま道を歩いていて通りかかって興味本位に立ち止った御婆さん・・

 このたった一人の為にすら

 誠心誠意・・熱心に・・その老婆が、立ち去るまで説法をしてた。




それに、いくら資産家だったり相当に名を馳せてる方であろうとも天風先生にとっては、そんなの関心もない・・


 知名度が上がって非常に有名になって以降・・国家の要職にあるような相当に社会的地位の高い方を天風先生に紹介しても

 天風先生にとっては

「 その人が、どれくらい真理探究に燃えていて
心を尊く清く強くする自己修養・・自己統御に真剣・・熱心か? 」
という1点だけが・・どうやら最大の関心事だったみたいでして・・


 むしろ、そういう地位や財だけが誇りの自意識に凝り固まったような人の場合は・・
出直してきたほうがよいですよ・・というようなニュアンスで軽く諭され、あしらわれるケースが多かったのだとか。






それはさておき




山本翁との繋がりを調べていくと原敬氏のような総理経験者とかも講演を聞いてお弟子さんになってますが・・別にお弟子でないけれども


 斎藤実翁( 後の総理大臣 )とかも朝鮮総監時代に天風先生と知り合いになっていまして、実はこの方は山本権兵衛翁の腹心中の腹心の方で、翁が海軍大臣時代に藩閥にとらわれず抜擢した一人とされています。

斎藤実翁と天風先生


ですので、山本権兵衛翁も「 天風 」という名前くらいは知っていたのかもしれません。

 なぜなら自分の腹心中の腹心の部下である斎藤氏からも信頼され仲がよく

 志を同じくし相当に仲が良かったのに戦死した実の兄の子で甥っ子に当たる英輔氏

 さらには


 友人で志を同じくし苦楽を共にした顔なじみの東郷翁まで天風先生の講演をしげく聴講しているんですから・・当然、耳には入ってたのではないかと。





なので調べに調べまくりましたが



 山本権兵衛翁が天風先生の講義を受講した
という記録( 形跡 )や情報は一切ありませんでした。

面識はあって山本翁は天風哲人を信頼してたらしいことだけは確認できています。
( 「 成功の実現 」の第6章に1回だけ、その名前が出てきて、山本翁が天風先生を紹介してるエピソードもありますんで・・信頼してなきゃ紹介しないでしょう・・ )








山本権兵衛翁を色々文献調査したら



山本権兵衛翁が、トキ( 登喜子 )さんと結婚した後のエピソードとして、

以下のことを普段心がけていたということが述べられていまして、




相当に自己統御力に卓越した方だったということがわかっています。



列挙してみます。


●お酒も煙草も一切やらない・・そういう欲を放棄し、大きなことの為に犠牲にする

 トキ( 登喜子 )さんと出会ってドイツ留学以降は、
どんちゃんさわぎの宴会があっても
お酒も飲まず、痴話話やおべっかも大嫌いで
午後9時には、「では失礼」・・とすたこらさっさと帰っていた。



一説では、山本翁の父の五百介氏がお酒が原因で病になったことから、
お酒は強いにもかかわらず、その害を痛感して、あえて飲まなかった・・・

もう一つの説は、西郷従道翁の説諭で、ふっつりやめた

他にもあって、前にも書きましたが・・ドイツ留学した際に、あるドイツ将官に
軍事において実習も大事だが学術は、もっと大事なので
断酒をして学問に精励することを忠告され、そういう欲を・・より大きな欲のために犠牲にした・・・
という逸話も残っています。

 煙草嫌いは、もともとだったのだとか。
 ( 小耳にはさんだ話では馬に乗るのも大嫌いだった )


なお

 この方は地位や名誉にあまり頓着がない方で、権力におもねることも・・どうやらあまり好きではなかったらしく


 山本翁が軍務局長時代には既に自宅から徒歩で職場( 霞が関の海軍省本部<当時> )に向かうのが日課になっていたそうなのですが・・

そのことを知っていた松方正義総理大臣( 当時 )が、山本権兵衛局長に用事を思い出したので


甥っ子さんを使いに出し


甥っ子さんは、朝早くから、当時の仕事先の海軍省の本部に向かって、てくてく歩いている山本翁を何とかつかまえて


「 私の叔父である松方総理が●×の用事があって呼んでいますので、ちょっと総理の自宅においでください!」

と要請しても

 山本翁は( 内容の軽重や緊急性を判断した上で )

 「 そのご用件でしたら職場で伺いますので、そこで改めて依頼してください・・
その旨総理にお伝えください 」と総理の直々のお使いできた甥っ子さんに言い・・


 別に特別扱いすることもせず・・構わず、職場に向かって、さっさかさっさか歩いて行った・・

 松方総理( 当時 )は、使いに出した甥っ子さんから、そういう、つれない返事をされ、簡単にあしらわれてしまった・・ということを聞いて苦笑いした・・という逸話も残っています。
 
 

●家も質素で客間が一つしかない( ←総理時代ですら、こんなありさまだったらしい )

 ふつうは、こういうふうに出世したら、たいていの人が大豪邸を建てたり酒池肉林に身を浸したりするもんですが・・こういうのにも頓着が無い・・遠く離れた生活・・

 この方は西郷隆盛翁に心酔しまくってた方なので、恐らく西郷遺訓なんかも読んでたはずで

「 命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり・・・」
ってのも心魂に刻んでたのか・・かなり近いことを心がけてたらしい雰囲気も、そこはかとなくあたりに漂ってます。

 そんな具合で始末に困る・・と申しますか・・権力におもねることも大嫌いで地位や名誉にも頓着なかったにもかかわらず・・
後に政治にも関心を持ち・・ここでも、ころころ転がるようにして出世してしまい、
晩年は総理大臣を務めることになったわけですが

総理大臣になってからも・・相応の堅固な生活は変わらず

自制の利かない生活から離れるという厳しい自己節制を己に課し

夜の晩さん会とかも翁が主催の場合は
翁の方針で午後9時以降は、しないことになってたらしく他の方が主催したものの場合で午後9時以降の晩さん会の場合は招待されても基本的に出席しない・・


宴会でもお酒を一滴も飲まず閉会したら、いそいそと帰宅する・・

 
業務も引き締まったものだったらしく業務処理が早い早い・・べらぼーに早かった。


パクパク片づけ、指示も的確

朝の散歩をすませると、午前9時きっかりに首相官邸に出て業務につく。

そして細大もらさず書類に目を通し、少しでも疑問があったら担当大臣を呼んで事細かに質問する。

大臣の方もいつ呼び出されるかわからないし、その質問が怖いくらい的を得すぎていて心臓に悪いくらい・・なので質問に答えられるように勉強もしておかなければならないので、うかうかしてられない・・

冷や冷やもので必死に勉強する・・

首相官邸が、これほど忙しい空間になったのは、官邸始まって以来
前代未聞とまで云われたのだとか。

だから、就任してたった4カ月で 行政組織の減量( 要するに人員整理 )、効率化と財政改革を行い放漫になった国の歳出予算を11%も削減することができたのでしょう。



 歳出予算11%削減というのがどれくらい凄いかと申しますと・・

平成の時代に当てはめたら・・例えば平成28年度の国の一般会計予算は
約96.7兆円ですんで、その11%といったら約10兆6千億円の放漫なところ・・だぶついたところの歳出を減らした・・という意味になります。

 基準に満たず、この人のゆえに人員整理された方はいるわけで、整理されてしまった方から見れば山本翁は裁き主なわけですけども国家(や国民)全体として考えてみたら山本翁は、すごい福男になるのかもしれません。


( 出典 シーメンス事件と山本権兵衛内閣 )



そういうのまで深堀していったらキリが無いので、おいといて・・

実際、山本翁のお陰で、藩閥関係なく取り立てられ相当に活躍できた方が多くいたみたいで

 山本翁のビジョンや人格的磁力に魅了されそれが伝染して翁にその能力を見出され開発せしめられた方の場合は・・多少仕事がきつくても構わない・・・・

 肉体的にはきつくても・・好きなこと・・得意なこと・・誇りを持てることを全力でやらせてもらえて
精神的にも充実し満たされ清々しい・・国の為に貢献させていただているという気高い感覚ももらえる・・
 そういう感じで嬉々として働く側近の方も引き寄せられるようにして集まってきて、それなりに周りにいたそうです・・
( 後に総理大臣になった斎藤実翁なんかがその代表例で、この方は、山本権兵衛翁に目をかけられ長州出身でも薩摩出身でもない・・岩手出身の方ですが全く藩閥に関係なく抜擢されています・・ )





まあ・・(文献を調べた範囲で)多数決でいったら・・

こんな方に仕え支える側近たちは、

別の意味で・・自分がそういう節制が出来ない・・いろんなしがらみを整理できない方の場合は、なんだか気が咎めて煙たくて、さぞ大変だった方も結構いたのかもしれませんけど。




  総じて、煙たく感じる方のほうが多かった・・とも聞いてます・・

 周りもある意味ではすごかったと思います。

 こういう人をトップに据え得る社会的な雰囲気があったというだけでもビックリ・・凄いことです。




とりあえず・・こういった・・修行中のお坊様みたいな山本翁の習慣が幸いして

翁が大臣のとき・・1907頃、渡英したところ、

当時のイギリスの海軍のトップにいたく気に入られ

( なぜなら、イギリスのフィッシャー海軍卿という
当時イギリス海軍の父と言われてた方も、お酒も飲まず煙草も吸わず謹厳・・

夜は9時くらいに「 では失礼 」と・・さっさと帰る習慣で、キングの命でもなければ決して出席しない・・それについていけない・・しがらみに絡みとられて、生活の整理が出来ず、しまりのない側近からは煙たがられていたらしく )

それが原因なのか・・よくわかりませんが

 二人で意気投合しまくって異例ともいえる長時間にわたる親密な懇談になり

イギリスとの同盟が深く堅固になったらしい・・というウソみたいな実話も残っています。




さらに


●身持ち堅固で浮いた話が一切ない


山本翁と登喜子さんが夫婦仲がよかったというのも間違いないようです。
この人( 山本翁 )関連の資料を読み漁りましたが

そのなかに子供さんらの証言も入っていて
「 夫婦で争いをしているのを見たことがなかった・・」
と口をそろえて証言しています。

●一汁一菜のつつましい食事・・

夜は比較的早く夜10時前には寝て朝は4時半に起き朝の散歩は毎日欠かさない

家では、家の掃除が日課( 総理大臣になっても退役しても変わらず )

 




こういった規律正しい生活を心がけていたようです。






こういうエピソードを知るにつけ・・・

 統御方法や念願実現のノウハウ・・運を開く実際法を研究してる私にとっては不都合・・と申しますか・・・
いろんな複雑な思いが錯綜するわけですが

山本翁は生涯の伴侶となった超福女の美しいトキさんに意外な形で出会い結婚し

モンツ艦長の薫陶を受けて順調に出世し海軍官房主事〜軍務局長〜海軍大臣〜総理大臣というキャリアを経る中で




世俗の誘惑の引力も強くかつ多くなって・・

ドロドロしたものにまみれ誘惑される空間や場面がさらに多くなって

転落の落とし穴も巧妙で多くなっていったと思うんですよ。





いくら美妻をいただいて誓ったからとて
つい気持ちが緩んで、何かの拍子にお酒に溺れたり誘惑に負け転落する方だって多い・・と思うのです。

ですが、そういう誘惑をはねのけて


以下のつつましい習慣

 ↓ ↓ ↓

●青年(30代くらい)の頃から、宴会でもお酒は飲まない・・煙草も一切やらない・・
夜9時以降の宴会は出ない・・

●浮いた話が一切なし・・よき家庭人

●一汁一菜のつつましい食事

相撲や芝居が多少好きで趣味は読書

早朝の散歩と掃除が日課





これを慎ましく貫いて、厳しく自己を訓練し、私心を超えて国の為に尽くし大きな進化向上を確実に果たしているのですから・・








それに天風先生の講演を万一聞いていたとしても・・

どんなに早くても晩年(60代後半以降)となります・・

なので、そういうノウハウを知らなくても、こういった慎ましい習慣を30代くらいから貫いていたことになるわけです。




人里離れたところで晴耕雨読的生活のできる方でも案外難しい

俗世のしがらみを断って修行するお坊さまでも案外難しく心が折れて挫折したり、戒めを破ってしまうこともある・・一般市民もしないような破廉恥なことをしてニュースになる・・そういうのは今も昔も変わらない・・現代でもありますよね。


それなのに・・これだけの国家の要職にあって、様々な誘惑の多い方が、先にあげたことを生活の中で誠実に貫いて、放漫になったり贅奢に陥ったりせず心の落ち着きを保って生活を律することがどれほど厳しく大変なことか・・・




それでいて、いざ仕事となると
押しても引いても動かない強靭な意志の強さ・・覇気
よいと思ったことはどこまでも貫く押しの強さ・・金剛のごとき信念


さらに


的確で誠意のこもった仕事ぶり
公平、公正な人事、適材適所の配置
( 閻魔帳と言われるくらい
部下の仕事ぶりや性格、日頃の素行・・付き合い・・
家族構成まで把握して、当人の本来の力が発揮されやすい適材配置に心を砕いた )

 周囲が震えあがる・・虎みたいな覇気を放つこともあったらしい
( この方の前に立つと、普段の状態でも燦々と輝く灼熱の太陽の前にある思いがした・・と回想してる方もいます )



かと思えば


強面ながら

ニコニコすることも多く
腹も出来ていて部下に大きく任せて成果を上げたら部下を褒め励まし持ち上げ


失敗したら後の責任は自分できっちり取る・・



 意志の力が煥発しビジョンを強く持ち信念が金剛石のように固まり

これだけの、よき習慣を統御し日課にし続け


積極的な生活態度を貫いて

私心を離れて国の為に誠心誠意尽くし続けたのですから

裏返せば、そういう習慣を保てたから、余計なことにうろちょろ心が分散せず
そういう爆発的パワーが生まれた・・





いろいろ考察するに・・


 激動の時代をたくましく生き抜くプロセスで

モンテ艦長・・西郷隆盛、従道翁等のよき師

特に良き妻で福女に変貌した登喜子さんの底抜けの感謝と恩と愛のエネルギーを滔々と捧げられ・・

自身も誠実な愛を注いでお互いに情愛を交換し合うことで自然にそういった覇気や英氣・・よき習慣を会得し福男になっていった・・




お互いがよき交流をすることで周りも巻き込まれてミックスアップしていったのかもしれない・・

心身統一道( 心身統一法 )を知らなくたって立派に運を切り拓いて

知って実践してる方以上に、心を統御し習慣統御してる事実があるわけで

いろんなルートがある・・と言えなくもないなと思った次第です。



( 関連記事 )
「 山本権兵衛翁の生き方に学ぶ  ※不思議な運の強さ 」

天風哲学の外観、周辺人脈
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