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2017年01月25日

安定打坐とナーダ音 「  無難な瞑想法 」

 ★安定打坐の日常訓練法

安定打坐法は、心を無声の境涯( 空境 )に入れ、
思ったり考えたり感じせしめられたりする・・
働き通しの心の思考自体を止め・・休ませることができます。

( 思考の埒外・・思ったり考えたりするとことは違うとこから )
本心・良心を煥発することにも緩く( 間接的に )貢献できる方法でもあります。

天風式クンバハカで体勢を整えて実行し打坐で得た心境を日々の生活に活かすことで
本来の命の力を発現する機縁にもなるのではないでしょうか?







やり方については、今ではネットでいろんなものが公開されていますが・・

 安定打坐を行じる際の音のタイプとしては主に二つあります。


 1 ブザータイプ

ブザーで瞑想


 2 鉦タイプ



鉦の音で瞑想






ティンシャの響きと瞑想


こういった音のタイプでやる以外にクラシック音楽とかでも、安定打坐は出来ると思います。

以下の秀逸なサイトでも指摘されてるように

 天風オンライン 「 クラシックと安定打坐 」
 


 例えばクラシックの交響曲が「 無音 」
( 音と音の途切れ )があるものが多く

肩の力を抜き顎をひき、息の通りをよくし・・軽い・・天風式の自然クンバハカでリラックスし
全身を耳にしたつもりで打ち込んで聞くと
クラシックでも空を体認しやすいわけです。



有名どころでは


ベートーヴェン 交響曲 第6番 田園 とか交響曲第5番 運命


Beethoven Symphony No.5 mov.1 ベートーヴェン 交響曲第5番「運命」 第一楽章



モーツァルト 交響曲 第40番等があります。


あるいは

ドヴォルザーク: 交響曲 第9番




 こういったもの以外でも安定打坐は格別に時間をとらずにちょっとした心がけで訓練できます。


例えば

車やバイク・・電車の走行音が近づき遠ざかって行くのを
気持ちを丹田に鎮め耳を澄まして、その一つの音に氣持ちを向けて・・
音と一つになる

その音が微かに・・微かになって消えゆくまで追いかける・・

そうして、その音が消えた先の静寂( 無声の空の境涯 )を味わったり


 ドアを閉める音やトイレの排水を流す音の途切れ等ちょっとした生活音(における音の消えゆく先・・)

 公園とかでさえずる小鳥の鳴き声でも、
その鳥たち( 雀やハト )の鳴き声のうちの一匹・・この一匹・・という鳥の鳴き声に心をすっと向けて

その鳴き音( 鶯は・・都会の公園では、さすがにきびしいので・・歩いてたら、ちょろちょろと寄ってくるハトのクルックーー・・・クルックーーー・・でも・・
雀のチュン・・チュンでもいい・・ )


やり方は・・この雀の可愛らしい鳴き声の・・注目した音以外の音を排除し、これのみに1点集中・・
チュンが消え、次のチュンまでの・・その無音の瞬間・・その先の空( 内的静寂 )に瞬間だけでもすっと心を入れるように・・この動画とかでリハーサルしとけば


 実際の公園内とかを悠々と散策して愉しんでる最中でも

 ハトたちがちょろちょろ足元に寄ってきたり・・雀がちょこまかしてる時

そのなかの一匹を選び

出来るだけ、その一匹(の鳴き声)に心を集中

クルックーー「  」クルックーーー「  」クルックーーー「  」


チュン「 」チュン「 」チュン「 」とか

で・・無音「 」に心を入れてやる


そうしたら無念無想の空の悟味を、別に身の回りの生活の中で静寂の境涯を味わうことが出来ると思います。




 熟練してくると自分でブザーの音を体感的に想像し


それに打ち込んで

 プツッと途切れた刹那の空境に入ることも出来るかと思います。








★安定打坐に満足できなくなった方の場合の無難な瞑想法

 私の場合は・・正直なところ10年以上前から、この安定打坐瞑想では心底の深いところの
乾きが満たせなくなっていることもあり後述する安定打坐ルートでのナーダ音で安定打坐をやるのが日課になっています。

言い方を変えるならば、もう何年も前から鉦やブザー等でなく内的振動音であるナーダ音に集中し、これをツールにして音と溶け合うようにするやり方の安定打坐をしているわけです。


 ・・このやり方でやるようになった経緯については・・これも何回かメルマガでトピックとして取り上げてますが・・

 10年以上前( 正確には15年くらい前 )に、あの当時・・口述書を独自的方法で熱心に実践し1〜2ヶ月で、これまで何やってもダメに感じてたのが・・

 あれよあれよという間に心も強くストレスにも強く・・折り重なってた苦境も薄皮を剥ぐように突破できたので

・・ネーミングが実にあやしい・・大言壮語じゃないか?!大丈夫なのだろうか??とか思いつつも・・もう、天風先生の方法なら間違いないだろう・・と信頼し


「 神人冥合 」という・・やや畏怖を感じるタイトルのテープ
( ※当時はCDでは販売されてなかった )を注文して
 安定打坐を、見よう見まねの独学独習でやり始めて1ヵ月〜2ヶ月くらいです。

1ヶ月もたってなかったかもしれない・・手帳に記録残してないけど・・


ふいっと意識をずらすとシーーーーーンという美妙音が心耳に響いて聴こえくるようになりました。


安定打坐を1カ月くらい熱心にやってたら聴こえ始めたこの音については
別に頭痛や肩コリ・・外耳炎由来の耳鳴りというわけでもない・・そもそも不快でなかったというのもあり



はて??・・何だろう・・この音・・妙に落ち着くな・・と当時・・この音について時間を見つけて文献を探しました。


で・・ある程度の、´めぼし´はついてたんですが

ヨーガの書物のなかにその記述があって・・探求を躊躇したというのがあります。

結局・・あの当時は、某事件が影響して、まだヨーガ自体に良い印象を持ちきれなかったこともあって5年くらい、ほったらかしになってたわけです。
( 今現在でも、情報出す責任もあるので相当に慎重居士ですが・・ )



 これについては、これが天風先生の言う天の声だ・・という方もいて・・リサーチしてみると
いろいろ見解が分かれてるみたいです。

 
 参考  2003−2004 天の声




 とりあえず私の場合は・・そもそも議論自体は好きではないので・・深い追求はしません・・
そもそも、ここの団体の会員でもないので・・




 それに私は、これを実務とか生活の諸々にどう生かすか?

という方面に興味があって研究してきたので・・



 で・・とにかく、いろんな瞑想をやってるうち※に、
これ( 耳の遠くでシーン・・響いていた´音ならぬ音´ )に呼吸を鎮めて様々な妙音を探し、その美音と溶け合うように聴き入ってたら


 やがて、その響きがティンシャに似た

あるいはティンシャよりも精妙でうっとりする調べも発見出来て非常に心が安らぐ・・




なんだか何時間でも聞き入っていたいようになる・・


そういう理由で

更に探索するために

先に挙げた、このシーン・・+α・・鈴の音よりうっとり・・みたいな音に氣持ちを
向けてひたすら呼吸を鎮めて静かに聴き入る機会も増えていったわけです。





 ちなみに


 このシーーーーーーーーーーーーン・・という・・人氣や生活騒音のない深山幽谷にいて・・
静かにしてるときに感じやすい、かそけき美妙音


この耳の遠くで響く懐かしい音は、ナーダ音と言われ
「 魂から響いてくる妙なる音 」と定義する方もいて
この音は10種くらいあって、その音のなかの・・非常に美妙な・・かそけき音を探して聞き分けるようにして聴いてれば神経系も安定化されると指摘なさる方もいますので。




そういう経緯もあるので


個人的な体験上、安定打坐を実践してる方で、この音( ナーダ音 )が聴ける方の場合は

さまざまな美妙音を探し、聞き入るようにしたら
不要残留本能心がなだめられ生命の本来の力が出やすくなって自己統御にもめっぽう役立つ
 

( 心−神経系統−肉体 )の波及ルートでクリーニングされ

心にも内なる平和をもたらす非常に重要なメソッドと考えています。


医学的にはリンパ液や脳脊髄液の音という可能性も指摘されてるので・・仮にそうであったとしても、聴き入ってれば洞察力や集中力は高まるので・・別にその説でもいいんですが・・

今後そういう分野の研究も進むのではないでしょうか?



とりあえず私が、どう実務的に使ってるか・・書くなら


これ( 心耳に感じられる音ならぬ妙音<inner sound> )は
普通に気持ちの切り替えにも実に役に立っています・・


 
 なぜなら・・この・・今にも消え入ってしまいそうなほど幽玄微妙な・・感じられる音によっては、顕れては消えたりする美妙音もある・・音ならぬ音( 隻手の音 )を聞き分ける訓練をし氣持ちをすっと向けることで
雑念妄念が自然に消えるので、そこ( 妄雑念 )から気持ちを離すのに役立つ・・




内面の心内作業なので・・言葉での説明が難しいのですが



雑念ってのは、心が理性であれこれ思案して・・ああでもない・・こうでもない・・と
うんうんやってるとき・・とか・・

心が肉体を思う・・腹減ったとか・・痒い・・痛いとか
肉体を守ろうとする本能的な働きの時に出やすいですよね・・


ですが・・そういう雑念妄念も・・

これ( ナーダ音のうち、シーンとかジーンとか鈴っぽいのとかよりも、もっと奥ゆかしい、かそけき美妙音 )にひょいっと振り向けると・・それが、うっとりする、かそけき妙音であるなら、なおさら
心が妄念<我念>に囚われてても・・自然にこの( ナーダ音 )にふいーーーっと魅了され惹き付けられざるを得なくなる・・

その瞬間・・自然に我念の働きが止滅・・止まります。

 なので不安や恐れ・・苦悩、煩悶を含めて・・ナーダ音に聴き入ることを習慣にしていくと、過去の記憶< 印象 >の再生産がされなくなるというしくみがあるんじゃないかと推定しています。


 雑念、妄念が消滅するから心も休まりやすくナーバス・システム( Nervas system )の調子がよくなる・・だから必然的に自己治癒力も高まっていく。


( このナーダ音を聞き分けるようにするのが神経系統に佳き影響を与えるというのは私がそう思うから書いてるとこもあるわけなので・・)


 さらに空境から思惟をこえた本然の心( 本心・良心 )が以前より出やすくなるんじゃなかろうか??という仮説を立てています。








これから書くこともあくまで仮説ですが・・チベット仏教とかインドのヨガで音を利用するのがありますが・・

例えばチベットでティンシャという仏具を鳴らして
その音に聴き入る瞑想があるようなのですが

私の私見では・・

この瞑想の本質は、ティンシャのような道具に頼らず

「 自身の魂から響いてくる純で妙なる音である尊きナーダ音 」

呼吸を静かにゆっくりし
これに敬虔に聴き入ることのほうが、より本質で

ティンシャという仏具を鳴らして
その音に聴き入る瞑想は、その導入に過ぎないのかもしれない
と思った次第です。



これをさらに拡大し日本の神社の神具で説明を試みるならば、拝殿の中央、ちょうど賽銭箱の真上( 社頭 )に、銅や真鍮で造られた大きな鈴(鈴緒)が吊るされてる所が多く
参拝なさる方は、この鈴を鳴らし、お参りをしますよね。

社頭に設けられた鈴は、その清々しい音色で参拝者の内から敬い慎む気持ちを誘起させるとともに参拝者を祓い清め、神霊の発動を願うものと考えられているのだとか。


お正月の三が日とかですと「鈴払い」をしてる福娘の方とかもいらっしゃいますよね。
 
鈴払い




仏教とかでは、もう定番中の定番・・除夜の鐘というのもあります。

これは大晦日(12月31日)の深夜0時をはさんでつく鐘のことなのですが、読者の皆さんも、年越しの定番としてテレビなどで幾度も聞いたことがありますよね。

この除夜の鐘をつく意義っていうのは

人には人の心を惑わせたり、悩ませ苦しめたりする心のはたらきとして煩悩がある。

煩悩には108あるので、それらを祓うために、除夜の鐘をつく回数は108回とされています。



で・・ふと思ったんですが・・

 心耳に響くナーダ音・・
( ←これ・・人によっては妙なる鈴の音のように美しい調べで聴こえる方もいる・・私も混ざり込んで聴こえる事がある )

このsacred soundに、ふっと心を入れ溶け込ますのも最強・最大の邪気払い・・煩悩祓いになるんじゃないか?と思ったしだいです。

ナーダ音を擬( 模 )したのが、除夜の鐘(の音)や神社の社頭に吊るされた銅や真鍮で造られた大きな鈴の音




なので、安定打坐を実践して、ティンシャよりも精妙で澄んだ・・五官で外部で感じられるものと違う・・頭痛や外耳炎など病由来でなく心耳の遠くから響く音ならぬ音が耳の遠くで微かに聞こえて、これが、もう、うっとりし聞き惚れる

聞き入ると心地いいなぁ・・やけに落ち着くなぁ・・開放感や内的平安感・・静けさも増すなぁ・・という方の場合は、先にあげたような心内妄念処理も出来て雑念が瞬間的に自然消滅すると思うので・・

そういう使い方で集中力や洞察力を高めることが出来る・・

本来の命の力が以前よりは出やすくなる・・そういう実務面でもお役に立てば幸いです。



それに、ナーダ音を聴き分け、聞き入ることをしていくと、これが滅法よい潜在意識のクリーニングにもなる・・

潜在意識のクリーニングをすると何が良いかと言いますと

ここが清まっていくと性格が穏やかになり、悩みや苦しみに心が囚われることから心を放すことに上手になると思っていますので。










navikan at 16:24|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年12月21日

運気の12年周期の盛衰( 男女愛のエネルギー以外で運気に影響を与えるファクター )

男女の愛のエネルギー以外で

聖者や恩師との密なる交流によるエネルギーが
心の積極性や運勢に影響を与える例としては



天風哲人の場合をケースにして深くリサーチしてみると・・
この方は少し複雑でして・・

捨て鉢になってた中村三郎( 天風哲人 )でしたが

縁あって頭山翁に拾われた16歳からの12年・・

頭山翁の福運の保護・・大きな守りを受けて
心も非常に強く積極的で28歳までは軍事探偵として活躍してます。

結婚( 奥さん )よりも
恩師の頭山翁のほうの影響を強く受けている感じです。

やはり頭山翁という方の影響圏が凄かったのだと思います。
この頭山翁という方も強烈でして

命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人・・
佳い意味で仕末に困った方で
中村三郎( 後の天風哲人 )は大きな影響をうけたようです。

ですが頭山翁と出会って12年後の28歳のときコザック騎兵に捕えられ
銃殺寸前の絶体絶命の境涯から奇跡的なかたちで
九死に一生を得てから、しばらくして当時不治の病とされた奔馬性結核に罹患しています。


事実として天風哲人( 中村三郎 )は30歳で、当時不治の病といわれた肺結核・・さらによくないことに奔馬性肺結核に罹患し、結核のなかでも、特に病の進行が早い、たちの悪い病にかかるという大きな試練に遭ってまして

そうして精神的にも、何かがぷつっと切れたようになっています・・


死ぬことをなんとも思わないような気持ちも強く心が強い豪の者だったのに・・

ほんとうにまあ・・あんなに強かった心が、
これほどまでに弱くなってしまうのか・・

というくらいに、びくびくおどおど・・
きなきなくよくよ心配性・・不安神経症候群に陥り

これほど惨めで哀れな心になったことを嘆き苦しむ。

さらには治る見込みのない病と闘い身悶えしてるうちに

さらに過敏になってキレやすく弱っていく心をなんとかしようと

高名な医者はもちろんキリスト教や仏教など有名な宗教家にも救いを求め・・

教えを請いますが・・「 祈れ 」という助言しかない・・といったようなあんばいでどうにもならない・・


理論も実践体系もなく絶望する・・



そういう辛く暗澹とした精神状態に陥いる・・という内的試練に陥っています。


これってまさに孟子の言うところの


「 天のまさに大任をこの人に降さんとするや、必ずその心志を苦しめ、その筋骨を労せしめ、
その体膚を餓えしめ、その身を空乏にし、おこなうこと、そのなさんとする所に払乱せしむ・・」

というような外的および内的試練に曝されたのじゃないかと思います。

これは、天(の氣)がある人に大任を授けようとするときは、必ず、その人の志や思い通りにはさせず、
理不尽なことが続き、トラブルも多発・・そうして精神や身心を苦しめ、その筋骨を疲れさせ、
窮乏の境遇におき、何をやってもうまくいかない、ひどい目に遭い
わざわざその人を我慢強くじっくり鍛えるものである

こういった試練があるのは、天がその人の精神を鍛え、忍耐力を強くし、
大任を担うに足る人物に大きく育てようとしている、 そんな証拠なのである 」
というようなニュアンスの言葉です。

まさに、三郎( 天風哲人 )は、これではなかったかと・・

前述したように・・戦国時代において結局勝利し、大任を果たしたのは、
天才肌の信長でも・・秀吉でもなかった・・最も辛抱強く我慢強かった家康です。

時代や国は違いますがH・フォードも、とても忍耐強く我慢強い・・
幾度挫折しても決して諦めず熱意で恐れを越えて
焦らず弛まず淡々とやり抜く性質の方だった・・ということから・・
孟子のこの言葉は、かなり信憑性を感じます。







それはさておき

そんなことが、その当時、わかろうはずもない・・

そんな余裕があろうはずもない中村三郎は、それで已む無く

 死ぬのも恐れなかったあんなに強かった心が・・なぜ?WHY?こうも弱くなるのか?

この弱く惨めになった心・・病から来るだるさ・・不快と苦痛・・
そして死に対する不安が止まらなくなった心を
なんとか立て直すメソッドを教えてくれる人を探そうと発心し


日本( の医学者・識者、宗教家 )に助けを求めても全然駄目・・

どーにもならなかったから・・ということで

病が一時小康状態になったのも手伝ってニューソート系の1冊の本を頼りに
単身アメリカに渡ることを計画します・・


これも命懸けでしょう。

あの当時は抗結核薬( 抗生物質 )もない・・いつ死んじゃうか分からないんですから。

明治時代から昭和20年代までの間・・日本において結核は、
「 国民病・亡国病 」とまで言われるほど猛威をふるった病でして、
最近ではJOYさんとかハリセンボンの(箕輪)はるかさんが罹患することで、近年結核が増え始めた・・ということで少し認知されるようになりましたが

明治から大正の結核が猛威をふるってた頃・・天風哲人とほぼ同時代に生きた方で、哲人より4歳年上

五千円札で有名なあの樋口一葉も同じ奔馬性肺結核に罹患し発病から、わずか半年後の24歳で若くして亡くなってます。

荒城の月などを作った哲人より3歳年下の滝廉太郎も一葉と同じく24歳・・

哲人より10歳年上の歌人・石川啄木も26歳で亡くなっています。

哲人より9歳年上の正岡子規は21歳で大喀血したことで病( 肺結核 )を自覚し、35歳で亡くなるまでの14年間辛い闘病生活を余儀なくされています・・子規の場合は奔馬性肺結核ではなく、進行が遅かったようですが、「 治療には栄養が大事 」ということで大食を続け、吐き、また食べ鎮痛剤を飲む日々を送り、ときには余りの苦痛に自殺すら考えることもあったのだとか。
( 要出典 )




こういった方々同様・・中村三郎( 天風哲人 )も肺結核に罹患している時は全身のだるさ、発熱、体重減少、息切れ、血の混じった痰(たん)などが出始め、喀血することで気持ちも萎える・・毎日が死というものと向かい合わせで、日々死を自覚し不安と苦痛と闘うことを余儀なくさせられています。


そういう闘病生活を送るなかで、中村三郎( 天風哲人 )は、坐して死を待つよりは・・という・・半ばやけっぱちの決意で

軍事スパイだった体験を生かし、

ニューソート系の哲学者に教えを請うために、病が小康状態になったのを、
よい機会ととらえて国の法律を犯して密航してアメリカに渡るわけです。



しかし、藁をもつかむ気持ちで渡った先( アメリカ )で、ニューソート系の本を執筆した当の本人である
青年哲学者に会って教えてもらおうと思っても「 糠に釘 」みたいな答えで全くどうにもならない

それでアメリカ( ニューソート )に見切りをつけて


死を強く自覚し見つめる日々を送りながらヨーロッパの学者・識者を尋ね回っても駄目

とどめになったのが

当時世界一の哲学者とされてたハンス・ドリュースの

「 もし人間が心を自らの思うままにできるんだったら、
そもそも哲学も宗教も この世には生まれてはいないよ。  

あんたが求めてることは、海の魚を森に求めてるのと同じことだ・・

 心というものは絶対に人間の自由にならないものなのだ。 」

という(とどめの)一言



この言葉で魂が抜けた夢遊病者のようになって
観念し、ここまで探しても駄目・・世界一の哲学者ですらも無理というんだから、無理すじなのだろう・・
なんて俺は馬鹿な旅に出たのか・・病や不運から心を離して、それに組み敷かれずに感じたり思ったりする心を尊く強くしようなんていう発心は所詮は無駄だったのだ・・

ああ・・馬鹿だった・・もう、どうせ死ぬなら故郷の日本に帰ってお墓に入ろうとして日本に向かうための船に乗ることになります。

( さんざんやり尽くし努力しても得られるものがなかった・・というのは、本当に真剣、深刻に求め、やってきた方であればあるほど、成せなかった・・得られなかった場合の喪失感や挫折感・・・絶望感・・涙も出ないくらいの寂莫感・・というのが迫ってくるというのは私も、ほんの少し経験したことがあるので・・痛烈な痛みに似た悲しみを越えてしまって最早血の気も通ってないような一個の物体みたいな状態に落ち込んだのだと思いますが )





そうしたところ乗った船がスエズ運河にさしかかった時

イタリアの砲艦が座礁して、運河が塞がって通れなくなる・・
( 当時は運河の通れる幅が狭かったらしいです )


それで一時避難的に、その船はアレキサンドリアの港に錨を降ろすことになり・・


その処置の間に幾ばくかの暇が出来たので

同じ船で仲良くなったフィリピン人の釜たきにピラミッド見物に誘われた・・

この時の中村三郎( 天風哲人 )の当時の心境は・・

「 結核で、どうせ俺はすぐ死ぬ・・
もう、どうせ死ぬなら日本で死のうと思って船に乗って日本に帰る途中
なんか変なことになった・・どうせ日本に帰って墓に入るのに、
ピラミッド( でっかいお墓 )なんかを見たってしょうがないだろう 」
というような実に自棄的で投げやりな気持ちだったらしいですが・・

なぜか妙に気が向いたので

( ←こういう気持ちが湧き出たのも聖者に引き合わせる天の意向だったのだろうと思います )

フィリピン人の釜たきに誘われるまま

エジプトのピラミッドを見に行くために立ち寄ったカイロのホテルで大喀血し、
へろへろ・・ぐったりした時に運命的にカリアッパ聖者に会っています。

( 命懸けの発心をして死との肉薄を強く自覚した日々を送って約5年後・・
奔馬性肺結核と診断されてたので、当時の医療事情では、いつ死んでもおかしくなかったと思いますが・・
元々ずば抜けた生命力もあったのでしょう。よく体ももってくれた・・運命も待っててくれたんでしょう  )

これが35歳くらいの時です。

そこから聖者のもとで直にヨーガの行を伝授され食事を正され、果物や野菜中心にしたり
雪解け水が流れる川で難行をしたり・・ヒマラヤの第三ピークの山のふもとのゴルケ村・・そこから歩いて6〜7kmのとこにあった巨大な滝つぼの傍で瞑想したり・・瞑想の帰り際に聖者とざっくばらんに話したりした末3年近くの行で急速に心の進化・変容を体験せしめられることで悟得し


心の強さ、尊さ、清さも取り戻され・・

自身の修行の自助努力にプラスして聖者の信念と癒しの力が加わることで

元気でぴんぴんした姿を自然に脳裏に描けるようにもなり・・

「 誰がなんと言おうと俺は治る!」という強い信念を抱くに至り・・免疫力も高まったお陰か
後遺症は残ったものの・・奔馬性肺結核も奇跡的に治ってしまう。


その後12年で大きく飛躍しています。


 その絶頂期が

35+12=47歳

つまり天風哲人が47〜48歳のときである
1924年あたりでしょうか?

このときの会員の顔ぶれを見たら実に錚々たるものです。






 ですが、その後12年を経て1936年以降くらいから天風哲人本人の心の強さ、高尚さは不動ですが

個人の運勢は衰えていきます。

恐らく当時の人々の強欲的なエゴ・・天の調和から外れた( 怖れや不安、利己的強欲性等の暗愚面 )が増大していった社会風潮というのもあったのでしょう。

哲人は、そういう風潮に逆行するようなことを

自らのインスピレーションと意志と信念を曲げずに孤軍奮闘で、
国賊と罵られようが戦争に反対したから運気が衰えたのだと思われます。

当時の世論の99%が狂ったように戦線拡大に向かっていた・・1920年代に成立した排日移民法なども戦争に向かうバックボーンにあったようですが・・新聞の論調なんかも政府や軍の強硬派に迎合し権力におもねる形で偏向報道が凄くなって、すべての新聞が戦争一色になっていったらしい・・



当時の報道姿勢やジャーナリズムを責めるのも実に簡単ですが・・それより、なぜ?どうして、狂ったように、こうなっていったのか?というのを研究する方が、ひょっとしたら後学の為になるのかもしれません・・・

 あの当時、良識と大局観・・冷静な国勢分析にも優れた骨のあるジャーナリストが全くいなかったとは到底思えないので・・






ちなみに・・あの当時、ある程度の影響力のある方で時の政府及び軍部に
反対の声を挙げれたのは、若槻 禮次元総理、米内光政元総理、
岡田啓介元総理、中野正剛翁、頭山満翁など、ほんの一握り・・

あまりにも少数だったと言われています。

山本権兵衛総理および原敬翁が内大臣の時に改正できた

「 軍部大臣現役武官制 」

これが、復活しちゃって軍部の力があまりに増して力の均衡が崩れてしまったのも、やはり相当に痛かったのじゃないか・・

原敬翁が1920年代に暗殺されたのも実に痛かった・・
あの頃は、有能な政治家が凶刃にばたばた倒れていってる・・



新渡戸 稲造翁も一定の影響力はあって戦線拡大に反対なさってますが、
1933年日本が国際連盟を脱退した頃にお亡くなりになってます。


言論界における有識者とされる方とかも当時は率先して戦争に賛成する方々が多く、
宗教界も積極的に戦争を推し進めた宗派もあったり、
そういうのを好まない宗派についても、はっきり声を挙げて反対しなかった・・
( 雰囲気的に、もはや反対できない状況になっていったらしいです )

( 敗戦後は、なんでこんな馬鹿な戦争をしでかしたんだ・・俺も・・実は私も、この戦争には反対だったのだ・・そもそも、国力が違いすぎてただろう・・という声が言論界にも出てきたし宗教界を中心に驚くほど沢山あがったらしいですが・・残念ながら後の祭りでした )




そんななかで、天風哲人は、強くインスピレートされたものと・・

ご自身が実際に30歳の頃にアメリカに行って、
その豊かさや強大な工業力・・ヤンキー魂とかも・・恐らく肌で知っていた・・というのも理由のひとつだと思われますが

孤軍奮闘で戦争反対の論陣を張り

非国民と言われようが・・
官憲に目を付けられ牢屋に入れられようが

軍部にわけのわからないいちゃもんをつけられて自宅を取り壊されようが、お構いなく

「 正義の戦争ではない!それに、このまま調子に乗って
戦線を拡大し続けてったら国が危うくなる・・下手したら国としてのかたち(体)がなくなる 」



と、開戦前・・そして開戦当初から、一貫して反対し

「 自ら反みて縮くんば、千万人と雖も、吾往かん 」

を地で行った・・と申しますか・・



哲人の意に反して日本が日米開戦にも踏み切って



奇襲攻撃で日本が真珠湾攻撃で戦果をあげて浮かれてる時も

 「 これで日本は火の海になってしまう・・」と慨嘆し嘆き悲しんだのだとか

さらには

弟子や知人が出征するときは「 生きて帰れ 」と励ましたとかいう逸話も残っています。



挙げていったらキリがなくなりますが

こんなふうに大東亜( 太平洋 )戦争に反対し続けたから、

心の強さや尊さは不動でも、個人としての運気は一時期衰えたのだと思われます。

( 要出典 )





私自身が、各論では、離れたところでアプローチを変えて実践研究しつつも

バックボーンについては未だに、現実の力を大事にする天風哲学や心身統一法のコンセプトを根幹に据えて
研鑽材にしてるのは、こういったことも理由の一つになってるわけでして、

私自身も、先の戦争において、欧米が絶対の正義だとは微塵も思ってませんが・・
当時の日本の行為が正しいとも思ってはいません・・


天風哲人がガンジーの視点と同じ視点で戦争に反対したかもわかりません。
( それにガンジーの視点や施策が日本になじむかも議論の分かれどころですが )

とにかく当時の哲人のリアリズムとインスピレーション・・
リアリズム・・現実の力に根差して日本の国を守ろうとする愛
理念と信念の強さ・・・いずれも凡愚を抜きん出てまして非常に卓越してたと思うわけです。


こういうの書くと長くなるので・・先を急ぎますが・・





天風哲人は1936年から9年のそういう苦難と変節を経て


1936年+9年=1945年の敗戦の国家存亡の危機の際

戦争終結・・さらなる悲劇を食い止めた陰の立役者のおひとりとして
命懸けの決断と体を張って騒乱を鎮めることで、ひっそりと活躍後

 
1945+3年後の1947〜1948年くらいから

戦争中にB29に乗って作戦参加して不時着し捕虜にされたアメリカの飛行中尉が
半殺しの目にあうような窮地に瀕した際に天風哲人が機転を利かせて助けた奇縁※もあって

当時の日本に絶大な影響を誇っていたGHQに、記念講演を依頼される等して、また少し盛り返しています。


( ※戦時中、天風哲人が自宅を潰され疎開させられていた茨城県で、B29に搭乗して東京空襲の作戦に参加してたB29の搭乗員<アメリカの飛行中尉>が、疎開先の田んぼの脇に不時着し、それを見つけた農民たちに捕えられ、にっくきアメリカの敵を捕まえた・・と大騒ぎになっていた・・

 農民を中心に村の衆が大ぜい集まって、その中尉を寄ってたかって袋叩きにし、荒縄で縛り上げて・・それが周りにも伝わって・・ものすごい大騒ぎになってたらしいですが、すぐ近くにあるお寺や教会からも助けの手は差し伸べられない・・・人道的な観点から、助け得る人がいなかったので、天風哲人から助けられた飛行中尉は・・よっぽど感動( 感激 )したのでしょう。

 戦時中でもあったし、当時の雰囲気から、勢い( 弾み )で殺されても仕方のない状況だったのではないでしょうか?

 この飛行中尉は恐らく死を覚悟してたのかもしれません。



 なぜなら、助けられた、その中尉は戦後、従軍記者になってまでして志願して、日本に行って・・名前も知らされてない天風哲人を探しまくって、お礼をしようと行動したくらいなので・・

 あの当時の状況からすると、助けるのも命懸けで簡単ではないでしょう・・
 当時のような状況じゃなかったら、スッとやれる人もいるかもしれないけど・・


あの当時だったら、( 何も考えない無垢で無我の領域から )本心・良心を煥発させて、( 何も思惟を働かせず )こういう人道的なことやるのも相当難しいはず・・

 官憲が恐ろしくて・・・敵の捕虜を助けたら憲兵に目を付けられ、自分も難癖つけられて牢屋に入れられるかもしれない・・恐ろしい・・そんなリスクは負えない・・といった判断が働くでしょう・・理性心を働かせ思惟が働いたら・・そんな状況だったと言えるかと )





その後はロックフェラー三世から請われて何十億円ものお金を積まれようが決してアメリカに行かず

 疲弊し誇りや自信を失った日本人の魂の復興の為に力を尽くしたのは、このブログ読者の方でしたら
よくご存じのことと思います。


そういった個人の史実を俯瞰すると


心の置き方の積極化で氣の受け入れを豊富にし生命エネルギーの状態をよく保つ・・運勢や運命という点で

人との交流というのにフォーカスするなら

先ず先に挙げた5事例のうち4事例

特に( 信長、秀吉、家康 )については、「 嫁さんパワー 」は意外に侮れない・・と申しますか・・
個々の運勢にも大きく寄与してる気がします。


また12年の周期の前後3年くらいに人生の岐路になるような
大きな決断をくだすことがあり、
それがまた運気のリズムに影響を与えているような傾向を見てとることが出来ます。

 
なんらかの運気の盛衰の法則性があるように思えます。



なお

こういう分野では「 安岡陽明学 」とかが有名ですが

12年周期の運勢の盛衰というのは、
個人だけでみるのではなく、お相手( 配偶者 )や子供、父母等も考慮してトータルで運の勢いを見る・・
というのも´あり´かもしれないなと思った次第です。




ということで


やはり霊性の高い方と出会って謙虚な気持ちで交流するのが
一番生命のエネルギーの調和を促し、氣の受け入れが大きくなり、心に張りと活気をもたらし、その置きどころを尊く清く強くせしめる・・

それによって内在の発展的な気持ちを引き出し、強調するのに影響を与え
心の消極性( 妬み、恨み、憎しみ、臆病、傲慢性、横暴、色情、怠け癖 etc )
が発動しやすくなって芽吹いて・・一時的にはよくて快を味わっても結局は、大きな苦しみになり退廃化し不幸や滅する方向に向かうのを干渉させブロックし、それが強くなるのを抑える力が強い

その次が金もいらず命もいらず・・というような
強烈な師・・その次が信じてくれる配偶者( <夫婦愛>のエネルギー )・・
といったような感じの・・階層的力関係の法則があるのかもしれません。




navikan at 23:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0)運の研究 

12年周期の運気の盛衰と男女愛のエネルギー( H・フォード )

戦国時代の三英傑で運気の12年周期の盛衰と男女愛のエネルギーを調べてみましたが

近代の英雄を調べて見ると


前々回取り上げた日本海軍の父

 山本権兵衛翁も登喜子さんと結婚して、運気がパワーアップし
 ほぼ12年周期で運気が動いてる雰囲気が漂っています。


ただし

いくら運気の流れがきても



甘いものや脂っこいものばっかり食べて
心の態度も引っ込み思案的で取り越し苦労ばかりしてたら意志の力や決断の力が衰えて
中枢(脳)神経をぼやけさせてると


好機会が来ても気づけないし断行できないので

潜在意識のクリーニングで日々を新鮮に感じるようにメンタル管理することや神経組織を活性化するのは大事かと思います。



それはさておき


山本翁のことに戻ると



山本翁は27〜28歳頃結婚し

12年後の40才に海軍省官房主事に大抜擢されています。


 さらに12年後の52歳から53歳に日露戦争で裏方として働き、
海軍大臣として東郷平八郎を連合艦隊司令長官に抜擢するなど日露戦争勝利に大きく貢献

そこから10〜12年後の62歳〜63歳のときに総理大臣に就任し内閣を指揮

 さらにそこから10〜12年後72歳〜73歳のときに二度目の総理府大臣に就任し内閣を指揮
 
後半は少しずれてますが、
運勢のリズムに、かなり周期性があるように思います。


この方も、奥さんからも、よきエネルギーを貰って心の態度が引っ込み思案的でなく、非常に強く大胆になり
悪いものがブロックされ、行き過ぎにもならず、いいものが出やすかった・・

環境によって創られたものもよく

愛し愛され心身のエネルギーの状態がよかったので

 人生の転機ともいうべき岐路に立たされたとき、
冷静で大局的判断力もあり、腹も据わっていて
国運を飛躍させる人事を行う・・あるいは衰退から免れさせるのに大きな決断が下せたものと思います。

海軍大臣の時の裏方仕事での働きもすさまじいものがあったし総理大臣としては、その任期は短かったですが、就任してたった4カ月で 、行政組織の減量( 要するに人員整理 )、効率化と財政改革を行い放漫になった国の歳出予算11%の削減を断行しています。

これは、強力なリーダーシップ・・心の強さと私欲のなさ・・身を慎む廉潔さがないとしがらみに絡みとられ、決して実現できなかったことではないでしょうか?
( 要出典 )



以上、日本の方を参考にしてやってみましたが、試みとして海外の方を参考にしてやってみます。


海外においては例えばアメリカにおける「 自動車王 」と言われている
ヘンリー・フォードなんかも結婚してから心の態度の積極化が促されパワーアップし弾けたお陰か
運気が大きく拓かれていまして結婚後の運気のリズムもそれとなく感じられます。


この方は、無類の機械好きで機械いじりが大好きでしたが学校の勉強には興味を持てず
早く仕事がしたくてたまらなくて16歳で高校を中退し、
最初は、時計を作る大きな会社を興すのを夢みて、そのスキルを磨くために、機械工場で働き始め

その後も、かけもちで働いたりして機械に対する知識とスキルを磨くために
色んな職を転々としています。

最初は大きな時計工場を興すことを目標にしていましたが
後に自動機械( 自動車 )の開発に熱意を燃やしたのは、彼が田舎の農家の息子に生まれ
自身が子供の頃から農業に携わって苦労していた。


 そのときの農作業における人馬の辛さ、労苦を骨身に感じたからだそうでして

これを少しでも軽くし楽にしてあげたかった・・というのがあったのだとか・・・


 また・・フォードが20代の頃、住んでいたところからは少し離れた町で、
その当時、とても珍しかった「 車の展示会 」と言うのがあったそうで

( ※当時の「 車 」と言うのは今のような、かっこいいものでは決してない )

 それを見学に行って目にしたことで

 自分自身で実用的な自動車を開発したい・・
という欲に火がつく原体験になった・・という記述もありました。

実際にフォードは、農作業の苦役を軽くするための蒸気発動自動車を、
ありあわせの部品で試作したこともあったようです。


そんなH・フォードは1888年 25歳の時にクララ・ジェーン・ブライアントと結婚して
3年後の1891年にエジソンの関連会社に運よく就職できて
夜勤の勤務をすることになります。

一説には、車のガソリン・エンジンを点火させるための
電気の知識を学びたくて雇用機会を狙ってたのだとか。

「 夜勤 」にしたのは昼間は自分の自動車開発の研究に時間を割きたかったので
そうした・・という記述もありました。


 この環境を手繰り寄せれたのがフォードにとって非常に大きかったと思われます。



そうして

エジソン照明会社で頭角をあらわし、たった2年で異例とも言えるチーフ・エンジニアに昇進し
この会社本部で機械部の監督を任され
給与も月45ドルから月150ドルに跳ね上がっています。

このときには、昼間の勤務になっています。

この会社で周囲からの信頼も厚くなっていったので、
ここで、そのままずっと働いてれば順調に出世し

サラリーマンとしてではありますが、
それなりに安定し悠々自適だったはずなのですが、
フォードは、決してこれでは満足しませんでした。

昼間はエジソンの会社でチーフ・エンジニアとして働き、
帰宅してからは、すぐに作業服に着替えて
夜中の2時〜3時まで金鎚(かなづち)を片手に自動車を作るために働く・・

自宅の一角を改造した作業場で徹夜することも多かったのだとか。


そういうダブルワーク状態を続けるうちに

自動車の試作とサラリーマンの二足のわらじでは、
自動車開発は覚束ないと思い始め

自身の手による自動車の製作に微かな手ごたえを感じ、事業化できると確信した頃に
妻(クララ)の了解も得て退職を決意しています。



なお


退職に際してエジソン照明会社の社長さんからは、

「 なぜこんなに高待遇で将来も嘱望されてるのに辞めるのだ!
ガソリンの車なんて需要はない!馬鹿もんが! 」と猛反対されましたが

エジソン本人には理解され

28歳から7年間働いていたエジソンの関連会社を辞め35歳の時に独立しています。

ちなみに・・もし、クララの見栄が強かったら・・夫の退職には決して賛成してないのかもしれません。

それに、クララが夫と共に困難を共有しようという勇気や冒険心がなかったら・・H・フォードも退職を躊躇してたかもしれません。

給料の良い仕事を捨て「 あなたがやりたい好きな仕事をなさってください 」と言うことは、子供を抱えてたりなんかしたら・・妻にとっても、大変な決断であったと推察されます。

やはりクララも並の女子(おなご)ではなかった・・ということでしょう。




彼の下積み時代のエピソード(のひとつ)で面白いものがあるのですが


H・フォードは、サラリーマンとして働きながら自動車開発に熱意を傾ける日々を送って
エジソンの関連会社を退職した後しばらくして、
当時、ごく一部の富裕層しか買えなかった車を購入しています。

この当時の車の金額は、まだまだ馬が主流の時代で
オーダーメイドに近い状態だったので1台4000ドルくらいでして・・
これは当時のアメリカ国民の平均年収のだいたい7〜8年分に当たる金額でした。

今の貨幣価値で換算したら、それなりに立派な一戸建ての家が買えるくらいの値段だったはずです。

なので、そんな高価なものを購入したフォードを世間( 近隣住民 )は羨ましがったそうです。



 ですが、そういった世間の評判は、しばらくして・・またもや地に落ち、
批判と嘲笑の的になってしまいます。


 なぜなら、フォード青年は、その高価な車を乗り回すわけでもなく
自宅の片隅を改造した作業場で分解し始め、また組み立てる・・
組み立てたと思ったら、また分解する・・
そうして、また組み直す・・という作業を黙々・・延々と始めたからです。




これが噂になっていき世間の人はフォードを
「 また、わけのわからないことをしはじめた・・本当に変人だ・・ 」としか見ることができない・・

 フォード自身も決して社交的でなく寡黙( 無口 )で、仕事に関する質問をされても
YESかNoでしか答えなかったそうでして・・
今でいうところのコミュ力がない・・そのせいかもしれませんが・・周りは四面楚歌状態だったようです。

※なお、コミュニケーション力があまりない・・社交的ではなかった・・ということについては
ナポレオン・ヒル氏の著書のフォード氏に関するエピソード等から類推しています。
 





なお


敢えて言うまでもないことですが・・

人それぞれ役割があり、それぞれ異なる個性を持ち
 長所・短所もさまざまで職業的志向も千差万別です。

 
 それに・・幸福感にフォーカスして、当の本人が、日々どれくらい幸福感を実感して過ごしていたかも窺い知ることも出来ません。


ですが、いつの時代でも、そうであるように、新しい時代を切り拓くような画期的なものを生み出して何かを成し遂げるまでには・・当然、リスクは付き物だし世間の無理解・・多くの困難・・つらいこと、苦しいことに直面し、乗り越えないといけない。

当時の人々は、そういったフォードの見えざる理念と信念・・
それに基づく奉仕的行動が皆目わからなかった・・ということでしょう。


夫を信じる信念と夫愛が、めちゃくちゃ強い賢明な奥さんのクララと
エジソンやバーバンク・・A・カーネギー、ジェイムズ・クーゼン等の
ごくごく一部の先見の明がある方を除いては・・


実際に農場を継いでもらいたかった父親から猛反対され
隣近所の人たちからもスポイルされてたのは・・
自伝などを調べると間違いない事実のようです。

ですがフォードの妻のクララは、とりわけ格別に、
そんなフォードを心から励まし鼓舞し、ただ口で励ますだけでなく
夫と同じ方向を向いて一緒に汗を流して苦楽を共にし夫を心底から信じ支え続けています。

以下に会社に勤めながら、仕事が終わった後に作業していた
サラリーマン時代のフォードが30歳くらいのときの自動車開発秘話もありました。


「自動車王ヘンリー・フォードの妻クララ夫人」( 自動車開発秘話 )

こういう奥方だったら確かに・・もうなにものにも替え難いですよね。




ただ・・基本的にH・フォードが自分の損得だけ考え
自分さえよければいい・・というようなタイプの人間でしたら、
そもそも独立起業もしてないはず・・・

最近のGoogleの分析結果では出資を受けた起業家が成功する確率は15%なのだとか。

当時のアメリカでしたら・・もっと低かったのではないでしょうか?

それに・・セミリタイヤして悠々自適みたいな考えでも決してない・・と申しますか・・

彼( フォード )は一般的な仕事観からは、かなり離れたインセンティブを持って

恐怖を熱意で越え

勇気と大胆さを発揮してリスクを背負って果敢に仕事をしてたことがうかがえます。



なぜならH・フォードは、順風満帆だったエジソン照明会社を退職し35歳で独立して後


資本家( 投資家 )たちの協力を得て、会社を作っていますが・・



 最初につくった会社は


 「 あんまり安くしたら、資金提供した、こっち<資本家>の実入り(儲け)が少なくなるじゃないか・・
それなりに高くして、経営している側のあなた( フォード氏 )と
こっち<資本家>の実入り(儲け)が最大化するように、
一部のお金の余裕のある人に、その虚栄心を満たすために高く売りつけておればよいのだ・・ 」

という考え方の資本( 投資 )家たちと折り合いがつかなくなり意見が激しく対立して、
それにどうしても同意できないフォードは、怒り心頭に達してしまい自分から自身で立ちあげた会社を辞めたりしてます。


そんな感じで、所謂すっからぴんを5回も経験しています。

何かを成し遂げようとしたら、当然、困難やつらいことが幾度も出てきます。

ですので、自分の損得勘定だけで仕事( 事業 )やってるような方で、こういう理不尽なことがたび重なったら・・一般的に心が弱く・・信念も理念も弱い方でしたら、そもそも再起を図って何度も立ち上がることはできなかったのではないでしょうか?



 こういう高潔な方だから、クララみたいな、こういう殊勝な嫁が、くっついて来たのかもしれませんが

フォードが心の積極性を事実として維持できたのには奥さんのパワーも相当にあったのではないかと・・

 こういうエピソードを知るにつけクララ夫人がいなかったら

フォードは、あれほどの失敗や逆境の渦中で心の積極性を保てなかったのじゃないか?

理念や動機は、どんなに立派でも・・・奥方の支えがなかったら
下手すると頭のちょっとおかしい仕事虫の変人技術屋で
常識を欠いた人間として生涯を終わっていたのじゃないかしらん・・
紙一重だったのではないか?・・としか言いようがありません。

 

クララの立場に立ってみると・・これ・・こんな夫は、ふつうだったら、ついていけてない・・

耐えられない・・のかもしれません。

現実問題・・5回も破産して、素寒貧を経験してまして・・
しかも子供まで抱えているなかで一文無しになっている・・

こういう喫緊の状況が現実に幾度もあったら・・

 よっぽど心の修養が出来てて心が尊く強く清い嫁さんで
夫を信じ愛して、夫と同じ方向を向いて

自分も汗を流し、夫がやってることを理解してなければ・・


儕輩(さいはい)の群を抜いた方の言葉が積極的なのとは対極で


 一般的には、不平不満を爆発させ



 「 なんて甲斐性のない駄目夫なんだろう・・

 ほんと何をやってもダメなんだから・・

 ・・私は、なんで、こんな夫と結婚しちゃったんだろう・・

ほんとにもう・・こんな生活もうまっぴらごめんだわ・・ 」


と不満たらたら・・心を消極化させて、口にする言葉も取り締まれず

ぶつぶつと文句や恨み事を言ってたかもしれない


クララが、心の消極性のひとつである嫉妬深い性質が強い嫁さんで
心( 言葉 )を取り締まれない方だったら

「 お隣のジョーンズさんは、もう役員になったそうよ・・

 あの方の奥さん・・ミンクのコートを着てたわ・・

 それなのに、あなたときたら・・ほんとにもう・・ 」と言われてH・フォードは落ち込んで
実用的自動車作りを断念してたかもしれない・・





 子供にも

「 お父さんみたいになっちゃいけませんよ・・ 」

とため息と軽蔑交じりに愚痴をこぼし


夫のモチベーションはダダ下がりし気分も滅入って暴飲暴食・・

ヤケ酒を飲み始め・・妻子に暴力的になる・・

( H・フォードの場合は、菜食主義で自身の体をよく取り締まり小食・・
食を慎んでたし、瞑想をたしなみ心を澄んだ状態にすることに長け廉潔だったようなので・・
さすがに、これはイメージしずらいのですが・・ )


そうなると輪をかけて子供も父親を軽蔑し始めて

子供は非行にはしり・・その言葉も汚くなって
子供部屋は荒れ放題・・足の踏み場も無くなり部屋に異臭が漂うようになる


やる気を失い勉強も全くしなくなる・・

勉強しなけりゃ出来るわけもなく学校が詰まらなくなって所謂・・登校拒否・・
非行仲間と付き合うようになる・・

そうして家族の会話も無くなり冷え切ってフォードの家庭は修羅場になってた可能性もあるのじゃないでしょうか?・・

( ※なお・・ひどい毒親で、こんなどーしよーもない毒親だったら、子供は非行に走ってもしょうがないのじゃないか・・というような家庭であっても、なぜ?WHY?謎・・というような、よくできた子供が生まれて、子供のおかげで毒が中和され離婚の危機や夫婦の・・犬も食わないようないさかい・・ど修羅場が回避され、夫婦仲が( よくできた子供のお陰で )なんとか保たれる場合もたまにある・・

 かと思えば、なんでこんな立派なご夫婦なのに、なぜ?WHY?こんな子供が生まれるのか?というようなこともあるみたいなので・・本当によくわからない・・魂の修行という観点から見ないと謎としか言えない・・一概には言えないわけですけど
 )





それに


 フォードが事業に幾度も失敗して落ち込んでるときに

「 あなたならきっと出来るわ・・」と励ますのではなく

もし、クララに思いやりがなく

口にする言葉を取り締まれず


「 あなたは、ほんと何やっても駄目ね・・あなたには結局、素質がないのよ・・ 」

と恨みがましくブツブツ、ガミガミ・・突き放すような消極的な言葉を呟いてたら

 さすがの天才フォードも心がぽきんと折れて立ち上がれたかどうか・・実にあやしいものです。

そういう苦境に陥った時に、夫の成功を夫以上に信じ支えるのは
< 一度ならず幾度も破産して一文無しという現実 >が、
重ーく、のしかかったら心の態度を積極に変容させるのは、そんなに簡単ではない気がします。




 クララが、もしそうしてたら・・夫であるフォードの天才性はブロックされ

 芽を出しつつあった新しい産業や当時としては画期的な新しい生産システムは潰れていたはずでしてアメリカの目覚ましい工業発展も・・フォーディズムを真似て、そこから弛まぬ改善を続けていった日本の現在の自動車産業の隆盛もなかったかもしれません。

もちろん、フォード式の生産システムは現代では、通用しなくなって終焉を迎えつつありますし

2016年現在のアメリカの車産業は、その後、フォードのような
高潔な哲人経営者・・そして、それを支える方々を輩出せしめる土壌を失ったせいか・・一部スラム化し
治安も乱れ荒廃が目立っています。

【スラム街】アメリカ・デトロイト潜入





 ですが・・とにもかくにもHフォードもクララがいなかったらどうなってたことやら・・あやしいものです。



H・フォードも労苦をわかちあってくれるクララの献身性は強い実感として肌身にしみて感じてたみたいで

彼女( クララ )のことを敬意と慈しみを切に込めてThe Believer( 僕の信者さん )と呼んでいたのだとか。



そうして

H・フォードをして

「 私の人生の最大・最良の日は、私がフォード夫人( クララ )と結婚した日でした 」

とまで言わしめ

フォード氏は輪廻転生を信じてたらしく

さらに駄目押しで

「 次にこの世に生まれてくるときは何になりたいか?」

と聞かれた際は

「 何でもかまわないが、ただ、妻とだけは一緒にいたい 」と答えたという逸話まで残ってます。

これだけ深く信頼されてたからクララから無条件の愛と献身を返されてたのかもしれないですね。

そうした妻の並々ならぬ協力と献身もあって、心を強められたH・フォードは
クララと1888年に結婚して約12年後の1899年にデトロイト自動車会社を創業しています。


そこからいろんな試練に遭遇しますが彼は決して諦めず、9年後の変化の年である1908年に
名参謀ジェイムズ・クーゼンらの経営手腕もあって、

あの爆発的ヒットになった伝説のT型フォードを見事に完成させ1899年から
12年で大きく飛躍しています。

( T型フォードは、扱いやすく機能的で高品質なのに850ドルという価格でして
当時(1908)としては画期的でした。

 この車は結局360ドルにまで価格を引き下げていまして、
彼の理念と願いのとおり庶民の手の届く価格にしています。
 
 T型フォードは売れに売れ、クララと結婚して
12×3=36年目の1924年には1000万台を突破することになります )





こういった史実に見られるようにH・フォードは嫁さんに愛され信頼され敬われ励まされて
エネルギー状態がよかったことも幸いし

 多くの挫折、失敗や倒産という辛酸をなめ尽くしても、心の尊さ、強さ、清さを失わず、
それをエネルギーに変え得ることが出来たとも言えるのではないでしょうか?



そんなH・フォードだからこそ


「 奉仕を主とする事業は栄え、利得を主とする事業は衰える 」


さらには


「 努力が効果をあらわすまでには時間がかかる。
多くの人はそれまでに飽き、迷い、挫折する 」

「 結果がわかっていなくても前進することだ。
やっている間に結果もでる 」


「 将来を恐れるものは失敗を恐れておのれの活動を制限する。

しかし、失敗は成長に続く唯一の機会である。

まじめな失敗は、なんら恥ではない。

失敗を恐れる心の中にこそ、恥辱は住む 」


こういった言葉が深い体験智として滲み出て語られたのかもしれません。



H・フォードの友人関係を調べてみますと

彼は上司だったエジソンだけでなく、あのルーサー・バーバンクとも非常に親しかったようです。

エジソンも小食で発明のヒントやインスピレーションを感受するために瞑想してたことは、あまりに有名ですが・・

ルーサー・バーバンクも聖者みたいな園芸家でして
H・フォードもエジソンやバーバンクに負けず劣らず

哲人経営者と言ってもいいくらい高潔で
瞑想をたしなみ瞑想で仕事の問題を解決したりすることも多く
簡素な生活をして、なおかつ自身の仕事が大好きだったことでも知られています。

フォードの若き頃( 30代〜40代 )の逸話を調べると・・

サラリーマン時代は昼間働いた後、いくらクララが洗濯しても追い付かない・・
機械油で真っ黒になった作業服に着替えて夜中の2時〜3時まで熱を入れて
「 実用的車作り 」という創作的行為に情熱を注いでますので、
ほぼ間違いなくリピドーを人々の役に立ち、楽にし
世の進軍に貢献する創造的なことに向けて熱変換し変容させてるかと思います。
じゃないとここまで精力的に働けないでしょう。


( それに・・いやいや、やらされてたのではなく、
  自分で自発的に熱意を持って取り組んでたから時間も忘れてたのでしょう )


下手すると徹夜・・そうしてまた会社に出勤っていうのを繰り返してたらしいので
私がやらないで誰がやる・・というような強い使命観に似た動機で
パッションを持って取り組んでたかと思います。





高潔で愛妻家で簡素な生活をして自分のやってる仕事に強い誇りを持ち
好きで好きでたまらなかったのも
クララから深く尊敬され信頼され、H・フォード本人以上に
夫の成功を確信する根拠になってたのかもしれないですね。




 ということで・・

やはり夫婦愛のエネルギーの交流( 言葉、態度、振る舞い )が自然にお互いの人格を創り、心を少しずつ強くする。

その一方で、これがおかしくなると陰陽の調和が崩れ心の積極性にも少なからず影響を与え運気も乱れる。



夫婦愛のエネルギーの交流が心の態度にも影響し円満な場合の仕事や生活にもたらす影響というのは
甚大なものがあるのかもしれない・・また、このよしあしが運気の盛衰に関係するかもしれない例としてHフォードをピックアップしてみました。

 何かのお役に立てば幸いです。



navikan at 23:24|PermalinkComments(0)TrackBack(0)運の研究