ジーニアスQuest

 読んで頂いた方が、心の管理法や目標達成力を培うためのパワフルな方法
   継続力をつけるための習慣化のノウハウ
  や速読など能力開発等の記事をアップしています。     

ブログ記事やメルマガでも、ここ1~2か月は、霊性成長主義および霊性満足の生き方の探求をテーマに書いてきました。尤も上記記事の前半はともかく後半は最早、日本の教育政策に対する愚痴( 公憤だと自分では思いたい )を、だらだら垂れ流す形になってます。ですので後半は読む価値はあまりないかもしれませんけど‥(-_-;)




ですが、そういうのをテーマにして書いたら

「そんな生き方を探求し、そういうのに時間を割いてたら、ただでさえ、日本は停滞し衰退一直線で閉塞感が凄い・・
おまけに新型コロナも変異を繰り返し、まだおさまってもなく健康に対する不安感が拭えない。
経済的にも大変以外の何ものでもない。
しかもウクライナとロシアの戦争は勿論、国内も、いろんな社会問題が浮上して社会不安もすごく世の中騒がしい。
こういう社会状況下で、そんなことに時間を割いてたら<おまんまの食い上げ>じゃないか!!
お前は馬鹿か!!こんな大変な時期に!!」
と御叱りの声を上げる方もいらっしゃるのではないかと思います。

そういう、ご意見も、ごもっともかと思います。



ですが、そういう方こそ、真理探究に時間と生命を捧げた方の生涯を俯瞰するとよいかもしれません。

何か不思議な光景を、そこに垣間見ることが出来るかもしれませんから。


例えば


天風先生なんかも良い例です。

天風先生の略歴をざっと書くと

この御方は1876年生まれ。明治、大正、昭和を生き抜いた哲人です。
正義感はめっぽう強いが荒くれた学生時代を過ごしています。

親すらも手が付けられなくなったので日本右翼の源流で大アジア主義を唱えた頭山満翁に預けられました。

その後に頭山翁の仲介で軍事探偵になり日露戦争で情報収集と後方攪乱などで、めざましい活躍をしたと言います。
軍事探偵として、死すら恐れない豪のものだった逸話がいくつもあるとか。

しかし30代前半に、奔馬性肺結核という当時の不治の病に罹患しています。

それをきっかけに、あれほど強く頼もしかった心が、これほどまでに、ひ弱で卑しく
おっかなびっくりになるのか??
というくらい・・

神経過敏が服を着たようになって、どうしようもないくらいに心がおどおど恐れ惑い

卑しく、ひ弱になって困り果て

心のことで悩み苦しんだそうです。

それでもう、どうにもこうにも極まって難病をきっかけに心の問題を探求するようになり、
そこから哲学的なことや宗教的なことも含めて真理を探求せざるを得なくなりました。


そういう見方をすると病も悪いどころか、長い目で見ると素晴らしく善かったのかもしれませんね。天風先生にとって・・
天風先生は、これをきっかけに、上滑りの浅薄な生き方ではなく
より強く高い生き方を深く模索するようになったわけですから。

それでもって、あまりにもあまりにも心が苦しいし病の不快な症状(喀血、鶏鳴下痢、高熱)も辛すぎる。

脈が気になる。咳が気になる。熱が気になる。病状が逐一、気になるようになっていったそうです。

併せて軍事探偵時代は、死をも恐れないエピソードが沢山ある豪のものだったのが、
世界的な肺の権威であった北里博士から、余命いくばくもないと診断され闘病生活を送るうちに
何故かこの時(この頃)に´ 死ぬ ´ということに対し強い恐怖や不安を覚えるようになったと言います。

それで医学だけでなく宗教や哲学にも頼り、国内の名だたる医学者( 北里柴三郎博士 )や禅の大家、
宗教家( キリスト教の著名な牧師のお一人の新島譲翁 )など

人脈も利用し病が小康状態になるたびに片っ端から尋ね回って体の不調や辛さ、
ひたひたと押し寄せてくる死の不安や心の苦悩、言い知れない苦悩、恐れをなんとかしようとし、
助言に耳を傾け教えられた方法も片っ端から試したとか。

探求の仕方も教養を身につけるとか知的なお遊戯で求めたわけでは決してない。
それこそ、体を張った命がけの探求。

しかし学者や識者、宗教家から教えられた方法をやっても、どうにもならない。
何を試してやっても駄目。

恐らく天風先生(中村三郎)の背景や気質、内的要求に、それらの方法が合っていなかったせいかと思いますが・・

それどころか学べば学ぶほど、むしろ、いよいよ、心が、こんがらがった糸くずみたいになって、
もっと心が弱くなって気も弱ーく、一層苦しくなっていったそうです。

それでもう、どうにもならず、国内がダメなら海外ならどうなのかと考え始めたと言います。


国内はダメでも世界は広い。

海外なら、良い知恵を授けてくれる人もいて、なんとかなるのではないかと、うっすら漠然と考えていた最中に
友人から渡された1冊の本( セルフヘルプ系の海外本 )を読んだ天風先生は、これに、いたく感銘を受けたのだとか。

なぜ、感動したかというと、その本には、「 どんな艱難辛苦に遭遇しても強い心で乗り越えて行く生き様が書かれていたから 」だったとか・・

病はしょうがない。なぜなら、当時の日本では肺結核が流行し若くしてバタバタ死んでる方も多かったから。

それはしょうがない。仕方ないにしろ、生きてる間に自分も、その本に書かれているような、こんな強く気高い心を、元の半分でもいいから取り戻せたらなぁと漠然ながら強く憧れ、憧憬を抱いたのだとか。

そうして肺結核が小康状態になったのを契機に、「 座して死を待つよりは 」と思い立ち
その本を執筆したアメリカの自己啓発作家に会う決意を天風先生はしました。

これは決して惰性や流れで決断したものではないでしょう。
そこには状況をくらりと変える強い意志の発露が、そこにはあったという事でしょう。

なぜなら国法を犯してまで単身アメリカに渡ったし、病の性質から、病状が悪化し外国の地で野垂れ死ぬリスクだって当然あったのですから。
(※なお肺結核では当時においても海外へは行けないです。密航だったそうですが軍事探偵時代のノウハウが役立ったと聞きます)

そうして密航などという方法まで取って、
海外で野垂れ死ぬリスクも高かったなかで命がけの覚悟を持って日本を出て、
やっとの思いで、そのアメリカの自己啓発作家の事務所を訪ねた天風先生。

しかし、その作家に会って、自身の心の窮状を訴えるも・・
そのアメリカの作家の言う事は、「なんでここに来たんだ??」という素っ気ないもの。

しかも、その助言もHow to Sayの域を出ない´こんにゃく問答´。  

喩えるなら、あの一休さんの有名な頓智問答。

「屏風に描かれた虎を退治しろ」っていうの・・

一休さんは、「わたしがつかまえて退治してあげますから、将軍様が、どうぞ虎を追い出してください」っていうの・・それで、堂々巡りになるという・・


自身の抱える心の苦悶や病状の不快感から来る苦しさや強い不安に対し、
( How to Do )一体全体どうしたら病や苦難、不遇に虐げられない強く気高い心をモノに出来るか?
と言う問いに対し



アメリカの自己啓発作家は、自分が本に書いてるように、
ただ「よく本を読め!心を強く持て!持てば、あなたは救われる」と言うばかり

それに対して

「いや、あのですね。それができないから死ぬほど困って訪ねてきてるんだ、こっちは」。( by 天風先生 )

と返すと

「いやいや、本を読め!私が本に書いてることをよくよく読んだらわかるように心を強く持て!
心を強く持てば、あなたは救われるんだよ」( by 自己啓発作家 )

これ以上話が前に進まず堂々めぐり・・

作家の助言は、How to Sayの虎の屏風の中から外へ出られない。

ある意味、一休さんの頓智問答で笑い話にもならない。

(尤も、そのアメリカの自己啓発作家も、日本からわざわざアメリカくんだりまで訪ねてきたのにはびっくりしただろうし、その助言が精いっぱい。いっぱいいっぱいだっただろうけども)


それができないから、学者、識者、宗教家を尋ね回り探求してきたわけで
悩みと苦しみのドツボに嵌って喘いで真っ暗なトンネルを抜けられない自分(天風先生)に対し作家の言う事は
トンネルを抜けたら´雪国´どころか、喩えるならトンネルの中よりも暗黒のブラックホールだったようなもの。

何の役にも立たず絶望し暗闇に突き落とされたと言います。

密航までしてアメリカに渡ったのに、これでは・・
泣きたくても情けなさ過ぎて泣けない、これでは・・

チーンっていう音ならぬ音が心を吹き荒れ、寂寞の風が駆け巡ったのではないかと御察しします。





まあ、私も自己啓発系の本やノウハウ、バイブルや仏典研究などで精神至上主義的探究をしたものだから研究の仕方を間違えて、何をやってもダメダメで・・
それどころかこんがらがった糸くずみたいになって度が過ぎて神経衰弱一歩手前ってとこまでいったことはあります。


いくら頑張ってやっても駄目で悔し涙も出ないという情けなさ、惨めさというのは
天風先生の1/100位は私でも感じることが出来ると思うので・・



それに天風先生の方法を実践なさってる方でしたら、絶望音どころか、意識の持ち方によっては、これは安定打坐の訓練になります。だから、むしろ希望の音ですね。



ということで、もう一度。
 ↓


1日のうちにいくばくかの時間を使って探求に心を注ぎ、その一環として
肉体感覚から来る不安や衝動を鎮め、それだけでなく充実せしめるクンバハカの身体の持ち方を錬磨し
時間を見つけて無我無心(空境)を超えた領域に浸り、つながる時間を、少しずつ作っていけば、
心の安定を取り戻し徐々に心が強くなるのは必定でしょう。



で結局、天風先生はアメリカを発ちヨーロッパ中の著名な学者識者を訪ね回り、聞きまくりますが、ここでもダメ。
 
もう万策尽きて諦めて日本の地で死のうと思い、フランスのマルセイユの港から日本行きの船に乗ったと言います。この時、天風先生は、喜怒哀楽の感情も喪失し能面と言うか
一個の物体みたいな無機物( 生けるしかばね )になっていたと言います。
本当に行くとこまで行ったら、こうなります。

だから、泣いたり辛がったり苦しんだりして大騒ぎしてるうちは、まだまだってことかもしれません。
そうならないほうが幸せに違いないですけど、行くとこまで行ったら、そうなります。
もはや感情が死んで動かなくなるんです。



しかしイタリアの砲艦がスエズ運河で座礁したことで、天風先生が日本に帰るために乗った船が通れなくなりアレクサンドリアで一時停泊しました。

一時停泊したことで、「アレクサンドリアからエジプトは近いよね」。と言うことになり船内で、たまたま知り合いになったフィリピン人からの強い誘いがありエジプトのピラミッドを見に行くという話になりました。

このあたりの話も興味深いのですがフィリピン人の友人にピラミッド観光を誘われても
天風先生は気が乗らなかったのだとか。

そのピラミッド
   ↓


スフィンクスですら全長約75m、高さや幅が約20m。

ピラミッドに至っては高さ約150m、基礎の一辺約230m。
1個の石の重さは平均2.5トン。約230万個の巨石が使われたと言います。

こんな大きなお墓が紀元前のプトレマイオス朝 クレオパトラの時代ですら、既にあったって言うんですから驚きです。

やや脱線しました。


で天風先生が、ピラミッド観光に誘われても

そこに観光に行くのに全く・・微塵も気が乗らなかったのは、なんでかと言うと、


もうどうせ、すぐに死ぬ身で、世界的な肺の権威の医者に余命宣告までされてる身・・

もう間もなく墓に入るような人間が、でっかい墓のピラミッドなんか見に行ってどうする‥
・・と思ったからだったとか、


しかし、旅で仲良くなったフィリピン人があんまりにも強く誘うので、
どうせ、間もなく墓に入る身なのに・・という気持ちだったのが、すっと動いて行く気になったそう。


いやあ、旅の中で、たまたま知り合ったというフィリピン人・・
これは本当に歴史的偉業!!ナイスジョブです。


そうしてカイロのホテルでインドの聖者と僥倖とも言うべき運命の出会いを果たしています。





このあたりの逸話も面白くて、ピラミッドを見に行く前にカイロのホテルに行って、
準備のために泊まったら朝方に急に体調が悪くなりホテルの室内で大喀血しヘロヘロになっていた。

体調も崩し大喀血。惨めさも極限の更に極限に至ってたのに

実は天は見捨てておらず、思いっきり近かったということ。
ここは大きなポイント(の一つ)かと思われます。

ひたむきに求め取り組んでも挫折をくり返し惨めを通り越すだけ通りこして、
希望はなかったけれども、それでも決して恨んだりせず無の状態にしていたら
ご本人にとって僥倖が近づいていたってことです。

天風先生みたいに使命が大きい方の場合は、試練も途方もなく大きいという事もあるでしょうけど。

それに天の演出ってすごいと私は思っています。

そういう挫折や惨めさ(心の痛み)を通り越した極限の心境に至って、明け渡すような心境に至ってないと、

聖者と会っても・・多くの方( その他大勢 )がそうであるように・・いわゆる深い出会いができるわけもなく

スパークし、付いて行こうという気も動かなかったと思いますから。

聖者に只会うではなく深い出会い方ができたというのもあるでしょう。

( その御蔭で、私を含めて何十、何百万人・・これから未来も考えると、
< 実践の熱心さにもよりますが >日本人に限らず海外も含めて途方もない数の方が助かる可能性を拓いたと考えると感慨深いです )

そうして、大喀血し、ぐったりしていたら、それをホテルのマネージャー( アメリカインディアンで大きな背丈の人物だったとか )が、
ぐったりしている天風先生を見て、スープでも飲めば治ると、
天風先生を、ひょいと抱えて連れて行かれたホテルのレストラン。

そこで聖者と英語で会話を交わし天風先生は不思議な強い感銘を受けました。
( このあたりの不思議ないきさつは「成功の実現」をご参照ください )

そうしてインドの聖者の誘いに応じ、カイロから何か月も旅をしインドの山(カンチェンジュンガ)のふもとに入りました。( インドに入った事すら天風先生は当時知らなかったとか・・ )

そのゴルケ村でインドのヨガ聖者は、到着して(すぐに)教えるとかいう事は決してしないという戦略で天風先生を導いたそうです。 

聖者は、敢えて「 すぐに教えないことで 」これまでの既存の知識を脇へ追いやり自負を捨て頭を真っ新にして
素直になることを自然に悟らせたのだとか。


これはインドで新約聖書のマタイ伝9章16節から17節の教えを、天風先生は生身で体験したってことになるかと思います。キリストの教えだからヨーガ哲学とは全然宗派は違うけれども、本質は同じということなのでしょう。


こうしてゴルケ村で厳しい瞑想修行と食事指導を施され清廉な慎ましい生活をした天風先生は、聖者とのちょっとした会話や問いかけに対し滝つぼの脇で瞑想しながら深めていく中で
漸次、真理を悟っていきました。

天風先生は聖者に出会って3年のうちに、あれほど弱く迷っていた心が
聖者のとりなしと、ご本人の強い意志さらには聖者の指導による深い瞑想によって
根源にふれ心がわれの生命用具であることや心の目的を感得し心身を生かす生命原理を含めた見えざる真理を体で漸次悟ることができました。

それによって心が蘇っていき、少しずつ薄皮を剥がすように立て直されていき
心の持つ本来の力を取り戻して、これまでの悪い生活習慣による、苦しみと煩いの多い、
よくない運命に修正が加えられていきました。

副次的に心の持つ本来の力の一つである自然治癒力も昂進し不治とされていた病が奇跡的に癒えるという劇的体験もしています。

私は別に病は治らなくてもよかったかもしれないと思っています。
ある意味では不謹慎な物言いかもしれませんが・・・

なぜなら、そもそもの天風先生の動機も自分の心が、なぜ?こんなにも弱く卑しくなったのか?
ということであり、そこに深刻な問いを置いて心や生命の問題の解明をしてきたし、それが第一義。

天風先生は病を治すために命を張った捨て身の探究をしたわけでは決してなかったからです。


その後、天風先生は、インドで聖者の直の指導と自らの意志による弛まぬ克己と探求によって
真理を悟って帰国後、飼い馴らされていない「 殆ど野生状態の虎( 3頭 )の檻 」に入って、
虎の頭をポンポン叩いても全然大丈夫だったそうです。

で、その時の写真まであるとか。

一般には、ガブリとやれちゃって、とてもとても無事では済まないとか・・
バイブルの旧約のダニエル書で獰猛なライオンのいるほら穴に投げこまれても、平気だったダニエルみたいですね。



で、話を天風先生に戻すと

天風先生は、不治の病が劇的に癒えて、飼い馴らされてない「 虎の檻 」に入っても
虎から危害を加えられず檻から無事に出てこれる虚心平気という相対積極すら超越した
高次の高い境地と高い次元の心の強さを内側に見出し、つながりを強めています。

ですが、そういう心の強さを取り戻し高い境地に至ったとは言え、

奔馬性肺結核は劇的に治っても長引いた病の後遺症で、先生の肺は、ぼろぼろだったとか。

普通は、たとえ治っても肺の片方がボロボロで後遺症もひどいから倦怠感も酷いだろうし
体調だって優れないことも頻繁にあったことでしょう。

それを気にして苦にして心が、そこに囚われ暗く弱くなり、こんな重い後遺症を抱えて、倦怠感も酷いから、
もうどうせ駄目に決まってる・・と人生生活に希望を失い自棄になって停滞するのが一般的ですが・・

肺の機能が劣化して重〜い後遺症を抱えた、あんな体で、あれだけお元気で
バンビのように全国を飛び回って口演して90歳以上まで、ご存命でおられた。

これは天風先生の公的な強い理念と、ご自身が長年の探索で解明した肉体及び精神(ひいては人格の成長や円満化のため)に施す系統的で秩序だった実際方法が、凄い方法であることを生身の生活で証明しています。

言い換えるなら肉体及び精神生命への一体的溶け込ませと人格の向上に向けた積極的訓練が、

ボロボロな肺で重い後遺症を抱えていても自然治癒力を維持せしめQOLを保たせて、
肉体を強靭にせしめながら肉体で生きるのではなく、
いわゆる「 見えざる気で生きる生き方 」を支え不要残留本能を抑制し本心良心に根差した大らかで思いやり深い霊性(心)を耕し磨き太らせ強めたということかもしれません。

しかも解明し体系化した実際方法は
精神修養団体などにありがちな、こころの訓練のみに偏ったものではありません。

肉眼の眼には見えない心と繋がった目に見える体も秩序的かつ訓練的に心の積極化と併せて訓練的に積極化させ生命生存力自体を底から強くし蘇らせると申したらよいのか。

この御方の公的な理念と解明した体系が、いかに優れているかが判るというもの。

尤も熱心に実践しなけりゃ絵に描いた餅になるけど、
どこに原書があるかとか、メイン・サイトで、こっちは、ほんと、あれだけ苦労して阿保みたいにページ数を使って、
心の奴隷になって苦しみや煩いが増し、人を退転させ生活が荒んでしまう根本的なとこの原因( 意志力が弱って心に振り回されどつぼに嵌る3つの原因 )や
最も大事な対策に重点を置いて明確化を図りながら苦労して誘導してるんだから・・


方法や方針を知ってるか知らないか?
また、そういう苦しみ多い悪習慣からの脱却の秘訣を大きな視点で知って
生活を少しずつ立て直し廉潔にし、充実させ、よりよくせしめ、
脳力開発や人格錬磨( 人格の向上 )もなすヒントを知ることが出来るだけでも全然違うでしょう。
個人差があって全員とは決して言わないけど、真っ暗闇の中で取り組むより少しは高まるはず。
長年研究し第三者の報告からも奏功が確認できたものの幾つかを公開してるんだから。
( 尤も課題は人それぞれでしょうが )



という事で、ゆるりと本題に入っていきます。続きの記事については

※なぜ、お金さんたちに好かれるのか? 天風先生を例にして



霊性成長主義および霊性満足の生き方の探求とお金のこと (続き)を、ご覧ください。
長いので分けました。

失敗するのではないか?徒労に終わるのではないか?うまくいかないのではないか?
こういった恐怖感、不安は、誰にでもあろうかと思います。



人前で恥をかくことを極度に恐れ、世間(周り)を気にし和を尊ぶ傾向の度が過ぎると他者の内的感情を、あまりに気にし世間にどう見られているか?という面子や外聞を基準とし、思考を束縛されがちになります。

人類学者のベネディクト博士が指摘したように「恥の文化」が根強い日本人は指針を「世間」という、わけのわからない流動的な何かに委ねがちで、漠然とした不安、恥をかくことへの恐れは、ひとしおでしょう。

世間を評価の基準にすると、世間自体が移ろうものだから内的に安定しないのは、当たり前なのですが・・

世間の目を気にしすぎてブランドものに漠然と執着する方もいると聞きます。




尤も、良い面もあろうかと思います。

和や集団性を大事にするというのが根っこにあることで日本人の震災などの大きな災害時の秩序正しい振る舞いは世界的にも評価を受けていますから。


しかし、あまりに度が過ぎると問題が生じます。

変化しやすい世間の目を気にしすぎている人は、恥をかくことを極度に恐れ面子にこだわります。

そうなると、生産的で価値高い創造的なことに向けて精いっぱいの力を出し切れません。

純粋な喜びを味わうことが出来なくなっていきます。

時間や、自らの能力などの、自分の内的資源を(出し切れず)出し惜しみをしたくなくても、すり減って自律神経も調子を崩し防衛本能が働きセーブしがちになるからです。

そうして漠然とした説明困難な恐怖感や不安のために、その消極的な思い方の慢性化で
心とも繋がっている、自律神経をすり減らします。

それが度が過ぎ慢性化し器質的に神経過敏になると、

神経系統の不調が(神経系統に繋がった)胃腸の消化や循環器によくない影響を与え心の働きに消極的な形の影響を与えてしまいます。

併せて時間や脳力を無駄な心配や不安回避に使いたくなくっても使ってしまいがちになるというジレンマに陥ったりします。

しかし、そういう心の使い方をした時間というものは、ただ神経を少しずつ消耗させ疲れるだけで、決して本心、心底から喜んで、そのような時間として使われているわけではありません。

漠然とした恐怖感や不安、取り越し苦労のために使われる時間は、これを鬱々と惰性でしている本人を漠然と訳も分からず消耗させ疲れさせ、べっとりしたような後々に引きずる不快な疲れを残し悪循環に陥らせます。

これは、スポーツをした後のような爽快な疲れではありません。

スポーツの後では、快い疲れと、快い眠りがありますが、

漠とした恐怖感や不安の惰性的習慣が惹起した疲れは、心地よい眠りを妨げます。


これを根本から治すのは意志の力を渙発させて心の態度を積極に誘導できて潜在勢力を湧出させることを可能にする心身統一法の実践研究、研究して実践、実践して研究の反復が方法(ルート)のひとつですが

息をめいっぱい吐き出しながら

心にある鬱々とした言い知れない不安や悩みを紙に移すのだという意念を持って

就寝前に、言い知れない恐れや悩みを、´ことば´(言の葉)にしようと努力し、書くということ。

ただ紙に書き、心にある悩みを手を介して外部の紙に移して、それをゴミ箱に捨てるということ。

たったこれだけでも、内にあった悩みを外部に出して、かつゴミ箱に不用として捨てるという象徴的な行為になるので、幾ばくか心は軽くなると言われています。

これは写経にも似た効果が、それ等の行為にあるからでしょう。

漠然とした悩みで何も書けないほどきつい時は、「困ったことは起こらない」と紙に書いて、そのまま眠るように心がけるだけでも幾ばくか心は軽くなるとされます。

これを精神科学的に分析すると、そう書くことで、心が積極的な想念へと誘導されるからでしょう。

京セラとKDDIという2つの世界的な大企業を創業し2010年にはJAL再建の陣頭指揮も執った稲盛和夫氏は「生き方」という著書を著わしています。

なお、この書は、時代に合わないとして書評でも強烈に批判を受けている等、批判コメントも一部あり、背景や立場で、いろんな意見があるようですけど、私は、客観的に確認し、議論の俎上にあげることができるものもあるだろうと思ったので今回取り上げてみます。


稲盛和夫氏は「生き方」の著書の中で日本が明治以降40年周期で盛衰を繰り返し大きな節目を迎えていることに言及しています。
グラフ化すると以下のようになります。

   ↓
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同書の40年周期説の記述部分を引用してみます。

(以下引用)

日本という国は近代に入って以降、約40年の周期で大きな節目を迎えてきました。

(1) 1868年−それまでの封建社会から脱し、明治維新によって近代国家を樹立。
「坂の上の雲」をめざして富国強兵の道を走りはじめる。

(2)1905年−日露戦争に勝利。世界の列強に仲間入りをし、国際的な地位を飛躍的に向上させる。以後、富国強兵、とりわけ、「強兵」の方向に傾斜し軍事大国の道をまっしぐらに突き進む。

(3)1945年−第二次世界大戦に敗戦。焦土の中から今度は「富国」の方向へと大きく舵を切り、奇跡的な経済成長を遂げる。

(4)1985年―日本の莫大な貿易黒字に歯止めをかけるべく、円高誘導、輸入促進を目的にプラザ合意が結ばれる。このころ、日本は経済大国としてのピークを迎え、バブル崩壊後は、現在まで低迷期が続く。

この40年ごとの盛衰サイクルを見てみると、私たちの国はこれまで一貫して、つねに物質的な豊かさを追い求め、他国との競争を繰り返してきたことがよくわかります。
ことに戦後は、経済成長至上主義のもと、企業も個人も利や富を求め、それをふやすことに熱心でした。

(中略)
それは、欲望という煩悩を原動力にして、優勝劣敗の競争原理のもと、物質的豊かさを最優先させる覇道の哲学といえます。いわば「利を求めて道無なし」であり、そうした国のあり方、個人の生き方から、私たちはまだ抜け出ていません。

しかし、そのような価値観だけでは、もはやたちゆかなくなっていることは明白です。 (中略)
国や自治体の財政赤字の増大、遅々として進まない行財政改革、少子高齢化に伴う社会活力の低下など、その兆候はすでに明らかになっています。

このまま手をこまねいていては、次の四十年後の2025年ごろには、希望的な将来像を描くどころか、国そのものがほろびてしまいかねない危機もはらんでいるのです。
いまこそ経済成長至上主義に代わる新しい国の理念、個人の生き方の指針を打ち立てる必要があります。

(ここまで) 生き方 (サンマーク出版 稲盛和夫著)p199〜201抜粋引用


この本が出版されたのが2004年ですから、出版から、すでに20年近くたっています。
稲盛氏がご指摘の大きな節目の2025年まで、あと3年まで迫っています。

もちろん、これも仮説にすぎません。間違えているという可能性もあるにはあると思いますが、この言説(仮説)が仮に正しいとして考えを進めてみます。

グラフなどで照合しながら追っていくと日本は120年前にあった幕末の外圧による混乱と急激な産業構造の変化による幕末期の停滞。

さらには打開に向けた幕末維新の混乱期を経て明治の「発展期」のサイクルに入ったように
1985年以降、約40年に渡る低迷から混乱及び落ちるだけ落ち切った、どん底のどん底期の痛みや閉塞感を経るという事。

これは不可避かもしれませんが2025年頃からは、まっさらになった処から謙虚になって立ち上がり
新しい飛躍のサイクルに入ることも微かな光明として残されているという読み取りも出来ます。
尤も著者の稲盛氏は、やや悲観的です・・私も、このままでは日本は危ういとは思ってますけど

なお、この件については、あの中国でも話題になったことがあり記事化もされています。

日本の盛衰は40年周期だと?本当なら次の勃興は「間も無く」だ=中国

日本は、いろんな外圧や摩擦に曝されながら、時に打ち砕かれても、まっさらになったところから立ち上がって
新しく出発することで、これまで飛躍、再浮上を遂げてきたように私は思っています。

確かに今の世論では日本は衰退一直線という悲観的な見方が多勢を占めており、
そういう雰囲気や閉塞感を指摘する方が大半です。
復活のルートが狭い道なのは間違いないでしょう。

ですが、私は敢えて、この多数世論に別の角度から論を進めるつもりです。

勿論、このままでは日本は非常に危うい(瀬戸際)というのは認識しつつも、そうとはいえ復活の兆しが日本に全くないわけでもないし、ごく僅かとはいえ、その微かな兆候を見つけることも出来るからです。

例えば資源の面では環境への配慮や国際的なルールに則った開発が求められるとはいえ日本は、海洋技術分野において高い技術力と競争力を持っており海底資源大国になる可能性があるということ。

技術分野においても日本が開発した半導体製造の新技術「ナノインプリント・リソグラフィ」やダイヤモンド半導体etc

衰退一直線と言う言説が多勢を占める中で、微かな光明がないとは決して言いきれません。



何れにしろ、稲盛氏が、その著書でも主張なさっている経済成長至上主義に代わる新しい個人の生き方の指針というのは、

経済を「 霊性 」と言う言葉に変えてやるという事

そうしたらどうなるかって言うと

霊性成長至上主義になります。


で、この生き方は、別に私が主張したものじゃありません。

天風哲人が、すでに100年以上前に提唱している霊性満足の生き方を指針にするということになります。

この命の生かし方の探求をスローガン、合言葉に一人一人が自らの霊性に向き合い取り組むことが、長い長い真っ暗なトンネルを抜け閉塞感という淀みを吹き払って日本が幸せな形で新しいサイクルに参入する級長戸の風になるのではないでしょうか?

近年は従来の「宗教」の枠組みを超えた特定の団体などに属さない形の
新しいライフスタイルの探求とかも秘かなブームになっています。
例えば断捨離など。近藤麻理恵さんのお掃除本も話題になりましたよね。

そういう趨勢のなかで感覚や感性すら超えた「スピリチュアリティ(霊性)」に関心をもつ人々が少しずつ増えています。

そういうのも後押ししてくると思いますが

そのためには何でもかんでもお金に換算するような考え方は出来るだけ止めるということ。
( 自分への戒めも、やや込めています(;^_^A )

そうして(人間の矛盾性<葛藤>の温床である不要残留本能が嫌がるほうを選択して)かつ本心・良心の気咎めを受けない生き方や自らの霊性に向き合い、
その成長に高い価値を置くということ。


尤も、霊性心を渙発せしめ、本能心を抑え理性心との統合を図り総括的に心というのをコントロールし本心良心(霊性心)の求める生き方が本当にできれば宗教(や哲学)など生まれてないって言うことも出来るのかもしれません。(天風先生の言葉を借りれば・・ですが)

それができないから、宗教や哲学が生まれたかどうかの議論はさておき、


それを実行しようと発心しても
はいそうですか!って行かない哀しい現状が私達にはある。


心に後味の悪さや後ろめたさを感じさせない情け深い思いやりに根差した自己成長や他者配慮などの霊性成長の生き方というのは、口で言うのは簡単ですけど・・・


世相や長い間のわるーい生活の習慣の惰性軌道があるため、これを変えるのは実際は難しいのかもしれません。


なんで、本心良心そのままの生活、生き方が出来ないのかというのをかみ砕いて説明するなら


それぞれの国の歴史性も帯びているとは思いますが、こと個人史で述べるなら
長い間のわるい生活の習慣の惰性軌道が本心・良心を覆っているのと、本心良心(霊性心)の力は純粋なのですが進化の最終段階で形成されたもの故なのか未開発・・

これが最大要因という事が考えられます。

ところで、まだまだ一般の方には流布していないものの天風先生の本などをよく読んでれば、もはや当たり前のことですが

長い間に培われた悪習慣やマスコミなどの世相の影響を受けて自我を支える思考の奥底の潜在意識領が汚れると、後述する不要残留本能が力を増し
不要残留本能が嫌がっても霊性心が喜ぶことを選択する際に

断行する権力のある意志の力が弱って、長い目で見てよくない判断になりがちだし

感覚を取り次ぐ感応性能が調子を崩し心が新鮮な喜びを感じなくなります。


( 潜在意識意が汚れて不要残留本能が勢力を増し )
心が消極化すれば、それと繋がった自律神経だって調子を崩していきます。

そうしたら体調も、なんかおかしくなるでしょう。




これまでの悪習慣で蒔いてきた悪因縁の種や世相の影響。

また人間関係を含む外界の影響(周囲の消極言動やら見たり聞いたり読んだりするもの)の感化などで、これらに対し何も対策せずじまいですと知らざる間に潜在意識が消極化されて、
不要残留本能が肥え太る生活をすると、長い目で見て生活によくない結果をもたらします。



(人は一人では生きられず、お互い影響し合っていますから、世相の影響は必至でしょう。)


大概の方の心の王国が、どんな感じになってるかと言うと

不要残留本能と結びついた本能心は、疎外感を感じた時に発動しやすく
わがまま、攻撃衝動などに、本心良心は虐められ、虐げられ、心の王国は乱れて荒れた国状態というのが現状のようです。

長い間のわるい生活習慣の分厚い壁に阻まれて本心良心は擦りつぶされており、

不要残留本能心からの「忠告するな!!感覚や感情の赴くままに、長い間のわるーい生活の習慣のとおりに、やりたい放題、わがまま放題にやらせろ!」という横暴な主張が心の王国でされています。

これによって霊性心(本心良心)は悪習慣の種の発芽によって、よくない生活の結果をもたらすことに対し警告をしてるのに、正義面するな!!とイジメの標的にされて、心の王国内で、ぼっこぼこにされ立場を失っているような状態です。

ですが、(本心・良心<誠に人間らしい霊性心>は)、ぼこぼこにされても人倫の道に背いたり、あるいは生命の質を高め人を高い次元の幸せに導く進化向上の大原則の軌道から脱線しないように大賢者、最高位の神官のように力は強くなくても「警告」を常に発し続けてくれる尊く有難い性質を有しています。
本心良心は、ひょっとしたらユングが沢山の人を診察する中で、おぼろげに知り得た「 集合的無意識 」という世界の人々に共通した感覚として共有される道徳観や倫理観をささえ、私たちに人の道を命ずる規範よりも、さらに深いところから発露するものと言えるかもしれません。

どちらにしろ進化の最終段階で形成されたもの故なのか力は強くないですし

大概は、歴史的な背景もあり、長い間のわるーい生活の習慣に押しつぶされ、強くないのに、
更によくないことに、その力を封じられているという実態もあるように思えます。

何に封じられているかというと先にも述べたように不要残留本能という心の王国の暴君に。

その一方で原始的な古皮質由来の脳領域とも結びついた不要残留本能は、肉体と結びついて生存本能との繋がりが、より濃厚で、理屈本位の理性心は勿論、人の道を命ずる規範としての本心良心に比べても強い力を持っています。

尤も本能にも必要なものがあります。

人間生きる上で食べなきゃ死んじゃうし寝ないと死んじゃいます。種の保存のための性衝動だって、これがないと人間は絶滅してしまうでしょう。
( 尤もヨーガ聖者の中には、食べないで光と水だけでも、何十年も生きていけた聖者も実際にいらっしゃったようですけど、それは例外中の例外で、私たちが参考にするには、あまりに遠い存在でしょう )

それに勿論、度が過ぎると弊害が大いにあるから人間は、歴史的に、聖哲と言われる方ほど、不幸を退け精神的幸福を求めるのに、その統御に悩んで死ぬほど苦闘してきたという個人史があります。

例えばバイブルなんかをチェックすると見方によっては3000年以上前の預言者のモ―セ(出エジプトのリーダー)の時代から、その戒めの半分位が、´不要残留本能心の陶冶´←これにあてられてるようです。
そういうのは意識せずバイブルは読んでいたんですが、そういうのに注意して改めて分析してみたらビックリしたことに不要残留本能の発露で生じがちな行為を戒めるっていうのが10の戒めのうち半分くらいを占めていました。

これは裏返せば人間は、その陶冶に歴史的に悩んで苦闘してきたという事になるでしょう。
一筋縄では行かないことは、このことからも明らかでしょう。

なかでも原始本能に由来し、お猿さんみたいな原始人で法もない原始時代には、無法地帯と言ったらよいのか、未進化の猿山のボス猿よろしく闘争本能を掻き立てて、やたら羨んで喧嘩をふっかけて暴力的に縄張りを奪い取ったり、度外れな淫欲とか、分をすぎた所有欲とか・・

マンモスを追いかけてる時代なら、こういう自然な要求に沿う低級な欲( 要するに闘うか逃げるかの二択。専門用語では交感神経を興奮させて働く闘争と逃走 )に向かう本能心があったほうが、そりゃあ生き残る確率は高いでしょうし、そういう本能心でないと我が身というか肉体を守ることが難しい未開時代なら、これは重用されざるを得なかったかもしれないけど。

だけど時代が進むにつれて、無法な状態から理性が高まって秩序と調和を求める法治国家になっていき知性と霊性が少しずつ高まるにつれ適者生存法則に合わない・・時代が進むにつれ人々が求める自然な欲求も少しずつ高級、高度化し、より高い次元に変容していくにつれ、先の猿山のお猿さんみたいな低劣な原始人の本能的欲求や、そういう方面に働きやすい心の傾向は、むしろ、これが強いと不幸に向かいがちで不要になっていく。

共同体とかクニ(国)で暮らすなかで生存本能のうち時代が進むにつれ、漸次、そういう本能は不要になっていく。
自然な要求にそれぞれが沿うにしたって当の自分だけでなく他人の求める幸せをも、ぶち壊す可能性があるのに未だに根強く残渣としてあり、人の矛盾性の温床になっている(実に厄介な)人の本能的機能。

これが不要残留本能というものです。

この本能は、先に紹介した原始時代なら生き残る確率を上げ人類の生存戦略に適っていたけど
時代が進むにつれ、今は、むしろ、これがあると適者生存法則に合わず、かえって争いを生み
心を悩ませ人を不幸にする心の働きになっていると言うことも出来るでしょう。



そして、そういう不要残留本能の要求が、あまりに強い方の場合の陶冶は、内弁慶も含めて激情型過ぎて暴れ馬の調教と申したらよいのか、
この不要残留本能は、疎外感や空虚感を感じた時に発動しやすいようなのですが、これは理性心をいくら培養したって本能心には勝てないので、ほんと難しくなっていきます。

やたらめったら人を怨んだり、意味不明にキレたり嫉妬したり、復讐念をやたら燃やすとか、
ヒステリックな攻撃衝動とか分を弁えない劣情とか、やたら羨んだり、分をすぎた所有欲とかに執着するような方がいたら、その方を想像してほしいのですが・・・

そういう方は、不要残留本能の働きを鎮める術を知らず疎外感に抗する力を持たず
比較意識が強すぎて、この働きが強大すぎるから、そうなってると観る見方もあるかもしれません。

生存本能のうち進化のプロセスで不要になった不要残留本能(心)が、彼ら(彼女ら)をして
そうさせているのであり、これが強過ぎて臆病な自尊心などを抱えている激情タイプの方(内弁慶を含む)の場合は自己陶冶は本当に容易ではないという事。


その反対に、霊性満足の生き方の探求や霊性の成長に価値を置く生き方の理想モデルを探したら、
結局のとこ天風先生になるでしょう。(現実に根差したリアリズムにも優れていたし)

なお霊性の成長主義や霊性満足の生き方を探求するのだって、注意点があって

天風先生のようにリアリズムで強く生きる生き方や方法を知った上での合力で霊性の成長の生き方を探求する必要があるのかもしれません。


なぜなら、例えば宮沢賢治なんかも調べるにつれ不要残留本能を法華経の信仰などで文学に昇華したり削る努力をたゆまず為さった生活痕跡があり霊性の成長やその満足を探求した方のように私は思っています。

勿論、宮沢賢治が純真で童心をもちつづけた人でファンタジー一色だった人などとは私は思っていませんが・・いかんせん、リアリズムの中で強く生きる術や狡猾さも知らないと・・

なんと言いますか周りの不要残留本能が削られてない本能階級や理性階級で、ずるがしこい方面の狡知には長けている、ある意味「狡猾で横暴的に強い人」に裏切られたり圧迫されたり、いろいろあったりして境遇が厳しくなるというリスクだってあるからです。
( 正直者は馬鹿を見るみたいな・・・(-_-;) )

とは言え誰にだって、そういう不要残留本能(心)発動の芽はあって、過ちを誘発する因子になるわけですけど、これは、いろんな要素が重なれば肥大化する可能性は誰だってあって、行きつ戻りつの生活をしているということかもしれません。

ほんと、我ながら、こんな偉そうなこと書いてる私だって例外では決してない。条件が重ならないように削る心がけはしてるつもりですけど・・例えば不要残留本能が嫌がる冷水行とか・・)

また不要残留本能から来る先の激しい復讐念とか度外れで際限なく求める物欲・・これらを満たすことによっても脳の報酬系を刺激し喜びは一応、一時的に得られます。
(ただし欲を満たしても虚しかったりmore&moreの渇欲になりがち)

それに対し高い次元の霊性満足の欲。これは、煩悩に根差した低劣な欲を満たすことによって得られるものと違い、それらを転換、昇華できる欲でもあり、この欲を満たすことで、しずしずした、長続きする健やかで爽やかな涼味と甘い快さが混ざったような甘露。これを心に与える欲の満たされ方になります。

この欲は情け深い思いやりに根ざした行為を誘い促すので、そういう行為を行うことで生まれたプラスの波動が不要残留本能の発露を鎮め心(の深い所)を洗って、これまでの悪い生活で蒔いてきた、よくない種が発芽し悪い結果をもたらすことを和らげ弱める作用もあります。

併せて霊性の成長進化をも促し人として普通の心の強さを取りもどすことを促すとされています。

(インドの聖者の本に書いてることに、自らの体験や内観で感じたことを被せながら書いてるので念のため。独断では書いてないので‥)

例えば、霊性の成長を促し霊性満足の欲を満たすことに

正直で親切な行為等を結果的に行った等があります。
あるいは、原則に沿って誘惑を避けたというのも霊性満足を満たすことにつながるでしょう。


誘惑を避けるというのでは、インドのヨギの本なども本心・良心の発動の参考になると思いますので、ありふれた平凡な事例ですが、一部引用しながら紹介してみます。
(ここから)

例えば、ある婦人が友人の誘いに対して、
「 今夜の外出は夫が喜ばないと思うので失礼します 」と言ったとします。
 この場合、彼女の心配は愛から出たもので、これは建設的なものです。
 建設的な心配と卑屈な心配とは違います。
 愛から出た心配は、他人を不必要に傷つけまいとする心遣いですが
 卑屈な心配は、自分の意志の力を麻痺させます。

  
 ( ここまで 「人間の永遠の探求」パラマハンサヨガナンダ著 から抜粋引用 )

上記で引用した、ありふれた事例のなかで出てきた建設的な心配
これは根っこのとこで本心良心(霊性心)が発動して、そのように促して、集合無意識より深いとこ(空の領域)から潜在意識領を経由し表面意識領に躍り出てくる際には建設的な心配という連想形式に変容していると見ることも出来るかと私は分析しています。

(尤も、その垂直的な直ぐなる警告、忠告を無視して、不要残留本能由来の一時的な刹那の快楽の暴君が本心良心を虐めて縛り上げて、そういう些細なきっかけが、悪因の芽を育てて、後で、泥沼の大変なことになってしまうルート(世界線)に向かう方もいます。ヲタク用語を使って申し訳ないけど・・適当な言葉が見つからないので・・

本心良心の有難い忠告を無視し虐めてなかったら、上記で引用したように平穏無事で済んでメロドラマにもならないことが、建設的な心配という本心良心を無視し、けとばしたばっかりに平穏無事な人生生活を取り戻すのに多大な犠牲を払う方も出てきます )

また空領域を経由して出てきて直覚的閃きを伴う本心良心(霊性心)が発動した親切ってのは親切にしようとしての親切ではなく結果的親切(衝動的親切)と言ったらよいのか、脊髄反射的親切と申したらよいのか・・
後付けの親切と申したらよいのか・・自分の体験に根差した言葉で表現すると、ほんと陳腐化してしまい読者に申し訳ないですけど

こういう霊性心を満足させる欲、あるいは誘惑を避ける等の場合は、誇りと共に結果的な親切の行為が心に刻印され積極的な想念記憶にもなって心の深い所を洗って不要残留本能の発動を一時的に抑えてくれます。

親切にしようとしての親切ですら実行出来たら、その刹那に何か清々しく感じ心が嬉しく、心を軽くする感覚を、生命用具の心が、しずしずと感じますよね。

これが閃きにも似た結果的な親切だったら、その行為によって、その刹那に生じたプラス波動は心の奥座敷の浄化にとって、その強さは尋常でなく、もっと強力に心を洗ってくれるという事です。
( すぐさま、引用は出来ませんがインドのヨギ聖者の本に1文だけ、そういう内容の事が書かれていました )

また心を軽くする積極的な観念形成の材料にもなってくれるようです。
尤も、こういうのは何らのドラマ性もない。こういうのは昼のメロドラマでは決して扱えない‥と言いますかドラマにならないでしょうけど・・・


しかし、こういうある意味、人として、当たり前の霊性心を満たすことを強く決意し心がけること自体、年を経るにつれ忘れると申しますか、


個人の問題としてなら、これまでの生き方に変更を余儀なくされる切羽詰まった状況に追い込まれるとか、あるいは人に恵まれないと、そういう生き方があることすら忘れて過ごしがちで最初は、この欲は燃えにくいってのがあるみたいだからです。

自我なんてのも年を取ったって他人との交流で培われていくから、どういう人と出会い、どのような交流をするか、その交流の深さで考え方も変わっていくでしょう。

また、たとえ、そういう生き方があると知ったとしても、社会が複雑化し価値観も多様化してるから、自分で道を切り開いて生きろと言われたって、情報や選択肢は多数だし、相当に難しい。

よほど志を強く持って、原書に近い情報をもとに学んで系統的な方法を心身に施し、
自らの意識の流れを世相に、ただ流されるままにして放埓にしないように
潜在意識の薫習を含む内的な自己鍛錬に努めないと・・・


大抵は世相に流され、油断すると鍛錬してる方だって長年の悪習の芽が育ちやすいし当の本人個人の潜在意識もマイナスに染まりがちになるのは、実態としてあるようです。(自分への戒めも込めていますけど)

ゆえに進化向上、真善美の探知機で思惟を超えたところから閃く本心・良心(霊性心)は、
疎外感対策を放置された心の王国内で、不要残留本能心という暴君の下敷きになって、(本心良心は)大賢者なのに、捕縛され、もがき苦しんでいるのが哀しい現状と言えるのかもしれません。

もう一つの視点は霊性心(本心。良心)は素晴らしい英知の本源、妙智を伴うインスピレーションにも転化し、あらゆる面の飛躍の泉源にもなり得ると考えられるのですが
これまでの長い間のわるーい生活の習慣由来のよくない結果をもたらす種が表面意識の奥の潜在意識からお掃除され、

かつ不用品のガラクタが整理されないと分厚い蓋がされている状態で理性心や本能感覚と結びついた本能心を超えた領域から出る本心良心は不要残留本能心の圧政に虐げられ牢獄に繋がれ、その力を奮えず未開放のままになりがちということ。


自分が‥自分さえという意識が覆いかぶさっていき・・(霊性心は、その対極の意識なので)
その優れた力を振るえなくなるというプロセスを経て力を失っていきます。

※自分が自分さえという貧しい心ではなく豊かな心、公的意識とかにも転化し得る本心良心の力を強めるには、長い間のよくない生活の習慣を変えて、良い習慣をつけていく高次の意志力を渙発すること。

そのためにも思考領域の奥の潜在意識のお掃除が必須ですが、それを踏まえて妙案などのインスピレーションとして働くだけでなく原則から逸れないように警告としても働く本心良心を無視せずに深甚の感謝をすることが大事ではないかと考えます。

あとは、心を時々空の世界に浸らせる時間を持つということ。

これによっても本心良心は、少なくとも何もしてなかった時よりは出やすくなると思われます。(実際の身を伴った実験上)

( 安定打坐などの瞑想でも可。深い意義などは「盛大な人生」6章や安定打坐考証などを読まれるのも良いです。これも名著です )

尤も感謝するという単純な方法で本心良心を強めるということについて・・これは内面的な事だし再現性があるかどうかの検証は出来ません。

ですが、主観的に考えても誰だって、誰かに感謝をされたらパワーをもらえますよね。

それは自分自身の本心・良心も例外ではなく同じではないでしょうか。
余談でして、メインサイトのSTEP5などにもさらっと書いておいたのですが、こういうのを考えたことすらなく関心がない方のほうが世の中には多い気がするので、あんまりニーズはないかもしれませんけど・・



しかし一人一人が、長い間のわるーい生活の習慣を変えて、良い習慣を作っていくことを心がけ、そのためにも心(を奥底)からクリーンにすることを決意して
不要残留本能がどういうものかを、きちんと理解、意識し
身近な身の回りの生活空間、活動空間の中から心の王国で不要残留本能の暴君に力を与え刺激し不要残留本能を肥大化させる心象材料になるものを丁寧に取り除いていく。

(例えば、部屋が散らかりまくっていたら心も集中力を阻害されやすくなるのと一緒)
逆に心が整っていたら部屋もきれいになる・・と申したらよいのか。

何かの出来事をきっかけに心が疎外感を感じた場合に起きやすいのですが

そういう疎外感の隙に、満たされず渇欲を感じた心がそうなりやすい。

暴力的な雑誌やいかがわしい雑誌とかを読んだり、映像などを見たりするようになり、それを、最初は、ほんの少しだけだったのが、どんどん雪だるまのように、はまり込んでいく。
お酒なんかも同じ。最初はちょっとだけというのが、どんどんエスカレートしていく。
これも何かの出来事( 腹が立つとか、哀しいとか、絶望とか )をきっかけに心が疎外感を感じた場合に、渇欲を満たすのに、そういうことが起きやすい。

そうして、心を消極化させ不要残留本能を太らせる材料を与えていると、やがて心も、次第に荒んで暴力化するし頭も悪くなる。感化され不要残留本能の暴君に力を与えて心も消極化私生活も荒んで運勢も失っていくってことです。
中高生でも、少し考えれば分かる当たり前のことを言って申し訳ないけども。人は繰り返し読んで考えることで本に薫習され感化されていき変わるって言うか(;^_^A




併せて攻撃衝動などを調節し腹の下の仮想空間に沈める錬身。
そして表面意識の研心に心がけ渇欲を生み際限がない貪・瞋・痴を思うための、思わせる材料になる妄念材料、雑念の燃料になるものを少しずつ掃って干渉されないように仕向けていく。

そのプロセスで不要残留本能や理知を培養することで培われる理性心を超えた本心・良心の発動が盛んになり、かつ、その力の導通がよくなっていくと、理論上、本能心を(抑圧する形で暴発するのではない全く新しい形で)鎮めやすくなるとされています。

※ここで言う強さとは、激情的な強さではないです。怒りや憎しみ、うらみつらみ(の本能衝動)を神経反射を調節した身体操作でいなして鎮めたり、怒りを遅くしたり、自己向上へと転化するとか、恐れをかわすという意味での本当の心の強さ。

そういうことを心がけていくと我欲、我執が抜(脱)けて生活が身ぎれいになっていくことも理論上、十分考えられます。

そういう取り組みをする人が増えていく形の内発的改革のルートですと、少なくとも個人が自由をはき違えて濫りに濫用し好き勝手に追求することで社会は滅茶苦茶になって、どうにもこうにも収拾がつかなくなるという事態は生じ難くなることは十分想定できます。
´
尤も言うは易し´で実際は実に難しいことでして、そういう生き方を求める気になるのには、享楽的で刹那的で否定的で、皮肉と卑屈と憎しみ、恨み等に心が塗れ攻撃的かつ暴力的で激情傾向のある不要残留本能の貪・瞋・痴に包まれた(偽我)が粉々に打ち砕かれ、自我防衛機制すら明け渡して謙虚にならざるを得ない手酷い挫折体験を通過した上であること。

そこから、さらに出会いに恵まれて失敗から立ち直る機会を得ないと、理屈と論理、思惟作用として働く理性心や本能心を超えた高次の霊性心を発動させることを強く決意し志すこと、それ自体が難しいのかもしれません。

打ち砕かれ手痛い打撃を受け、自意識すらサレンドして、いったん空(くう)になると申しますか、まっさらで謙虚になった土台がないと通常ルートでは難しいのかもしれませんが、

苦痛の少ないルートでは

心身統一道を研究し心を謙らせて理性心や本能心を越えた真の人間らしい霊性心(=本心・良心)を満足させ、そういう方面の大欲を燃やすことで恬淡とした爽やかな喜びに浸る生き方をするということ。

専門的な言葉で言うなら進化の途上で原始時代なら必要であった生存本能に根差した心の働きのうち、時代を経るにつれ、最早不要になったのに未だに脳の深いとこに根深く残存して本能心と繋がっている余計なもの( 不要残留本能 )の働きから出てきて空の領域から出やすい本心・良心の発動を包み覆う´濁り<もやもやした、わだかまりの煩悩の炎>
具体的には嫉妬や羨望、劣情、憎しみなどの低級な心の働き。これの整理と浄化(鎮火)に奮闘しながらも
クリーンにし、深い思いやりにも変容する本心良心を、安定打坐の錬磨などで出しやすくすることを決意し長い間のわるーい生活の習慣を克服することを日々心がけて一隅を照らす・・

一隅を照らすにしろ周りと価値観が違っても、消化し円く仲良くやっていく人間関係の実力も培う必要があり、これだって言うは易しで簡単ではありませんが

そういう、ごく普通の平凡な凄い方が増えていき、やがて大勢になって結集され集合されて大きな力、うねりになって波及していくというのが、
日本が幸せな形で飛躍の軌道に乗るキーワードのように思えてなりません。


なお、「そんな生き方を探求し、そういうのに時間を割いてたら、<おまんまの食い上げ>じゃないか!!お前は馬鹿か!!」と罵倒する方もいらっしゃるかと思います。

そういう方は、真理探究に時間を捧げた方の生涯を俯瞰するとよいかもしれません。

天風先生なんかも良い例です。

天風先生は奔馬性肺結核を契機に、ひ弱になった心のことで死ぬほど悩み、世界の三分の二を歩き回り、結局インド修行で真理を悟って不治の病も癒えるという摩訶不思議な体験をしています。
その後に中国の辛亥革命にも孫文の護衛をして参加し、その後に日本に帰国し銀行の頭取を為さっています。

頭取までして経済界で大活躍していた方が、真理探究と普及の為にというので、一部だけ奥さんのために遺し

あとは財産全部処分して銀行の頭取を辞して

ある意味´ すってんてれつく ´になってますよね。

それなのに、なぜか不思議なことにコントか??ってくらい盛り返してますよね。

弘法大師 空海だって、私度僧が遣唐使になるのは、途方もない財が必要だったのが、
真理探究に燃えて探求、実践してたら、なぜか不思議なことに、うじゃうじゃ財が集まって遣唐船に乗ることが叶って密教の奥義も当代最高の師から伝えられ、その目的を達成してますよね。

これは、恐らく見えざる真理のほうが、見えるお金などの経済よりも遙かに価値が高いから
本当に真理探求に燃え、そういう生活に心を砕いてたら、お金が、なぜか奇妙なことに後にくっついてきたという例ではないかと。




こういうの書くとまた、だらだらと長くなるので、もうやめます‥
一応、霊性成長主義および霊性満足の生き方の探求とお金のことという記事でも、少しだけ深堀していますので、興味のある方は、そちらもご覧ください。


なお、天風先生や弘法大師みたいな歴史的な人物を挙げると´及び腰´になる方も多いだろうし、あれほどの命がけの探求は無理でも

私達のような凡人で(すら)も、1日のうちに、慌ただしく活動している時間の内の1/10くらいの時間

どんな仕事をしてようが、だいたい1日50~60分くらいは真理探究及び、その生活化のための研究に心を割いたり、身近な人に伝える等で心を砕いていったら、そういう法則( お金が、後からくっついてくる不思議現象 )が発動する可能性もあるんじゃないかと。

でもって、ここからは、もう私の愚痴みたいなことを書いてるので興味のない方はスルーで構わないと思います。(投げやりですけど)


そういう霊性満足、霊性成長的な領域に価値を置き追求する欲を満たして恬淡とした喜びを得ることがスタンダードになると、恐らく社会経済システムはラビ・バトラ教授が予測している資本主義の善い面ではなく悪い面が増幅され弊害が生じやすい貪・瞋・痴が鎮まって、粗悪な製品を大量生産するとか労働疎外ではない形のシステムが形になっていき伸長していくのではないかと。




それぞれの価値観を認め合うことは勿論ですが、経済システムも、お互いが足るを知り貪りを慎みながら生存条件を調和的に模索して質の高い生活を確保していく共生主義の考えが色濃く出た「プラウト主義経済」になっていくと思われます。

マルクス主義による共産主義(社会主義)は目に見えない形而上の高次元の領域や人間の霊性を否定、排斥し目に見える物質しか認めず人をモノとして扱い形而上の領域や見えざる霊性に対して無知で霊性を徹底的に迫害してきた思想および体制的スタンスと歴史を持ちます。
その一つの悪行の結実がソ連時代のスターリンと、その取り巻きらによるウクライナのホロドモールでしょう。
 ソ連中央政府の都合のためにウクライナの作物を計画的に収奪し土地も計画的に簒奪し中央の外貨に充てる。中央を潤すための自国勝手な都合でウクライナ領民300万から600万人を、モノとして扱い人工的に餓死に至らせたことが近年の研究で明らかにされています。

当時のソ連中央政府のリーダーだったスターリンは中央を肥え太らせて不況を脱出し一時的には繁栄させ国益に適ったから中央を中心に国民に大人気だったとか。


それに対してプラウト主義(進歩的活用理論)は目に見えない現象の奥の無形なものや高次元の領域を含む人間の霊性をかけがえのないものとして尊重した上での
共生主義的民主主義思想という点がマルクス共産主義思想と似たようで全然、全く違うところでしょう。共生主義は唯心論とも違います。物の中にも無形なる心の働きとして顕れた具象たる物を見て、それだけではなく物も心も超えた何かも見るような感覚。(自分の言葉で説明すると、あまり文才がなく陳腐になってしまうので読者に申し訳ないけど)

そういう思想が経済、社会体制として仕組化した場合に、国内的には「所得格差の少ない安定した共存共栄の社会」ということになろうかと思います。
具体的には賃金格差の縮小、富の分配方法は必要性や福利にもとづいた合理的分配、身の丈に合った均衡財政、自国産業保護、持続可能な環境政策、医療・教育分野は国によって無料で提供。創意の喜びに満ちた足るを知る素朴で芸術的な生活。

教育は早期から一人一人に応じた才能や適性を引き出す教育etcが特徴として挙げられるでしょう。
※日本の相対貧困率をグローバルノートー相対貧困率で他国比較し、かつ日本より労働生産性が高く働き方改革が進み余暇も含めたQOLが高い国を、OECD 加盟諸国の国民 1 人当たり GDP と労働生産性等で一つ一つチェックし、更に所得再分配前後の貧困率などを、1国1国丁寧に吟味し、それぞれ追っていくと格差の縮小に舵を切った国のほうが2000年以降の20年間で内需が活性化するのか、なぜか不思議なことに1人当たり名目GDPや労働生産性が伸びている実態が浮かび上がってきます。グローバルノートなどで統計事実に注目し丹念に分析したら自由主義で放置し格差を、さらに拡大させながら1人当たりGDPを伸ばして国力を高めている国は、ごくわずかでした。故に、これまでは、社会の上位集団に富を集中させれば経済が、ぐんぐん成長するという考えが常識としてまかり通って、そういう政策だったのが、資本主義が円熟するにつれ、どうやら「その説は間違い」っていうことを証明した形になります。20年間のOECD加盟国を中心とした、それぞれの経済政策と20年間を経た、それぞれの国の1人当たりGDP成長率という答え合わせ(通信簿)を丁寧に見た結果、ピケティの指摘が正しかったことを各国の通信簿が20年で証明する形で結果が出ていると言えるかもしれません。ですので、プラウト主義に着目するのは持続的な発展という視点からも荒唐無稽な話ではないと私は観ています。





実現には個人レベルでは、心の観察をして、ひねくれて皮肉屋の逆動仮我を鎮めて、理屈を超えた本心良心に耳を澄まし引き出す勇気と逆動仮我に振り回されるのではなく、逆動仮我を弱めて、その反対に順動仮我を強めて統御する力量なども要求されます。

心の暴力衝動などを身体操作で臍下に気のかたちで鎮め統御に馴れていき心中の賊<邪な獣性と貪り>を鎮めクリーンにしつつ整理し度外れで自己本位で身勝手な貪欲がインフレする傾向なども鎮め心を空しくし謙虚にする心の内面における厳しい自己訓練や、外界の人との交流の際の積極的言動など外面環境への意識付けなども要求されます。

より大きくは業界それぞれの既得権益があるので、そりゃあ、格差を拡げ乍ら地球の資源を搾りつくすようなやり方はよくない事が分かっていて、このままでは地球にとっても、次世代にとっても、よくないと自覚していても、これまで手に入れた既得権を手放したくないでしょうし痛みを伴うから課題が山積とは思いますけど。

打ち砕かれ、空になり、謙虚になった下地から新しい時代を拓く岩戸開きのエネルギーを頂いて再出発することで飛躍するように思えてなりません。


ところで

メルマガ読者の幾人かから、「気になった動画なども、どんどん紹介してくれませんか?」という要望があったので幾つか紹介しますが


アメリカの数学 大学入試の問題が簡単すぎる
    ↓
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