ジーニアスQuest

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このブログの目的と指針

 
当ブログをご覧いただきありがとうございます。
このブログは、人間なら誰にでも内在する秘められた力( 潜在勢力 )を実際に解放し心をツールとして使用する力を高める実際方法の研究と速読や全脳活性化( 五感の官能を啓発する等 )に関するノウハウを扱っています。  

運気の12年周期の盛衰と男女愛のエネルギー( 徳川家康、織田信長、Hフォード )

前回のブログでは

人との出会い、書物との出会いなどで、出会い方がよければ、
心の態度の積極化がパワーアップしてスパークするという例として豊臣秀吉をとりあげ
運気の盛衰( 好不調のリズム )についても少しだけふれてみました。

人との出会いでスパークする・・人との出会い(交流)や
環境で自然に変化せしめられ創られる自分というのもある

それに

やはり夫婦愛のエネルギーの交流( 言葉、態度、振る舞い )が自然にお互いの人格を創り、心を強くする。

その一方で、これがおかしくなると陰陽の調和が崩れ心の積極性にも少なからず影響を与え運気も乱れる。



夫婦愛のエネルギーの交流が心の態度にも影響し
円満な場合の仕事や生活にもたらす影響というのは
甚大なものがあるのかもしれない・・
また、このよしあしが運気の盛衰に関係するかもしれない


その例として

秀吉バージョンだけでは心もとないので、「 織田信長バージョン 」
「 徳川家康バージョン 」でも執筆してみます。

ただし、この戦国時代当時の道徳観、倫理観と現代では、
相当な乖離があることは否めません。

現代の常識とは、かけ離れたものも多いです。

また

天が、すべての人に歴史に残る大将軍や
H・フォードみたいな大経営者になる器量や才能を与えてるとは私には思えません。

ですが、時代をこえても通用する普遍的なものもあると思いますので・・






それに注意しなければならないのは私( 岡崎 )の記事だって

「 認知バイアス、確証バイアス 」が入ってることをお忘れなきよう・・

話半分で

ふーーん・・そういう見方もあるのか・・程度にするようお願いします。
当方のオリジナルの発想が多分に含まれてるので話1/3くらいでもよいと思います。

http://lol.paburofu.com/archives/244



そういう前提を踏まえて


先ずは


「 織田信長 」の場合でやってみると、

信長が最も愛したのは正室の濃姫と言われています。


濃姫は謎多き女性の一人とされてますが


僧侶から還俗し油売りから身を起こし戦国大名になった、あの斎藤道三の娘です。


この時代は家柄だけでは通用しない時代だからこそ、多くの才能・才覚が
頭ひとつ、腕一つでのし上がれる時代でして、
まさにこの人( 道三 )も、この時代を象徴したような方でした。

信長の政策のひとつであった「 楽市楽座 」や 「 関所の撤廃 」も
舅である道三が先に領内において類したこと( らしきこと )をしていたと言われています。
信長は斎藤道三らから学んだことを、楽市令として制度化し、より拡大して実行したとも言えます。

織田信長と斎藤道三の関係性


道三は信長の器量を本能的に見抜いたから
美姫で肝も据わって賢かった愛娘を信長にやったとも言われていますが
信長は、かの道三の娘の濃姫と1548年に政略結婚しています。



ただし、結婚当時は、「 うつけ者 」と言われ最低・・散々の評判です。

( 油断させるために、わざとそうしていた説もありますが )

「 信長公記 」にも、信長は、よくこれで人前に出られるなぁ・・
というような奇妙奇天烈な服装をしたり

品行方正とは程遠い・・と申しますか・・
行儀は悪く、城下では人目も憚らず柿や瓜をかじり
餅を食い、人に寄りかかり、肩にぶらさがって、ふらふら歩いていたこともあるのだとか。



しかし

そんな「 大うつけの信長 」でしたが

濃姫( 斎藤帰蝶 )を妻にして、跡目争いを制し

尾張一国をほぼ統一し頭角を現していきます。

そうして


1548+12=1560年 桶狭間の戦いで

世間の評価は一変します。



信長は出陣前の清洲城において

「 人生五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり 」
というフレーズで有名な「 敦盛(あつもり) 」を舞い
熱田神宮において戦勝祈願をした後、出陣しています。



そうして臨んだ、この戦いにおいて信長は情報を制し、機先を制し

気の緩みをついて

信長直轄で精鋭の2000〜3000の兵力を
義元本陣(の一点)に集中的にぶつけることで

5倍とも10倍とも言われている圧倒的な戦力差を覆し
「 東海の雄 」と言われた今川義元を打ち破っています。




この戦いの結果については周辺大名の、ほぼ誰も信長が勝つなんて予想もしてなかったらしく
これが信長にとって天下統一に向かう大きな布石になったのは、
ほぼ間違いないですよね。

個人的には濃姫と結婚してから信長の心の強さが
さらにパワーアップし、そのスケールが増した・・
として史実を因果分析してみたい気持ちに駆られます。



それから約12年後

1560+12( +1)=1573年

1年ずれてますが、
中世的権威の象徴でもあった足利義昭を追放し
230年以上続いた室町幕府を滅ぼしてまして

その後も天下統一事業にまい進し

強固な中央集権体制のかたちを作っています。


諸国大名が領地拡大や領土保護に、きゅうきゅうしてたのに・・
信長は、彼らとは、あまりに次元が違う
「 明確な志 」と考えを持って行動していた・・と言えると思います。




その約9年後に変転があり

1582年に本能寺の変で倒れますが

濃姫と結婚後の運気の周期性( 運気のリズム )は感じられます。

こうしてみると道三の娘である濃姫と結婚したことで
信長の大胆さや志の大きさ・・心の強さ・・周囲の巻き込み力がさらにパワーアップし、
そのスケールも勢いを増した・・と見ることもできるのではないでしょうか?




次の秀吉バージョンは、以下にこってり書いてますので省略します。

秀吉バージョン




徳川家康バージョンについては


 家康の場合は阿茶局( あちゃのつぼね )が
信長の濃姫や秀吉の寧々( 北政所 )みたいな位置でして

 この方を1579年に側室にしてから
家康の運気は「 うなぎ登り 」になっています。

それまでは鳴かず飛ばず・・
いくら待っても鳴かないホトトギスでして
ひたすら下積み・・忍苦続きの日々です。



今川義元のもとでは、当時の家康(元康)の家臣団は
先陣ばかりを務めさせられ
言ってみれば「 使い捨て 」のような立場です。

1560年に義元が桶狭間の戦いで信長に敗れて後、
やっと今川家の人質から解放され三河で独立しています。

ですが

信長と同盟を結んで後も、今川家の時と同様、
その関係は実質的には、臣下とあまり変わらない立場で
最もリスクの多い先陣を任されることが多かった。





それに三方ヶ原の戦い(1572年)では、
武田信玄が指揮する
当時最強の武田軍に惨敗しています。

その際は、恐怖のあまり馬上で糞尿を垂れ流し、
ほうほうのていで浜松城に逃げ帰ったらしく・・

脱糞の匂いに気づいた部下から諌められた・・
という逸話まであるのだとか。


( お食事中の方には申し訳ない話ですが・・・ )



こういった逸話を知るにつけ

家康も最初から豪のものだったわけでもなく、聡明だったわけでも
元から忍耐強かったわけでもなく「 環境 」によって創られた分と

自ら意志、意欲をして自分自身の心を強く創っていった・・

武芸にも戦略にも秀でて聡明に自らを作っていった分の
合成的なものがあると観ています。



※余談ですが三河武士の強靭な結束力と強さも、
使い捨ての先陣を任される試練と苦難のなかで
作られ培われていったという説もあります。

 家康は6歳で織田家の元に人質に送られ、織田家が
今川家に敗れて後

今度は今川家の人質として駿府へ送られ、
8歳から19歳までの約12年間を
人質として生活することを余儀なくされてます・・

家康の忍耐強さは環境によって創られたとも言われています。

 結果論的には、これがあったから、よかったとも言えるわけですが・・







話を元に戻しますが

家康は、阿茶局( あちゃのつぼね )という福女に会う前は
かなり下積みでして戦闘においても先にも書いたように、
武田信玄に惨敗をし滅亡寸前まで追い込まれています。




結婚においても、家康は、あまり良い話を聞きません。

阿茶局を側室にする・・ずっと以前に築山殿と
政略結婚していますが、

この築山殿は、今川義元の養女で、お嬢様育ちで気位の高い女性でもあったことから、
あまりいい結婚ではなかった・・
大変だったという逸話も残っています。

( 家康が側室にした女性は、秀吉と違って貴種好みでなく、
家柄の良い女性は相手にせず、
全員身分の低い女性でして
聡明さや丈夫な子供を産んでくれそうな方・・
その他独特の基準で選んだのは、
この築山殿との結婚(の失敗)と秀吉の失敗から学んだとも言われています )




そんな忍従と下積みがずっと続くなかで
家康は、いっこうに芽が出ないわけでして


特に

家康が38歳の時、阿茶局( あちゃのつぼね 当時25歳 )を
側室にした時期

1579年は家康にとっては、まさにどん底でして・・

長男・・そして正室( 築山殿 )を・・
所謂「 築山殿事件 」で知られるお家騒動で、信長の命を享けて
家康自身の命令で切腹( 自害 )させる・・という痛恨の絶苦( 絶痛 )をなめています。



ですが

 阿茶局を側室にしてから約12年・・


心の積極性・・その強さがパワーアップしたお陰か
 

どん底の苦から大きく飛躍しています。


細かくは1579+3=1582年

織田信長が明智光秀に本能寺の変で討たれ
明智軍から逃れるため、

滞在していた堺から山中(伊賀)を越え三河へ運よく無事に帰還できた
「 伊賀越え 」を経て
これを吉に転じて甲斐、信濃を支配下に置くなど着実に勢力を伸ばしていきます。


1579+3+9=1579+12=1591年には、豊臣秀吉に
臣下の礼をとってはいますが豊臣政権下で
重鎮( ご意見番の一人 )になっています。

 秀吉は、この時が絶頂期なのですけど・・
その2、3年前から判断がおかしくなり

秀吉の心の消極性のうち残酷性、横暴さ、傲慢性等が増したせいか
その後、失政、失策・・が目立つようになり民心も離れ

不幸も続いてまして
 

 豊臣政権は、ほころびが見え始めてるなかで、
家康の場合は家臣団の結束力がさらに増して
国内における影響力が大きくなっていきます。


 確か関東転封( 関東に移封 )になったのもこのくらいの時期でして
当時の視点からみたら左遷ですが、領地は250万石になり大きな転機になっています。


そこから更に9年後の決断が要求される変転の年・・
1600年に関ヶ原の戦いで圧勝し・・
そこから3年後・・1603年には江戸に幕府を開いています。

( 1591+12=1603 )


さらに、そこから12年
 大坂の陣(1615)で豊臣家を滅ぼし、その後300年近く続く
徳川幕府( 江戸幕府 )の雛型の完成をみています。


 家康は忍従と屈辱に耐える苦労続きの生活が長かったせいか
心の機微に敏感で部下はもちろん女の人の扱いにも長けてたようでして
先にも述べたように側室選びにも失敗せず・・秀吉みたいに
300人もの女性に手を出し色に溺れることもなく・・

秀吉の正妻だった寧々にも非常に丁重でした。



とりわけ阿茶局( あちゃのつぼね )を大事にし

 この方との間に子供はできませんでしたが
36年間・・自身が亡くなるまで篤く信頼し
よく尽くされエネルギーを貰っていたようです。


戦場にもたびたび同伴させてたという史実も残っています。

事実として、大坂夏の陣で真田幸村が家康本陣を狙って
鋭く切り込んで、その覇気に気圧され、本陣の旗本隊が、逃げ腰になって
危機に陥った時、攻めてくる相手に決して背を見せず
家康の傍らにいて、矢面に立ち、体を張って家康を守ったのが
阿茶局( あちゃのつぼね )その人だったと言われてます。


そういうこともあってか家康は遺言で剃髪すらさせてません。
( 他の側室は全員 家康死後、尼になったと聞いています )



そういう具合に篤く信頼され、よく尽くされ愛されてたし懇意にしてたがゆえに
心身のエネルギー状態もよく心の強さ、積極性が保たれ

節目・節目の危機で冷静かつ沈着に対処し情勢判断を誤らず大きな決断をくだし得て、
それがよい結果につながったのではないでしょうか?



秀吉も寧々と結婚後の12年周期の件を盛り込んで再編成し直してますが
寧々を疎んじ意見を聴き入れなくなって淀殿に入れ込んでからは、
いいものがブロックされ横暴さと思い上がりが酷くなって、心の消極性が強調されたせいか
失策続きで不幸と言いますか・・悲惨です。

秀吉バージョン




なお


これだけだとサンプルが少ないので


近代の英雄を調べて見ると


前々回取り上げた日本海軍の父

 山本権兵衛翁も登喜子さんと結婚して、運気がパワーアップし
 ほぼ12年周期で運気が動いてる雰囲気が漂っています。


27〜28歳頃結婚

12年後の40才に海軍省官房主事に大抜擢

 さらに12年後の52歳から53歳に日露戦争で裏方として働き、
海軍大臣として東郷平八郎を連合艦隊司令長官に抜擢するなど日露戦争勝利に大きく貢献

そこから10〜12年後の62歳〜63歳のときに総理大臣に就任し内閣を指揮

 さらにそこから10〜12年後72歳〜73歳のときに二度目の総理府大臣に就任し内閣を指揮
 
後半は少しずれてますが、
運勢のリズムに、かなり周期性があるように思います。


この方も、奥さんからも、よきエネルギーを貰って心の態度が引っ込み思案的でなく、非常に強く大胆になり
悪いものがブロックされ、いいものが出やすかった・・

環境によって創られたものもよく

愛し愛され心身のエネルギーの状態がよかったので

 人生の転機ともいうべき岐路に立たされたとき、
冷静で大局的判断力もあり、腹も据わっていて
大きな決断が下せたものと思います。

 12年の周期の前後3年くらいに人生の岐路になるような
大きな決断をくだすことがあり、
それがまた運気のリズムに影響を与えているような傾向を示しています。

 
なんらかの運気の盛衰の法則性があるように思えます。

こういう分野では「 安岡陽明学 」とかが有名ですが

12年周期の運勢の盛衰というのは、
個人だけでみるのではなく、お相手( 配偶者 )も考慮してトータルで見る・・
というのも´あり´かもしれないなと思った次第です。

まあ、こういうのも、ほどほど・・にしたほうが賢明・・かもしれません。
それに、自己の本性を悟れば悟るほど占いやら・・
その他諸々が外れる・・環境の影響も小さくなる・・というのもあるのかもしれません。

( こんなの書いていいか分からないですが・・
正直、私の場合は、ある人に言われて細木数子女史の占い・・
ちらとやってみたんですが・・全くと言っていいほど当ってないんで・・


こういうの信じてる方には誠に申し訳ないですが・・
六星占術・・あんまり当たってないケースも多いようです。

少しフォローするなら、運気のリズムみたいのは、やはり、ちょっとはある・・
それに、そういうのより大きな影響を与える「 上位法則 」ってのがあるのかもしれません・・ )


少し脱線しましたが・・


海外の例では

例えばアメリカにおける「 自動車王 」と言われている
ヘンリー・フォードなんかも結婚してから心の態度の積極化が促されパワーアップしたお陰か
運気が大きく拓かれていまして結婚後の運気のリズムもそれとなく感じられます。


この方は、無類の機械好きで機械いじりが大好きでしたが学校の勉強には興味を持てず
早く仕事がしたくてたまらなくて16歳で高校を中退し、
最初は、時計を作る大きな会社を興すのを夢みて、そのスキルを磨くために、機械工場で働き始め

その後も、かけもちで働いたりして機械に対する知識とスキルを磨くために
色んな職を転々としています。

最初は大きな時計工場を興すことを目標にしていましたが
後に自動機械( 自動車 )の開発に熱意を燃やしたのは、彼が田舎の農家の息子に生まれ
自身が子供の頃から農業に携わって苦労していた。


 そのときの農作業における人馬の辛さ、労苦を骨身に感じたからだそうでして

これを少しでも軽くし楽にしてあげたかった・・というのがあったのだとか・・・


 また・・10代の頃、フォードが住んでいたところからは少し離れた町で、
その当時、とても珍しかった「 車の展示会 」と言うのがあったそうで

( ※当時の「 車 」と言うのは今のような、かっこいいものでは決してない )

 それを見学に行って目にしたことで

 自分自身で実用的な自動車を開発したい・・
という欲に火がつく原体験になった・・という記述もありました。

実際にフォードは、農作業の苦役を軽くするための蒸気発動自動車を、
ありあわせの部品で試作したこともあったようです。

実用化はされませんでしたが・・


そんなH・フォードは1888年 25歳の時にクララ・ジェーン・ブライアントと結婚して
3年後の1891年にエジソンの関連会社に運よく就職できて
夜勤の勤務をすることになります。

一説には、車のガソリン・エンジンを点火させるための
電気の知識を学びたくて雇用機会を狙ってたのだとか。

「 夜勤 」にしたのは昼間は自分の自動車開発の研究に時間を割きたかったので
そうした・・という記述もありました。


 この環境を手繰り寄せれたのがフォードにとって非常に大きかったと思われます。



そうして

エジソン照明会社で頭角をあらわし、たった2年で異例とも言えるチーフ・エンジニアに昇進し
この会社本部で機械部の監督を任され
給与も月45ドルから月150ドルに跳ね上がっています。

このときには、昼間の勤務になっています。

この会社で周囲からの信頼も厚くなっていったので、
ここで、そのままずっと働いてれば順調に出世し

サラリーマンとしてではありますが、
それなりに安定し悠々自適だったはずなのですが、
フォードは、決してこれでは満足しませんでした。

昼間はエジソンの会社でチーフ・エンジニアとして働き、
帰宅してからは、すぐに作業服に着替えて
夜中の2時〜3時まで金鎚(かなづち)を片手に自動車を作るために働く・・

自宅の一角を改造した作業場で徹夜することも多かったのだとか。


そういうダブルワーク状態を続けるうちに

自動車の試作とサラリーマンの二足のわらじでは、
自動車開発は覚束ないと思い始め

自身の手による自動車の製作に微かな手ごたえを感じ、事業化できると確信した頃に
妻(クララ)の了解も得て退職を決意しています。


退職に際してエジソン照明会社の社長さんからは、

「 なぜこんなに高待遇で将来も嘱望されてるのに辞めるのだ!
ガソリンの車なんて需要はない!馬鹿もんが! 」と猛反対されましたが

エジソン本人には理解され

28歳から7年間働いていたエジソンの関連会社を辞め35歳の時に独立しています。




彼の下積み時代のエピソード(のひとつ)で面白いものがあるのですが


H・フォードは、サラリーマンとして働きながら自動車開発に熱意を傾ける日々を送って
エジソンの関連会社を退職した後しばらくして、
当時、ごく一部の富裕層しか買えなかった車を購入しています。

この当時の車の金額は、まだまだ馬が主流の時代で
オーダーメイドに近い状態だったので1台4000ドルくらいでして・・
これは当時のアメリカ国民の平均年収のだいたい7〜8年分に当たる金額でした。

今の貨幣価値で換算したら、それなりに立派な一戸建ての家が買えるくらいの値段だったはずです。

なので、そんな高価なものを購入したフォードを世間( 近隣住民 )は羨ましがったそうです。



 ですが、そういった世間の評判は、しばらくして・・またもや地に落ち、
批判と嘲笑の的になってしまいます。


 なぜなら、フォード青年は、その高価な車を乗り回すわけでもなく
自宅の片隅を改造した作業場で分解し始め、また組み立てる・・
組み立てたと思ったら、また分解する・・
そうして、また組み直す・・という作業を黙々・・延々と始めたからです。




これが噂になっていき世間の人はフォードを
「 また、わけのわからないことをしはじめた・・本当に変人だ・・ 」としか見ることができない・・

 フォード自身も決して社交的でなく寡黙( 無口 )で、仕事に関する質問をされても
YESかNoでしか答えなかったそうでして・・
今でいうところのコミュ力がない・・そのせいかもしれませんが・・周りは四面楚歌状態だったようです。

※なお、コミュ力があまりない・・社交的ではなかった・・ということについては
ナポレオン・ヒル氏の著書のフォード氏に関するエピソード等から類推しています。
 





 ところで、この記事をご覧のあなたは、世間の批判と嘲笑の種になったフォード氏のこの行為について
フォードの心の中で何が起ってたか・・ご存知ですよね。



 そうです。


 フォードは、一部の富裕層しか買えない車を、できるだけより多くの方に楽しんでもらいたいがために

 どうしたら無駄を省けて生産能率を高めて安くできるか?

 どうしたら品質を保って生産コストを下げることができるか?

ということに思念を燃やし黙々と作業を続けてたわけです。


そうして

四六時中そのことに心を燃やし異常なまでに熱意を傾けて黙々と取り組んでいくうちに

インスピレーションを得て

 コンベヤーによる移動組立と機械部品の規格化というのを
かたちにしていくわけです。

( 今では「 当たり前 」の生産方式の一つですが当時としては画期的でした )
 



なお


敢えて言うまでもないことですが・・

人それぞれ役割があり、それぞれ異なる個性を持ち
 長所・短所もさまざまで職業的志向も千差万別です。


それに、現代では、フォードの生産システムは単調反復の単純労働が労働者から拒否されはじめ
生産方式も移行しつつあることから、
フォード式の生産システムは現代では終焉を迎えつつあります。



ですが、いつの時代でも、そうであるように、こういう人たちが新しい時代を切り拓くのでしょう。




当時の人々は、そういったフォードの見えざる理念と信念・・
それに基づく奉仕的行動が皆目わからなかった・・ということでしょう。

夫を信じる信念と夫愛が、めちゃくちゃ強い賢明な奥さんのクララと
エジソンやバーバンク・・A・カーネギー、ジェイムズ・クーゼン等の
ごくごく一部の先見の明がある方を除いては・・


実際に農場を継いでもらいたかった父親から猛反対され
隣近所の人たちからもスポイルされてたのは・・
自伝などを調べると間違いない事実のようです。

ですがごく一部の聡明な方と・・フォードの妻のクララは、とりわけ格別に、
そんなフォードを心から励まし鼓舞し、ただ口で励ますだけでなく
一緒に汗を流して苦楽を共にし夫を心底から信じ支え続けています。

以下に会社に勤めながら、仕事が終わった後に作業していた
サラリーマン時代のフォードが30歳くらいのときの自動車開発秘話もありました。


「自動車王ヘンリー・フォードの妻クララ夫人」( 自動車開発秘話 )

こういう奥方だったら確かに・・もうなにものにも替え難いですよね。




ただ・・基本的にH・フォードが自分の損得だけ考えるような人間でしたら、
そもそも独立起業もしてないはず・・・

セミリタイヤして悠々自適みたいな考えでも決してない・・と申しますか・・

彼( フォード )は一般的な仕事観からは、かなり離れたインセンティブを持って仕事をしてたことがうかがえます。



なぜならH・フォードは、順風満帆だったエジソン照明会社を退職し35歳で独立して後、
資本家( 投資家 )の協力を得て、会社を作っていますが・・

 最初につくった会社は


 「 あんまり安くしたら、資金提供した、こっち<資本家>の実入り(儲け)が少なくなる・・
それなりに高くして、経営している側のあなた( フォード氏 )と
こっち<資本家>の実入り(儲け)が最大化するように、
一部のお金の余裕のある人に、その虚栄心を満たすために高く売りつければよいのだ・・ 」

という考え方の資本( 投資 )家たちと意見が激しく対立して、
それに同意できず怒りまくってフォードは自分から自身で立ちあげた会社を辞めたりしてます。


そんな感じで、所謂すっからぴんを5回も経験していますので、
自分の損得勘定だけで仕事( 事業 )やってるような方でしたら、
そもそも再起を図って何度も立ち上がることはできなかったのではないでしょうか?



 こういう高潔な人だから、クララみたいな、こういう殊勝な嫁が来たのかもしれませんが


・・フォードが心の積極性を維持するのに奥さんのパワーも相当にあったのではないかと・・

 こういうエピソードを知るにつけクララ夫人がいなかったら

フォードは、あれほどの失敗や逆境の渦中の中で心の積極性を保てなかったのじゃないか?

理念や動機は、どんなに立派でも・・・奥方の支えがなかったら
下手すると頭のちょっとおかしい仕事虫の変人技術屋で常識を欠いた人間として
生涯を終わっていたのじゃないかしらん・・
紙一重だったのではないか?・・としか言いようがありません。

 

クララの立場に立ってみると・・これ・・こんな夫は、ふつうだったら、ついていけてない・・

耐えられない・・のかもしれません。

現実問題・・5回も破産して、素寒貧を経験してまして・・
しかも子供まで抱えているなかで一文無しになっている・・こういう喫緊の状況が現実に幾度もあったら・・

 一般的には、不平不満を爆発させて、

 「 なんて甲斐性のない夫なんだろう・・ほんと何をやってもダメなんだから・・
いくら世の為人の為だと言っても・・
そんな夢物語みたいなことばっかり言って・・私は、なんで、こんな夫と結婚しちゃったんだろう・・
ほんとにもう・・こんな生活もうまっぴらごめんだわ・・ 」
と心を消極化させて、ぶつぶつと文句や恨み事を言い

 子供にも、「 お父さんみたいになっちゃいけませんよ・・」とため息交じりに愚痴をこぼし
家庭が修羅場になってるのじゃないでしょうか?・・


それに


 フォードが事業に失敗して落ち込んでるときに

もし、クララが「 あなたは何やっても駄目ね・・あなたには素質がないのよ・・ 」
と恨みがましくブツブツ文句を言ってたら

 さすがのフォードも立ち上がれたかどうか・・実にあやしいものです。


 そういう苦境に陥った時に、夫の成功を夫以上に信じ支えるのは
< 一度ならず幾度も破産して一文無しという現実 >が、
重ーく、のしかかったら心の態度を積極化させるのは、そんなに簡単ではない気がします。





H・フォードもそれは強い実感として感じてたみたいで

自分を信じて協力してくれる彼女( クララ )のことを
敬意と慈しみを切に込めてThe Believer( 僕の信者さん )と呼んでいたのだとか。



そうして

H・フォードをして

「 私の人生の最大・最良の日は、私がフォード夫人( クララ )と結婚した日でした 」

とまで言わしめ

フォード氏は輪廻転生を信じてたらしく

さらに駄目押しで

「 次にこの世に生まれてくるときは何になりたいか?」

と聞かれた際は

「 何でもかまわないが、ただ、妻とだけは一緒にいたい 」と答えたという逸話まで残ってます。



そうした妻の並々ならぬ協力と献身もあって、心を強められたH・フォードはクララと1888年に結婚して
約12年後の1899年にデトロイト自動車会社を創業しています。


そこからいろんな試練に遭遇しますが彼は決して諦めず、9年後の変化の年である1908年に
名参謀ジェイムズ・クーゼンらの経営手腕もあって、

あの爆発的ヒットになった伝説のT型フォードを見事に完成させ1899年から
12年で大きく飛躍しています。

( T型フォードは、扱いやすく機能的で高品質なのに850ドルという価格でして
当時(1908)としては画期的でした。

 この車は結局360ドルにまで価格を引き下げていまして、
彼の理念と願いのとおり庶民の手の届く価格にしています。
 
 T型フォードは売れに売れ、クララと結婚して
12×3=36年目の1924年には1000万台を突破することになります )





こういった史実に見られるようにH・フォードは嫁さんに愛され信頼され敬われ励まされて
エネルギー状態がよかったことも幸いし

 多くの挫折、失敗や倒産という辛酸をなめ尽くしても、心の積極性を失わず、
それをエネルギーに変え得ることが出来たとも言えるのではないでしょうか?



そんなH・フォードだからこそ


「 奉仕を主とする事業は栄え、利得を主とする事業は衰える 」


さらには


「 努力が効果をあらわすまでには時間がかかる。
多くの人はそれまでに飽き、迷い、挫折する 」

「 結果がわかっていなくても前進することだ。
やっている間に結果もでる 」


「 将来を恐れるものは失敗を恐れておのれの活動を制限する。

しかし、失敗は成長に続く唯一の機会である。

まじめな失敗は、なんら恥ではない。

失敗を恐れる心の中にこそ、恥辱は住む 」


こういった・・歯の浮くような、かなり偉そうな言葉が深い体験智として滲み出て語られたのかもしれません。

( ちびまる子ちゃんのナレーションをしている方が・・

 もし、この名言にシュールなツッコミ入れることが出来るなら

 「 あんたなぁ、偉そうなこと言うてますけど・・ようできた嫁さんの支えや名参謀で会計士のジェイムズ・クーゼンさんらが投資家たちと、ぶつかってゴタゴタしたとき全財産を投げ出して支えてくれへんかったら、ほんま、ただの偏屈技術屋・・会社つぶしの達人で終わってましたがな・・」というツッコミが入りそうな感じですが )






そんなツッコミはさておき・・H・フォードの友人関係を調べてみますと

彼は上司だったエジソンだけでなく、あのルーサー・バーバンクとも非常に親しかったようです。

エジソンも小食で発明のヒントやインスピレーションを感受するために瞑想してたことは、あまりに有名ですが・・

ルーサー・バーバンクも聖者みたいな園芸家でして
H・フォードもエジソンやバーバンクに負けず劣らず

哲人経営者と言ってもいいくらい高潔で
瞑想をたしなみ瞑想で仕事の問題を解決したりすることも多く
簡素な生活をして、なおかつ仕事虫だったことでも知られています。

フォードの若き頃( 30代〜40代 )の逸話を調べると・・

サラリーマン時代は昼間働いた後、いくらクララが洗濯しても追い付かない・・
機械油で真っ黒になった作業服に着替えて夜中の2時〜3時まで熱を入れて
「 実用的車作り 」という創作的行為に情熱を注いでますので、
ほぼ間違いなくリピドーを人々の役に立ち、楽にし
世の進軍に貢献する創造的なことに向けて熱変換し変容させてるかと思います。
じゃないとここまで精力的に働けないでしょう。


( それに・・いやいや、やらされてたのではなく、
  自分で自発的に熱意を持って取り組んでたから時間も忘れてたのでしょう )


下手すると徹夜・・そうしてまた会社に出勤っていうのを繰り返してたらしいので
まさに仕事虫・・かと思います。





高潔で愛妻家で簡素な生活をして自分のやってる仕事に誇りを持ち
好きで好きでたまらなかったのも
クララから深く尊敬され信頼され、H・フォード本人以上に
夫の成功を確信する根拠になってたのかもしれないですね。

これに関して面白い逸話があるので紹介しますが


25年前はスカンピンだったあなたが、なぜこのような成功を為したのか・・
その秘訣を教えてください・・と、Hフォードが、ある方にインタビューされたとき

H・フォードは以下のように答えたと言います。


「 私は、一度も無一文だったことはありません。

すべての人間は既に自分の内に無限の富をもっています。

無限に自らの心を合わせる・・心をそれに調和させる・・

そして、全体の利益に貢献することです 」と・・



この言葉は、かなりスピリチュアルな、
ぶっ飛んだ言葉ですが、この逸話( この言葉 )もフォードが
瞑想をたしなんでいることを暗に示してるかと思います。

エジソン、フォードとバーバンクの写真




ちなみに

現在のアメリカの車産業は、その後、フォードのような
高潔な哲人経営者を輩出せしめる土壌を失ったせいか
治安も乱れ荒廃が目立っています。


デトロイトの荒廃、治安事情








話を元に戻して


男女の愛のエネルギー以外で

聖者や恩師との密なる交流によるエネルギーが
心の積極性や運勢に影響を与える例としては



天風哲人の場合をケースにしてリサーチしてみると・・
この方は少し複雑でして・・

捨て鉢になってた中村三郎( 天風哲人 )でしたが

縁あって頭山翁に拾われた16歳からの12年・・

頭山翁の福運の保護・・大きな守りを受けて
心も非常に強く積極的で28歳までは軍事探偵として大活躍してます。

結婚( 奥さん )よりも
恩師の頭山翁のほうの影響を強く受けている感じです。

やはり頭山翁という方の影響圏が凄かったのだと思います。
この頭山翁という方も強烈でして

命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人・・
佳い意味で仕末に困った方で
中村三郎( 後の天風哲人 )は大きな影響をうけたようです。

ですが28歳のときコザック騎兵に捕えられ
銃殺寸前の絶体絶命の境涯から奇跡的なかたちで
九死に一生を得てから暗転していきます。


暗転したのは・・・恐らく、大きな天命があったからだと思われます。




その後30歳で、当時不治の病といわれた奔馬性肺結核に罹患し、
死ぬことをなんとも思わないような豪の者だったのに・・

ほんとうにまあ・・あんなに強かった心が、
これほどまでに弱くなってしまうのか・・

というくらいに、びくびくおどおど・・きなきなくよくよ心配性・・不安神経症候群に陥り

これほど惨めになったことを嘆き苦しんで、身悶えし
なんとかしようと

高名な医者はもちろん有名な宗教家にも救いを求め・・

教えを請いますが全くどうにもならない・・埒があかない


そこで已む無く

 この弱くなった心・・病で不快で苦痛・・そして不安が止まらなくなった心を
なんとか立て直すメソッドを教えてくれる人を探そうと発心し日本じゃ全然駄目・・
どうにもならなかったから・・ということで

病が一時小康状態になったのも手伝ってニューソート系の1冊の本を頼りに
単身アメリカに渡る・・


これも命懸けでしょう。

あの当時は抗生物質もない・・いつ死んじゃうか分からないんですから。

五千円札で有名な樋口一葉なんて天風哲人と同じ奔馬性肺結核に罹患し
24歳で亡くなってます。

しかし、渡った先で、ニューソート系の本を執筆した当の本人である
青年哲学者に会って教えてもらおうと思っても「 糠に釘 」みたいな答えで全くどうにもならない

それでアメリカに見切りをつけてヨーロッパを回っても駄目




もう魂が抜けた夢遊病者のようになって

どうせ死ぬなら故郷の日本に帰ってお墓に入ろうとして乗った船がスエズ運河にさしかかった時

イタリアの砲艦が座礁して、運河が塞がって通れなくなる・・
( 当時は運河の通れる幅が狭かったらしいです )


それで一時避難的に、その船はアレキサンドリアの港に錨を降ろすことになり・・


その処置の間に幾ばくかの暇が出来たので

同じ船で仲良くなったフィリピン人の釜たきにピラミッド見物に誘われた・・

この時の中村三郎( 天風哲人 )の当時の心境は・・

「 結核で、どうせ俺はすぐ死ぬ・・もう、どうせ死ぬなら日本で死のうと思って船に乗って日本に帰る途中
なんか変なことになった・・どうせ日本に帰って墓に入るのに、
ピラミッド( でっかいお墓 )なんかを見たってしょうがないだろう 」
というような実に自棄的で投げやりな気持ちだったらしいですが・・

なぜか妙に気が向いたので

フィリピン人の釜たきに誘われるまま

エジプトのピラミッドを見に行くために立ち寄ったカイロのホテルで喀血し、
へろへろになった時に運命的にカリアッパ聖者に会っています。

( 命懸けの発心をして約5年後・・運命が待っててくれたんでしょうか? )

これが35歳くらいの時です。

そこから聖者のもとで直にヨーガの行を伝授され難行の末3年近くの行で
急速に心の進化・変容を体験せしめられることで悟得し、心の強さ、尊さ、清さも取り戻され

その後12年で大きく飛躍しています。


 その絶頂期が

35+12=47歳

つまり天風哲人が47〜48歳のときである
1924年あたりでしょうか?

このときの会員の顔ぶれを見たら実に錚々たるものです。



 ですが、その後12年を経て1936年以降くらいから天風哲人本人の心の強さは不動ですが

個人の運勢は衰えていきます。

恐らく当時の社会状況というのもあったのでしょう。

自らのインスピレーションと信念を曲げずに孤軍奮闘で、
国賊と罵られようが戦争に反対したからだと思われます。

当時の世論の99%が狂ったように戦線拡大に向かっていた・・
新聞の論調なんかも戦争中、政府や軍の強硬派に迎合し権力におもねる形で
偏向報道が凄くなって、すべての新聞が戦争一色になっていったらしい・・



当時の報道姿勢やジャーナリズムを責めるのも実に簡単ですが・・それより、なぜ?どうして、狂ったように、こうなっていったのか?というのを研究する方が、ひょっとしたら後学の為になるのかもしれません・・・

 あの当時、良識と大局観・・冷静な国勢分析にも優れた骨のあるジャーナリストが全くいなかったとは到底思えないので・・






ちなみに・・あの当時、ある程度の影響力のある方で時の政府及び軍部に
反対の声を挙げれたのは、若槻 禮次元総理、米内光政元総理、
岡田啓介元総理、中野正剛翁、頭山満翁など、ほんの一握り・・

あまりにも少数だったと言われています。

山本権兵衛総理および原敬翁が内大臣の時に改正できた「 軍部大臣現役武官制 」

これが、復活しちゃって軍部の力があまりに増して力の均衡が崩れてしまったのも、やはり相当に痛かったのじゃないか・・

原敬翁が1920年代に暗殺されたのも実に痛かった・・



新渡戸 稲造翁も一定の影響力はあって戦線拡大に反対なさってますが、
1933年日本が国際連盟脱退した頃にお亡くなりになってます。


言論界における有識者とされる方とかも当時は率先して戦争に賛成する方々が多く、
宗教界も積極的に戦争を推し進めた宗派もあったり、
そういうのを好まない宗派についても、はっきり声を挙げて反対しなかった・・
( 雰囲気的に、もはや反対できない状況になっていったらしいです )

( 敗戦後は、なんでこんな馬鹿な戦争をしでかしたんだ・・俺も・・実は私も、この戦争には反対だったのだ・・という声が言論界や宗教界を中心に驚くほど沢山あがったらしいですが・・残念ながら後の祭りでした )




そんななかで、天風哲人は、強くインスピレートされたものもあったからだとされてますが
孤軍奮闘で戦争反対の論陣を張り

非国民と言われようが・・官憲に目を付けられ牢屋に入れられようが

軍部にわけのわからないいちゃもんをつけられて自宅を取り壊されようが、お構いなく

「 正義の戦争ではない!このまま調子に乗って
戦線を拡大し続けてったら国が危うくなる・・下手したら国としてのかたちがなくなる 」

と、開戦前・・そして開戦当初から、一貫して

「 自ら反みて縮くんば、千万人と雖も、吾往かん 」を地で行った・・と申しますか・・

大東亜( 太平洋 )戦争に反対し続けたから、心の強さや尊さは不動でも、個人としての運気は一時期衰えたのだと思われます。






私自身が、各論では、離れたところで実践研究しつつも

バックボーンについては未だに、天風哲学や心身統一法を根幹に据えて
研鑽材にしてるのは、こういったことも理由の一つになってるわけでして、


こういうの書くと長くなるので・・先を急ぎますが・・





天風哲人は1936年から9年のそういう苦難と変節を経て


1936年+9年=1945年の敗戦の国家存亡の危機の際

戦争終結・・さらなる悲劇を食い止めた陰の立役者のおひとりとして
命懸けの決断と体を張って騒乱を鎮めることで、ひっそりと活躍後

 
1945+3年後の1947〜1948年くらいから

戦争中にB29に乗って作戦参加して不時着し捕虜にされたアメリカの飛行中尉が
半殺しの目にあうような窮地に瀕した際に天風哲人が機転を利かせて助けた奇縁※もあって

当時の日本に絶大な影響を誇っていたGHQに、記念講演を依頼される等して、また少し盛り返しています。


( ※戦時中、天風哲人が自宅を潰され疎開させられていた茨城県で、B29に搭乗して東京空襲の作戦に参加してたB29の搭乗員<アメリカの飛行中尉>が、疎開先の田んぼの脇に不時着し、それを見つけた農民たちに捕えられ、にっくきアメリカの敵を捕まえた・・と大騒ぎになっていた・・

 農民を中心に村の衆が大ぜい集まって、その中尉を寄ってたかって袋叩きにし、荒縄で縛り上げて・・それが周りにも伝わって・・ものすごい大騒ぎになってたらしいですが、すぐ近くにあるお寺や教会からも助けの手は差し伸べられない・・・人道的な観点から、助け得る人がいなかったので、天風哲人から助けられた飛行中尉は・・よっぽど感動( 感激 )したのでしょう。

 戦時中でもあったし、当時の雰囲気から、勢い( 弾み )で殺されても仕方のない状況だったのではないでしょうか?

 この飛行中尉は恐らく死を覚悟してたのかもしれません。



 なぜなら、助けられた、その中尉は戦後、従軍記者になってまでして志願して、日本に行って・・名前も知らされてない天風哲人を探しまくって、お礼をしようと行動したくらいなので・・

 あの当時の状況からすると、助けるのも命懸けで簡単ではないでしょう・・
 当時のような状況じゃなかったら、スッとやれる人もいるかもしれないけど・・


あの当時だったら、( 何も考えない無垢で無我の領域から )本心・良心を煥発させて、( 何も思惟を働かせず )こういう人道的なことやるのも相当難しいはず・・

 官憲が恐ろしくて・・・敵の捕虜を助けたら憲兵に目を付けられ、自分も難癖つけられて牢屋に入れられるかもしれない・・恐ろしい・・そんなリスクは負えない・・といった判断が働くでしょう・・理性心を働かせ思惟が働いたら・・そんな状況だったと言えるかと )





その後はロックフェラー三世から請われて何十億円ものお金を積まれようが決してアメリカに行かず

 疲弊し誇りや自信を失った日本人の魂の復興の為に力を尽くしたのは、このブログ読者の方でしたら
よくご存じのことと思います。


そういった個人の史実を俯瞰すると


心の態度を積極化し生命エネルギーの状態をよく保つという点で

人との交流というのにフォーカスするなら


やはり霊性の高い方と出会って交流するのが
一番生命のエネルギーの調和を促し、心の態度を尊く清く強くするのに影響を与え、
次が金もいらず命もいらず・・というような
強烈な師・・その次が信じてくれる配偶者( <夫婦愛>のエネルギー )・・
といったような感じの階層的関係法則があるのかもしれません。


それも難しければ


 これといった生きがいや自分の人生の目的もなく努力と熱を注げる目標もなく


何をやりたいのかも決められず・・わからず・・

半ば死んだような人生を成り行きまかせに送っている人や



 気難しい人とか・・臆病で神経質で嫉妬深く・・おどおど心配性

不平・不満・・ぐち・・憎しみ・・恐れが強く消極的・・


こういった方も出来るだけ避ける



 そうして
  

 日々を意欲的に取り組んでいる方や熱を持って仕事してる方と知り合うようにする


 これだけでも心が感化され心を尊く清く強く生き生き積極的な状態で把持するのに大きく寄与します。


個人でできることは超一級の書物と出会って、本人が決意し、それをよく薫習せしめることも心の尊さや強さを把持し運勢にも関係するのではないでしょうか?

周りを高め繁栄させ幸せにした秀吉の正妻 寧々( 北の政所 )の信念に学ぶ 暗転と好転の理由

 

 今回も出来事と出来事の間( ま )・・エネルギーを高めて
運気を自然に上げ心を積極化させる福男、福女について考察してみます。




人間如何に生きたら葛藤なく命のいきおいが勢いよくなって日々幸福を感じて生きられるのか?とか・・
念願実現とか能力開発のテーマからは、やや離れるのですが、まあこういうのもいい・・と思い前回引き続き取りあげてみます。




さて


日本史のなかで福女を探索したら

これについては

豊臣秀吉の正妻の寧々( <北政所>別名<高台院> )が最もふさわしい・・

kitanomanodorokoro



このことについては異論は、ほぼないと思います。


 あまり歴史に詳しくない方でも、

この方の名前を幾度か聞いたことはあるのではないでしょうか。


現在放映中の大河ドラマ「 真田丸 」でも秀吉の正妻として、
あの鈴木京香さんが演じていたことは記憶に新しいと思います。



 寧々( 寧子 )のことはご存じなくても
 

豊臣秀吉( 藤吉郎 )は、知らない方はいないでしょう。

わたしの個人的( 信条的 )には、秀吉という方は・・うーーむ・・・という方なんですが、長所は学ぶことはできるし、あの塙保己一が尊敬していた方ということから取り上げてみます。

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この方は「 日本史上で異様な出世をした天下人 」として知られてます。




 ですが



 この人の生い立ちを含めた史実を追っていくと、
秀吉は、寧々と結婚してお互いを高めあってなかったら、どうなってたか・・
かなり危ういと思ってます。





なお


 いろんな方々がいろんな視点から豊臣秀吉の奇蹟の栄達の理由をあれこれあげています。


所説を大きく分けると「 桁違いの心の強さ 」と「 対人関係の巧さ 」でして


 
 心の強さという点では



●初志貫徹・・どんなつまらなくみえることや人の嫌がることでも
心の積極性、心の強さを発揮し
  誠心誠意( 真心 )を尽くし、小さな目標でも手を抜かず何事も辛抱強くやり遂げ続けたから




 例を挙げるなら・・


 草履取りやらせたら草履取りの職務( 役割 )を理解しこの仕事がわが生涯の仕事・・と与えられた立場で四六時中目標遂行に頭脳を巡らし誠心誠意ベストを尽くして、身の丈に合ったところで頑張って實力をつける・・・

足軽やらせたら足軽の仕事( 役割 )を理解し、これがわが生涯の天職・・と思い与えられた立場でベストを尽くし、四六時中目標遂行に気を巡らし練り続け半端なことや、いい加減なことはしない・・
そうして誠意を尽くし十二分・・小さな目標を為す、そうして自身の實力を少しずつ養っていく

そうして、器と実力を少しずつ広げることで出世の階段を上がっていく

 侍大将をやらせたら、そこでもこれまでと同じように、これが我が一生の仕事・・と思い侍大将の立場と役割を自覚し四六時中小さな目標遂行に気を巡らし与えられた職分にベストを尽して、この立場で實力を培っていく

 大名やらせたら大名の職務( 役割 )を理解し与えられた立場で・・誠心誠意ベストを尽くして職分を果たし實力をつけていったということ





「 対人関係の巧さ 」という点では


 ●誰にも憎まれない、誰からも好かれる・・人に、とても好かれる要素があったから



という2つです。( 少し私の言葉を加えてますが )



特に「 人に好かれる 」というのは
当たり前のようでいて、大事なこと・・と改めて共感してますが、




私も中学生の頃から

「 本質的なところの運命の修正は可能なのか?そのファクターは? 」

という素朴な問いとかがあって長年研究をしてることもありまして・・




 運を拓くには?ということについては、そこそこ年季が入ってますんで今回は異論を書いてみます。


 で


 結論から申しますと・・



多くの方々が秀吉という人物を研究して指摘なさってること・・

「 心の強さ、心の積極性、誠心誠意の真心 」(1)
「 人に好かれる 」(2)

(1)を貫くことが最も大事で、人に好かれるようにするのも大切なことと思ってますが


これだけじゃないと思ってるんです。








 史実を挙げながらインスピレーションの力も借りて、その理由をこれから論じていきますが・・


 先ず言えることは



  秀吉( 藤吉郎 )は、寧々に会って結婚する以前から
どんなつまらなそうな仕事も、これが我が天職とうち決めて・・誠心誠意・・
どんなきつくても心の積極性を発揮し精を出してた形跡があるんですよ。

 それに

・・人に好かれるように誠意を尽くしているふしもある

だのに挫折続きでして報われていない・・

 不遇続きと言いますか・・この方の身の上に起こる出来事が不幸で悲惨なんですよ。



これらは、wikiから引用して書いてるのが多いので、
今のところ確からしい史実とされてるものばかりです。


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